00187「江木鰐水翁七十壽序」(平野猷太郎)
「江木鰐水翁七十壽序」 00187 |
平野猷太郎 書 明治12年(1879年)3月 紙本墨書 32×133 ㎝ |
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↓読み下し | ||||||||||
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姓名印 | 雅号印 | |||||||||||
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遊印 | |||||
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訳 注 | |||||||||
廉頗(れんぱ) | 生没年不明。中国、戦国時代趙の良将。前283年(趙、恵文王の16年)将軍となり斉を討って功があり諸侯に聞こえた。藺相如と刎頚の交わりを結び、趙にこの2人があるがために秦もあえて攻撃を加えなかった。その後も秦・燕・魏・斉などを破って功があり、信平君に封じられ、仮相国となった。しかし悼襄王がたち(244B.C.)、楽乗をもって彼に代えたのを怒り、乱を起こし、ついに魏に走ったが、魏に用いられず、のち楚に迎えられた。しかしさずがの廉頗もすでに老い、楚将としても功がなく、寿春で没した。(アジア歴史事典より転載)。 | ||||||||
馬援(ばえん) | 14B.C.~49A.D. 中国、後漢の政治家。扶風・茂陵(陝西省興平県北東)の人。字は子淵。諡は忠成。はじめ郡の督郵となったが、事あって北地(甘粛省平涼市)に亡命し、牧畜を行なった。帰付する者数千家におよんだという。王莽末に新城大尹に任ぜられたが、のち隗囂に仕え、さらに光武帝にしたがった。33年太中大夫となって涼州を平定し、また隴西太守として臨洮(りんとう)(甘粛省岷県)に入寇した先零の羌人を討ち、金城放棄論をおさえて、その地を維持した。ついで虎賁中郎将に任ぜられて中央に帰り、かねてから具進していた五銖銭の鋳造を実現して民の便をはかり、また41年妖言をなす李広を皖城(安徽省懐寧県北西)に破り、さらに伏波将軍として、反乱を起こした交阯の女子徴側とその妹徴弐を討って、九真・日南・合浦をしずめ、その功によって新息侯3千戸に封ぜられた。ついで45年、北辺に入寇した匈奴・烏丸を討ち、代・上谷・漁陽の地を鎮撫し、さらに上谷塞外の烏丸を討ったが、目的を果たさなかった。さらに48年、62歳の老齢を顧みず、武陵蛮討伐の総指揮官として出陣したが、隘路をふせがれて進撃できず、熱病者続出し、馬援も発病した。やがて、かねて竇固とむすんで中央政界に不満をいだいていた虎賁中郎将梁松が、中央から問責使として派遣されてきたその直後病没した。のち事情が明らかになり、忠成と追諡された。(アジア歴史事典より転載)。 | ||||||||
臨洮(りんとう) | 中国、甘粛省南部の定西専区の県治。蘭州の南72km、黄河の支流洮河に臨む交通・商業の中心で、自動車道路は天水・蘭州に通ずる。タバコ加工場があり羊毛・皮革・カンゾウ・木材を移出し、住民にはイスラム教徒が多い。漢代の狄道県の地で(当時の県治は現位置の南西にあった)、唐代には吐蕃の支配下に入り、宋代ふたたび狄道県がおかれてそれが踏襲されたが、1928年臨洮県と改められた。この間、金・元・明の臨洮府治でもあった。古来、この地は関中から西方にいたる交通の要衝で、異民族の侵寇を受けることが多かった。宋の名将王韶がここで羌族を撃破した故事はよく知られる。なお秦代の長城の起点であった臨洮は、いまの同省岷県治とされる。 | ||||||||
頼山陽(らい・さんよう) | 頼山陽のこと | ||||||||
明治己卯(つちのと・う) | 明治12年(1879年)のこと | ||||||||
黄口(こうこう) | 黄色い口さき、鳥の雛をいう。 転じて、①こども、小さなこども。②経験の少ない未熟な者、黄吻(こうふん)。 |
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平野猶太郎(ひらの・ゆうたろう) | 備中高梁藩士。 | ||||||||
◎ | ◎ | ||||||||
(姓名印)心是風流 |
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(雅号印)思無邪(しむじゃ) |
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(遊印)鳥川 | - |
未装 |
出典1:『論語 増補版』、35頁、加地伸行著、株式会社講談社刊、2009年9月10日 |