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00027頼春風差出書状(頼春風)

 

「頼春風差出書状 00027
頼春風(頼惟彊) 差出
14×48 cm

 

 

読み
退
廿
便
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
使
 
 
 
 
使

 

大 意
                        拜上
       平安
吉兵衛船は急に柴田郡
載せ出航されたとのこと、一昨日この船が戻り
尊書が届き拝見いたしました。体調がすぐれず
二十三日よりご出勤を控えられたとのこと、そのご様子は
万四郎権次郎より詳しくお聞きいたしました。まずは○○
ご様子とも考えられず、黄連剤
適合せず和まないこともあるでしょう。
なんともご鬱悶なされることでもございましょう。
夏風邪とも相考えられず、薬を
おやめになられた後は腹部もかえって快方にむかわれて
人とご談話などされているのは、ご気分も
およろしいのでございましょう。もっともこの二三日は続いて
ご気分もすぐれられているようで、
新涼の季節ともなりますので、ご回復なされることでしょう。
何分にも、納涼をとられ、薬を減らされるのも、
追々にお始め下さい。とかく気を晴らす
工夫をなさって下さい。お薬は先だって差し上げました。
そもそも肝はいかがでしょうか。暑中を考慮して
潤肺を促す配慮もありますので、お試し下さい。
京邨病人は近頃痰も収まり快方に向かい、
少しづつ手仕事もできるようで結構なことであります。
在津紀事○○○遣わしました。さらに神辺へも遣わします。
徳見書状は、誠に大人気ないことです。詩も
送って来ています。
脇坂侯は昨日この道を通られました。
河野仁右衛門は尾道へ行っての帰り道に、こちらへ来て
普請所を見分されましたとのことで役人がお待ちしておりました。
朝鮮使者行列の図記をご覧になられました。
御手洗において写し帰った者がありました。この度も
清道旗が見えました。
一、京橋より鶴太郎へ古帷子を遣されました。
はやえ申し遣われました。為恵甚と言ってこられました。
秋にもなりましたら、この児は出府することになります。
はやえ申し試されところ、どのようにして行き来するようになれば
わけてもいいのでしょうか。産母のいやみに困る
といっているようです。そのためにも出府のことがあるのだから
特によろしくと申しております。
この前の秋、尾道の住屋友三郎へ万四郎から
託していました絹地山水について同人へ
尋ねるように申しています。
玉蘊も上京していましたが、この度帰郷されたとのこと
この間、奥村三郎(三原主人)が当方に悦びに参りまして
その物語をお聞きしました。玉蘊が京にいるということは、私が在京の
時に知ってはいたのですが、逢うとは申さないでいました。
急発使の早々に申し上げます。        恐れながら不乙
   七月四日

 

解 説
この書状には、医師としての春風の識見がよくあらわれている。

 

訳 注
頼春風の名である惟彊(ただはる)のことか
柴田郡 陸奥国柴田郡(現宮城県柴田郡)のことか
宰相のことか
解纜(かいらん) 船のともづなをとく。転じて出帆すること。繋纜(けいらん)の対。
違和(いわ) 身体の調和を失って気分がすぐれない。病気になる。
万四郎 春風の弟である頼杏坪の通称
権次郎 春風の次男である元鼎。頼山陽が廃嫡後、頼春水の家をつぐ。
黄連剤(おうれんざい) キンポウゲ科の黄連の根より作った健胃薬
新涼(しんりょう) 秋のはじめの涼しさ。初秋の涼風。
遣悶(けんもん) 気をはらす、鬱を散ずる、うさはらし、消悶
潤肺(じゅんぱい) 肺臓をうるおす
在津紀事 頼春水の紀行文
清道之旗
(せいどうのはた)
清道旗。朝鮮通信使が行列の先頭に掲げる旗。
帷子(かたびら) 麻のひとえ、夏向きのひとえ。
万弟 頼杏坪のこと
玉蘊
(ぎょくうん)
平田玉蘊のこと。天明5年(1785年)~安政2年(1855年)、尾道木綿問屋「福岡屋」平田新太郎次女、画家。玉蘊の名は春風の命名といわれる。
ここでは玉蘊のこと
不乙(ふいつ) 手紙の末にそえる語。昔、読書の際、読みかけてやめる所に、筆で「乙」としるしたことから、十分に意をつくしていないという意。不一、不具。

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、60頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日