00242『 韓非子翼毳』太田全斎
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解 説 |
『韓非子』という書の作者とされる韓非子の経歴は、詳細には伝わっていないが、『史記』(司馬遷)の韓非伝によると、韓非は韓の諸公子(庶公子ともいわれ、不遇な地位にあった公子)で、刑名法術の学、すなわち法家の学を好み、口べたであったが、著述はうまかったという。非(韓非)は、韓の国(戦国時代の七国—秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙—の中の一国)が弱く、侵略を受けるのが残念で、韓王に意見を述べたが用いられなかった。 かえって秦王(始皇帝)が韓非の説に感心して、韓非の学友である宰相李斯をして彼を秦へ招かせた。そのうち李斯は、韓非をねたんで彼を拘留させ、欺いて非を自殺させてしまった。それは紀元前233年のことと考えられ、この年に韓王は秦王に降ったのである。このように亡国にひんした韓国の公子であったからこそ、非が法治主義と権謀術数策を重んずる法家の思想家になったのも当然ともいえるのである。「法家」とは、春秋・戦国から漢代にいたる諸学派(諸子百家)をまとめた十家のうちの一家である。さて、十家中、「儒家」全盛の江戸時代中期に、何ゆえ全斎が『韓非子』の研究に取り組んだのか。その答は、全斎の注釈本『韓非子翼毳』中に求められるはずである。
この書は『韓非子』の全文(第1巻から第20巻まで)一句一句について注釈を施すという形式をとっているが、その巻頭、天明3年(1783年)5月付の序文に、著作の趣旨を述べている。書名「翼毳(よくぜい)」の「翼」とはいろいろ混成・分流している道や術を、鳥の羽翼のように左右あわせて一体として動かすようにしたい。また「毳」とは鳥の腹毛であるが、その飛行に損益がない腹毛と同じく、例えば街談巷説の類いでも、多少の益があれば、繁をいとわず広く取り上げたいという意味である。このねらいをもって研精すること10年、前述天明3年に一応脱稿したが、家計貧しくして上梓すること能わず。たまたま藩邸の近くに火災があり、長年の苦心が烏有に帰そうとしたので、享和元年(1801年)、急ぎ印刷に着手した。すなわち、この年の冬、吉田篁敦(こうとん)(水戸藩儒医)旧蔵の木活字二万個を入手し、さらに一万個の活字を補い、公事の暇に事に従ったが、病床の妻と5人の幼児の養育に力をそがれつつも、7年の歳月を費やして、遂に文化5年(1808年)、全巻20部の印刷を了えた。巻末跋文には、 |
『太田全斎『韓非子翼毳』購入資金寄贈者御芳名録』 現在誠之館同窓会が所蔵している「韓非子翼毳」は、昭和37年に発見されたとき、有志の出資を募り購入されたものです。この芳名録には、その時趣旨に賛同されて出資された方の御芳名が載せられています。 |
出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、71頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 |