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00230「鰐水江木先生七十壽序」服部拳斉

 

「鰐水江木先生七十壽序」 00230
服部拳斉 書
明治12年(1879年)4月
30.5 ×56.5 cm

 

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訳 注
(じ・に) ふたつ
刑部山田翁 山田方谷(やまだ・ほうこく)のこと。
備中松山藩儒者。文化2年(1805年)2月21日~明治10年(1877年)6月26日。
諱は球、字は琳卿、通称は安五郎、号は方谷。
備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町西方)生まれ。先祖駿河守重英は尾張国の出で、父五郎吉は備中松山藩板倉侯に仕えた。方谷はその長男。母は西谷信敏の娘・梶。
幼少より聡明、文化7年(1810年)5歳のとき新見藩丸川松陰に入門し、程朱の学を受け神童と称せられた。文政8年(1825年)仕官、二人扶持を給された。文政11年(1828年)23歳ではじめて京都に遊び寺島俊平(白鹿)に儒を学んだ。文政12年(1829年)松山藩より八人扶持を賜わり苗字帯刀を許され、有終館会長となった。天保2年(1831年)再上洛し、春日潜庵・相馬九方ら陽明学者と往来。天保6年(1835年)30歳のとき江戸に遊び、佐藤一斎に学び、佐久間象山・塩谷宕陰らと交わり、3年後に帰藩した。ついで禄16石を賜って有終館学頭となり、傍ら家塾を開き士庶の教育に尽くした。天保13年(1842年)、世子板倉勝静に進講。弘化元年(1844年)藩主板倉勝静の侍講・近習役となった。弘化4年(1847年)4月津山藩に遊び高島流砲術を習い、庭瀬藩老渡辺信義に火砲の術を問うて造兵や兵制の刷新につとめた。嘉永2年(1849)、藩主勝静のもと会計の元締兼吟味役を勤め鉱山を開き産業を興し、東奔西走して財政の改革に尽くした。嘉永5年(1852年)、軍奉行を兼ね治績は大いに挙がり、濫発の藩札を整理するなど、困難な藩財政の建て直しを図った。また賄賂を禁じ郷校を設け、水利・道路を開拓するなど10年にして藩風を一新し、勝静の信任を厚くし、禄100石を加えられて参政に任ぜられた。安政3年(1856年)、年寄役助勤となり、天災や米価暴落などにも適切に対処。万延元年(1860年)再び元締を兼ね、翌文久元年(1861年)病気で辞職。文久2年(1862年)3月勝静が寺社奉行再任よりついで老中に進むや、東行し顧問となった。文久3年(1863年)帰藩、元治元年(1864年)、長州征討の留守を守り、慶応3年(1867年)、将軍徳川慶喜の大政奉還に際しては、藩主の諮問に答え献策し至誠一貫して難局にあたった。
こうした方谷の陽明学を主として程朱をも取り入れた経世の実学へは、諸藩士より財務・国事を問うものが多かった。明治元年(1868年)戊辰戦争起こり、勝静の賊名を蒙るや、挺身よく藩の進退を導いた。廃藩後の明治6年(1873年)には請われて備前岡山の閑谷学校の再興に当った。明治10年(1877年)6月26日、小坂部(岡山県阿哲郡大佐町小阪部)にて没、享年73歳。西方村向山(岡山県高梁市中井町西片)の墓地に葬る。
著書に『山田方谷全集』、『孟子養気章解』、『孟子養気章講義』、『師門問弁録」、『王学或問解』、『方谷遺稿』など。

関連情報に山田準編『方谷先生年譜』、山田準編『山田方谷先生門下姓名録』、三島復『哲人山田方谷』、伊吹岩五郎『山田方谷』、山田琢・石川梅次郎『山田方谷・三島中洲(『叢書・日本の思想家41』)』 (出典1・出典2)
皤然(はぜん) (髪の)白いさま
淹留(えんりゅう) 久しく留まる
侍噬(じぜい) 侍して噬供すること
莞爾(かんじ) にっこり笑うさま、微笑するさま、莞然。
四時(しじ) 春夏秋冬
錯行(さくこう) かわるがわる(次々に)通って行く
蓬々(ほうほう) 盛んなさま、風が吹き起こるさま。
浮々(ふふ) 気の盛んに立ちのぼるさま、雨雪の盛んに降るさま、霧などがたちこめて動くさま、水の盛んなさま道行くさま。
飛奔(ひほん) 走り飛ぶ
潛蟄(せんちつ) 潜み隠れる、潜伏。
天年(てんねん) 天から受けた命数、寿命。
役々(えきえき) 力を労すること
設令(せつれい) たとえ、たとい、従令、設使。命令を設ける。
徜徉(しょうよう) ぶらぶら歩くこと
朗唫(ろうきん) =朗吟
乘化(じょうか) 自然のなりゆきにまかせること
丁卯(ひのと・う) 丁卯となっているが、江木鰐水翁の七十壽は明治12年・己卯のはずである。
鯨峰(げいほう) 鯨峰は江木高遠のこと
(落款)服部膺 膺は服部挙斉の名

 

出典1:『明治維新人名辞典』、1039頁、「山田方谷」、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日
出典2:『国史大辞典(14)』、174頁、「山田方谷」、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、平成5年4月1日