福山誠之館同窓会 > 所蔵品 > 00203「潜龍窩記」牧晦 

00203「潜龍窩記」牧晦 

「潜龍窩記」 00203
牧晦 書
天保3年(1832年)
30 ×122.5 cm

↓右部

↓中央部

↓左部

↓右部読み
11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
使
 
 

↓中央部読み
22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12
 

退
 

↓左部読み
33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

↓右部読み下し(1/2)
07 06 06 05 05 04 04 03 03 02 02 01
『
』
 

↓右部読み下し(2/2)
11 10 10 09 09 08 07
 
 
『
』
 

↓中央部読み下し(1/2)
17 16 16 15 15 14 13 13 13 12 11
退
 
 
 

↓中央部読み下し(2/2)
22 22 21 20 19 18
『
』
 
 

↓左部読み下し(1/2)
26 26 25 25 24 23 23 23
 
 
 
 
』
『
 

↓左部読み下し(2/2)
33 32 30 29 29 28 28 27
 
 
 
 
 
 
 
 

↓姓名印 ↓雅号印

訳 注
潜龍(せんりゅう) まだ天子の位についていない天子たるべき人、またまだ世に知られていない英雄豪傑、せんりゅう
(か) むろ、あな、岩屋、こぼみ、すみか、いえ、かくす
艮山翁(こんざん・おう)
艮山は後藤艮山(ごとう・こんざん)のこと。
後藤艮山 万次2年7月23日(1659年9月9日)~享保18年9月18日(1733年10月25日)。享年75歳、京都蓮台寺塔頭普門院に葬る。江戸時代の古方派を代表する医師。田代三喜らがもたらした金・元の医術が五行説などの空理空論に流れる傾向に対して、後漢末に張仲景が提唱した『傷寒論』に戻ることを主張した。
江戸生まれ。諱は達、字は有成、通称は左一郎、号は艮山
(こんざん)・養庵である。
林大学頭(鳳岡)に儒学を学び、牧村卜寿に医学を学んだ。
貞享2年(1685年)に父命を奉じて京都で医業を始めた。「一気滞留論」を唱え、治療は灸を施し、熊胆・蕃椒(とうがらし)を用いたことから「湯熊灸庵」と呼ばれた。『傷寒論』だけでなく、『黄帝内径』・『難経』なども参考にし、民間療法も取り入れた。空理を避けて古方派の範とされた。
医書を著すことを好まず、門人によってその言説が伝えられた。
門人には香川修徳・山脇東洋らがいる。
 (出典1)
(たん) 感動する
(にょう、ねい) おもねる、へつらう
(おう) みなごろし
(かつ) わるがしこい、みだる、みだす
淬厲(さいれい) 心をふるいおこして物事にはげむこと、つとめはげむ、淬勉。
雷煗(らいかん) 晋、豫象に精通す。武帝の時、斗牛の閒紫気有り、張華、煗に問いたるに、煗は、宝剣の精が上って天に徹したもので、豫象の豊城縣に在るといい、ために豊城令に任ぜられ、獄屋の基を掘り、龍泉・太阿の二剣を得、龍泉を華に送り、太阿を自ら佩ぶ。ある人が、二つを得て一を送る、張公をどうして欺かれようかと言えば、煗は、本朝将に乱れようとし、張公はその禍を受け、この剣は徐公の墓樹に繋けられ、霊異の物であるから必ず化し去り、永く人に佩服されぬであろうといった。張華は剣を得て、煗に書を送り、剣文を詳観すれば干将である、どうして莫邪も至らぬのか、然しながら二者は天生の神物であるから、終りには合するであろうといった。華、誅せられ、剣の所在を失い、煗、卒し、子の華が剣を持って延平津を過ぎた時、剣が水中に躍り込み、但々長さ数丈の二龍が去るのを見、華は、煗が化去するといい、先君の張華が終合といった言葉の験を歎じた。〔晋書、三十六〕・〔尚友録、四〕。 [大漢和(巻十二)39頁]
(かい) ①爛れる ②面をあらう、=沫 ③水のさま、=[氵閔] [大漢和(巻七)124頁]
鞱光(とうこう) 光を隠して外に現さないこと、才徳を隠して外に現さないこと
九泉(きゅうせん)
天保三年壬辰(みずのえ・たつ) ここでは天保3年(1832年)のこと
季春月(きしゅんげつ) 春三ヶ月の最後の月、陰暦3月のこと
(落款)牧晦
(姓名印)牧晦之印
(雅号印)牧文吉氏 文吉は牧晦の字 (出典2)

未装
出典1:『国史大辞典(5)』、910頁、「後藤艮山」、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和60年2月1日
出典2:『江木鰐水日記上』、東京大学史料編纂所編纂、岩波書店刊、昭和29年3月20日