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00139七言絶句「錦装欺賊」(江木鰐水)

 

七言絶句「錦装欺賊」 00139
江木鰐水 書
紙本軸装 124 × 32 cm
↓読み ↓読み下し

 

 

大 意
錦の直垂(錦装)を着て、我は護良親王なりと自称して賊の眼を欺き、主君護良親王を脱出させ、腹をかき切って壮烈な自刃をとげた村上義光(むらかみ・よしてる)。所は吉野蔵王堂。
この村上義光の忠義に死した美しさは、漢の高祖名臣(武将)樊(はんかい)が、敵将項羽をにらみつけた故事に比べられて、その姓名は天下に響く程美しく香しいものである(漢楚軍談)。
更に、宮をかう人も脱出させんとして一男児あり。これは村上義光の子息義隆であるが、この青年も同じこの時に国に殉じて壮烈な戦死を遂げた。
この蔵王堂決戦の場とともに、外にもあるいは金峰山寺あり。
楠正行(くすのき・まさつら)の如意輪寺ありなど、幾多の仏跡は滎陽
(けいよう)のものより遥かに多くて勝っているのである。

 

解 説
後醍醐天皇の笠置城が陥ち、楠木正成の赤坂城が落ち、備後唯一の宮内の桜山氏が自刃し、宮方の最も奮わなかった元弘3年(1333年)1月、吉野山を守っていた帝の二子護良親王の軍は、北条方の二階堂氏6万の大軍に囲まれ、奮戦空しく陥落寸前となった時のこと。

この書はその内容からして、また落款および印章がないところから、江木鰐水書 七言絶句「錦装欺賊」 05310 の下書きと思われる。
また一行目と二行目の下部が欠損状態のため補足した。

 

訳 注
芳山(ほうざん) 吉野山のことか
(けい) 小川のこと
滎陽(けいよう) 河の東
村上義光(むらかみ・よしてる) (?~1333年) 鎌倉末期の武士、護良親王の従者、信濃の人、伸泰の子。彦四郎と称し、左馬権頭に任ぜられた。元弘の乱に、護良親王に従って熊野-十津川の間を潜行し、後醍醐天皇に忠勤した。同地における芋瀬荘司が兵を率いて親王の通を阻み、進むことができず、やむなく彼らの要請を容れて錦旗を与えた。義光は後れて至り、これを知り、大いに怒って旗を奪回し、親王に追いついたという。その後親王に従って吉野に至り、鎌倉幕府の大軍と奮戦することになった。元弘3年(1333年)閏2月1日敵兵が城の前後に急迫し、親王の御座所である蔵王堂もすでに危く、親王も死を決意するに至った。時に義光は戦場から馳せ帰り、この状を見て、親王にここを遁れて再挙するように勧め、迫ってみずから親王の鎧を着し、親王の脱出するのを見届けたのち、敵を欺いて親王と称して自決した。その直後、義光の子義隆もまた親王守護して自決した。父子両人の墓(ともに奈良県吉野郡吉野町大字吉野山所在)は久しく荒廃していたが、現在は修理され完備している。明治41年(1908年)義光に従三位が追贈された。 (出典1)
護良親王(もりよし・しんのう) (?~1335年) 後醍醐天皇の皇子。母は北畠師親の女親子。誕生の年月は明らかでないが、兄弟の宮々中おそらく年長者であろうと考えられる。若くして三千院(梶井門跡)に入室、尊雲法親王と称し、のちに同門跡をつぎ、天台座主になること二度、二品に叙し、大塔宮(おおとうのみや)と号された。元弘の乱が起るや、父天皇を援けて熊野・吉野の山奥に勤王の軍事行動を執るとともに、国々諸方に令旨を発して勤王武士の奮起を促し、、楠木正成(くすのき・まさしげ)と相ならび官軍勝利のさきがけをなした。やがて還俗して護良親王と改名した。建武新政が始まると帰京し兵部卿に任じ、その声望は高く、特に将軍として兵権の中枢を掌握する観があった。そこでひそかに武家政治の再興を志す足利氏らによる讒のもとに勅勘を蒙り、関東に下され、足利直義のもとに幽閉された。やがて中先代(なかせんだい)の乱が起り、鎌倉幕府の残党北条時行らの軍が鎌倉を攻め、直義は同地を支えられず遁走するにあたり、後難を除くために建武2年(1335年)7月23日親王を鎌倉の東光寺に殺害した。 (出典2)
樊噲(はんかい) (?~189B.C.) 中国、漢の高祖の功臣。沛(はい、江蘇省沛県南東)の人。諡は武候。身分がいやしかったが、高祖が徴賤のときからしたがい、高祖が沛公となると、舎人として従軍転戦し、軍功をたてた。なかでも鴻門の会のときには、范増の計略によって高祖謀殺を図った項羽に対し、危うく高祖を救いだした。司馬遷も「樊カイ犇(はし)って営に入り、項羽を誚譲すること微(なか)りせば、沛公が漢王となると、樊カイは列公、郎中として三秦討伐に当たり、郎中騎将・将軍に任ぜられ、即位後も左丞相・相国として燕王蔵余、楚王韓信、燕王盧綰らの反乱鎮定に尽力し、舞陽候5,400戸に封ぜられた。その妻が呂后の妹であったため、高祖病床のおり呂氏の一味というので讒言をうけ殺されようとしたが、呂后の計らいで許され、その後、数年で没した。子の樊伉(はんこう)あとを継いだが呂氏の乱ののち殺され、庶腹の市人が舞陽候を継いだ。 (出典3)
出典1:『国史大辞典(第13巻)』、674頁、「村上義光」、吉川弘文館編刊、平成4年4月1日
出典2:『国史大辞典(第13巻)』、880頁、「護良親王」、吉川弘文館編刊、平成4年4月1日
出典3:『アジア歴史事典(第7巻)』、447頁、平凡社編刊、1984年4月1日