00065七言律詩「紅袖幾多」(門田重長)
| 七言律詩「紅袖幾多」 00065 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 門田重長 書 明治29年(1896年)2月2日 紙本墨書 138×41 cm |
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| ↓読み下し | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ↓姓名印 | ↓雅号印 | ↓遊印 | |||||||||||||||||||
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| 訳 注 | ||||||
| 紅袖 | 紅い袖、美女 | |||||
| 幾多 | たくさん | |||||
| 巵(し) | 大杯 | |||||
| 郎 | 若者、男子 | |||||
| 還郷 | 帰郷 | |||||
| 阿父(あふ) | 父親・おじを親しんで呼ぶさま | |||||
| 風骨 | すぐれた骨相、体格 | |||||
| 森森(しんしん) | 樹木のさかんにしげるさま、高くそびえるさま | |||||
| 氷肌(ひょうき) | 氷のようにきよらかなはだ、梅の花 | |||||
| 凛々(りんりん) | 寒さが身にしみるさま | |||||
| 勲業 | てがら、りっぱな功績のある事業 | |||||
| 明主 | すぐれた君主 | |||||
| ◎ | ◎ | |||||
| (落款)丙申(ひのえ・さる) | ここでは明治29年(1896年)のこと | |||||
| (落款)川崎辰巳君 | 退職陸軍大尉。 兵式体操の教官として明治18年(1885年)11月20日から明治29年(1896年)1月18日まで尋常中学福山誠之館に勤務した。 虎之進氏は明治20年(1887年)9月尋常中学福山誠之館を卒業。歩兵少佐となり、日露戦争において戦死。 | |||||
| (落款)杉東(さんとう) | 杉東は門田重長の号 | |||||
| (落款)重長 | 重長は門田重長のこと | |||||
| (姓名印)門田重長 | 門田重長は門田重長のこと | |||||
| (雅号印)杉東 | 杉東は門田重長の号 | |||||
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| 欧陽永叔: | 欧陽脩。1007~1072年。北宋の政治家、学者。吉州廬陵(江西省吉安県)の人。字は永叔、号は酔翁・晩年は六一居士、諡は文忠。 父の観は泰州軍事判官。4歳で進士に合格、西京留守推官となる。1036年、館閣校勘のとき、范仲淹は宰相呂夷簡にさからって知饒州に左遷されたが、欧陽脩は司諫高若訥を責めてみずからも峡州夷陵県令におろされ、次いで光化軍乾徳県令いうつる。のち復職して崇文総目を修し、進賢校理をへて知諫院のとき、朋党論を仁宗にすすめた。1044年河東に使いして河東の民苦十数事をやめるよう上奏、次いで河北都転運按察使となる。翌年、杜衍・韓琦・范仲淹・富弼らの仁宗朝の名臣はいわゆる慶暦の党議のため相次いで職を去ったが、欧陽脩は上書して、朋党を弁護したため左遷され、地方官を歴任。1054年翰林学士にうつり、黄河の治水対策に関して宰相陳執中の非を論じ、1060年には『唐書』250巻を新修して礼部侍郎、翰林侍読学士となった。枢密副使を経て1061年参知政事となり、韓琦と協力して仁宗を補佐し、英宗を皇嗣とすることに努め、また英宗の実父濮王の呼称、待遇に関して呂誨らとはげしく対立して濮議をまきおこした。神宗即位後、刑部尚書、知毫州、1068年には兵部尚書となって知青州に転じ京東東路安撫使のとき、青苗銭に反対して王安石にそしられ、知蔡州をへて太子太師を贈られた。政治家としては直言の士であり、また早くから韓愈を慕い。尹師魯、梅聖兪らと近づき、古文を復興、文章においても天下に名を成し、宋代を通じて文豪と称された。『詩本義』、『欧陽文忠公全集(帰田録・洛陽牡丹記・集古録跋尾などを含む)』、廬陵雑説』などの著書がある。史家としても国家意識を強くうち出して、『新唐書』、『新五代史』などを撰している。 (出典2) |
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| 出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、69頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典2:『アジア歴史事典2』、48頁、平凡社編刊、1984年4月1日 |