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00055七言律詩「旭章映海」(三島中洲)

 

七言律詩「旭章映海」 00055
三島中洲 書
明治13年(1880年)
紙本墨書 135×34 cm
↓読み
使

便

使

 

↓読み下し
使
便
使

 

↓姓名印 ↓雅号印 ↓遊印

 

訳 注
旭章(きょくしょう) 日の丸、日の丸の旗
(しょう) 軍の指揮に用いる旗
(うつろ) うつけ、うつろ、人を罵る語
(こう) あんどんなどの油さら、ともしび
(落款)明治庚辰
(かのえ・たつ)
ここでは明治13年(1880年)のこと
(落款)江木大書記 江木高遠のこと
(落款)吉田公使
吉田清成(よしだ・きよなり)のこと。明治7年11月駐米公使。
弘化2年(1845年)2月14日~明治24年(1891年)8月3日。明治時代前期の外交官。名は巳之次、通称は太郎、海外留学中は永井五百助・John Wesley Iwoske Nagai 。鹿児島藩士吉田源左衛門の四男。
慶応元年(1865年)3月藩留学生として森金之丞(沢井鉄馬)らと渡英、ロンドンのユニバーシティ=カレッジに2年間学ぶ。慶応3年(1867年)7月アメリカに渡り、帰米中の
宣教師S・R・ブラウンに学び、ついで明治元年(1868年)ラトガーズ=カレッジに修学、当初は海軍測量術の研究、のち政治経済に及んだ。
明治3年(1870年)12月帰国、大蔵省出仕となり租税権頭・大蔵少輔に進み、明治5年(1872年)2月理事官として七分利付外債募集のためアメリカ・イギリスに出張、明治7年(1874年)9月アメリカ特命全権公使となり、税権回復の日米条約の改正交渉を進めた(吉田・エバーツ条約)。U・S・グラント前大統領の来日につき一時帰国し、その接遇にあたった。明治15年(1882年)外務大輔となり、ついで農商務大輔兼議定官・農商務次官をつとめた。明治20年(1887年)5月子爵、ついで元老院議官、明治21年(1888年)5月枢密院顧問官。
明治24年(1891年)8月3日東京で死去した。享年47歳。墓は東京都港区の青山墓地にある。
 (出典2)
(落款)中洲 三島中洲のこと
(落款)毅(つよし) 毅は三島中洲の名
拝草 謹んで文章を書く
(姓名印)三島毅印 毅は三島中洲の名
(雅号印)字遠叔 遠叔は三島中洲の字
(遊印)○事○○主人

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品』、68頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『国史大辞典(第14巻)』、401頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、平成5年4月1日