福山誠之館同窓会 > 所蔵品 > 00046長沼澹斎肖像画(江木鰐水)

00046長沼澹斎肖像画(江木鰐水)

 

「長沼澹斎肖像画」 00046
江木鰐水 画
安政5年(1858年)3月
絹本着色 85×36 cm

 

解 説
長沼澹斎肖像画」は、長沼流創始者・長沼澹齋を描いたものである。この肖像画の由来は、会津藩軍事奉行・黒河内十太夫高定と福山藩儒・江木鰐水との連名で、画像裏に記録されている。

 

↓由緒書部分
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
使

 

由緒書読み下し
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

↓落款印

 

訳 注
(てつ)
人を呼ぶ名称の下に添えることば
松斎黒河内先生 黒河内十太夫高定(くろこうち・じゅうだゆう・たかさだ)のこと。号は松斎(しょうさい)。寛政6年(1794年)~安政5年(1858年)5月12日。享年65歳。東京白金興禅寺に葬る。
会津藩兵学者黒河内節斎の嫡孫。祖父から兵学を学び、江戸にあっては天下の士と交わり、広く名声が高まる。福山藩主阿部正弘は会津藩主に請うて、藩士たちに松斎の兵学を学ばせる。将軍徳川家慶も松斎に命じて駒場で操練を行わせ、自らも老臣を従えて見学。会津藩江戸湾警備に当たり軍事奉行となる。会津藩長沼流軍学者黒河内家中興の祖。400石。
父は黒河内十太夫揮
(くろごうち・じゅうだゆう・のうち)、号は節斎。
嫡男は黒河内十太夫高興(号・式部)、慶応4年(1868年)8月23日、戊辰戦争の際、藩主を鶴ヶ城に入城させる時戦死、享年53歳。

黒河内良(くろごうち・つかさ)、(号・盤山、初め八三と称す)は式部の第3子で、安政3年(1856年)3月16日、江戸藩邸にて生まれ、10歳より3年間藩校日新館に学ぶ。戊辰の際には僅か13歳であったが、護衛隊に属して参戦した。明治に入り永岡久茂の密命を帯び、会津よりの応募巡査22名を率いて千葉に至り、自らも巡査となって蜂起の時を待ったが、思案橋にて露見し永岡らが捕縛されると同時に良もまた捕えられ、懲役3年に処せられ、市谷監獄に幽閉される。
出獄後は、北海道に入り開拓使に奉職、後明治20年警部となり警視庁にはいり、其の後、高知・神奈川・香川各県を歴任し、明治30年南埼玉郡長となり、明治32年青森県警部長に転じ、更に秋田・香川に移り、明治37年職を辞して韓国に赴き、明治39年に京城居留民長となる。
明治43年退官。明治45年(1912年)発起人として会津会を発足させ代表幹事を務めた。大正10年(1921年)6月7日66歳にて没。
丁巳(ひのと・み) ここでは安政4年(1857年)のこと
栗原信充
(くりはら・のぶみつ)
寛政6年(1794年)7月20日~明治3年(1870年)。江戸時代後期の故実家。幼名は陽太郎。通称は孫之丞。字は伯任。号は柳葊(りゅうあん)。庭前の柳にちなむ命名といい、後年、居を向柳原に移して、柳庵・柳闇とも書く。隠居後は別号して又楽ともいう。
甲斐源氏であり、晩年に江戸を退去して武田信充とも称した。歴代、甲州巨摩郡の栗原を住居としたので、その地名を名字とした。栗原和恒の時、江戸に出て、御家人となり、奥御右筆を勤め、駿河台下の紅梅坂に居住した。和恒の長男が信充であり、寛政6年(1794年)7月20日に誕生という。父の和恒の関係から右筆所詰支配の屋代弘賢の指導をうけ、幼年よりその才能を見こまれ、莫大な輪池蔵書の閲覧を許され、弘賢に親しい柴野栗山から漢学、平田篤胤から国学を学んだといい、博覧強記をもって知られた。
寛政10年9月の屋代弘賢の『古今要覧』の凡例に見るように、このころから弘賢は幕命を奉じて『古今要覧』の稿本の編輯に没頭していたのであり、若年の信充の成人とともに、その帷幕に参加し、公用として資料の探訪・調査に東奔西走し、各地の学者・文人・工芸技術の諸家面接して、その深奥を聴聞することを得て、当時の文献中心の研究を脱皮し、実見による即物理解を根拠とする総合研究に主力を注ぎ、特に武具・馬具・古器物の名称と構造の研究に傾倒した。まさに『古今要覧』の編輯は適任を得たのであり、魚が水を得たように溌剌とした考証が堆積したが、天保12年(1841年)閏正月に総監の屋代弘賢が病没したため、頓挫のやむなきに至った。信充は、調査の傍ら細筆で筆まめに備忘の覚書・史料の抄出に巧みな略図を加えて盛んに随筆・随想をものにしたが、『古今要覧』の頓挫後、堰を切ったように自著を公刊し(『玉石雑誌』『鏨工譜略』『兵家紀聞』『応仁武鑑』『装剣備考』『続武将感状記』『木弓故実撮要』『有文錦考』の類)、ことにその子の信晁による縮図を加えた武具・馬具類の啓蒙用小冊子の横本の図式(『甲冑図式』『刀剣図式』『弓箭図式』『鞍鐙図式』『武器袖鏡』『鎧色図説』の類)は、騒然とした世相に必須の武士の教養書として迎えられた。元治元年(1864年)2月、薩摩の島津久光に招聘されて鹿児島に滞在し、木脇祐尚らの主唱になる甲冑製作所の設立に干与し、いわゆる柳葊流の鎧の指導にあたった。久光の尽力による『軍防令講義』8巻の刊行は、信充の鹿児島での講筵の成果である。
9月に上京して京都に隠棲し、明治3年(1870年)10月28日一条大宮の西で没した。77歳。遺骸は、遺言により栂尾高山寺の明恵の墓側に埋葬したという。なお埋葬地・没年・隠棲中の信充の動静には諸説があり、再考を必要とする。
(出典2)
松斎源高定 松斎源高定は黒河内十太夫高定のこと、源は出自が源氏であるということ
江木戩 戩は江木鰐水の名
(落款印)戩印
晉戈
戩は江木鰐水の名
晉戈は江木鰐水の字

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、65頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『国史大辞典4(きーく)』、934頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和59年2月1日