訳 注 |
02 |
良德公 |
阿部正弘公 |
02 |
執政 |
佐原作右衛門、内藤角右衛門、下宮三郎右衛門 |
02 |
老臣 |
吉田助右衛門、安藤織馬、齋藤貞兵衛など |
03 |
祖宗 |
阿部正勝、阿部正邦 |
03 |
熙德公 |
8代・阿部正倫 |
04 |
弘道館 |
天明6年8月福山西町西壕側に創める。弘道とは論語による。安政元年誠之館創立までの68年。
儒者および見習を挙げると、伊藤家は文学総纏で、伊藤弘亭・鈴木圭輔・衣川吉蔵・山室武左衛門・伊藤良炳・伊藤長文・田中定安・山室時直・衣川作蔵・鈴木秉之助・伊藤良有・伊藤元善、および菅茶山・北條霞亭がいた |
04 |
謙德公 |
9代・阿部正精 |
04 |
丸山校 |
本郷丸山に誠之学舎を建った |
04 |
孜々(シシ) |
つとめいそしむさま |
05 |
孤 |
王侯の謙称。正弘公が自ら言った |
06 |
制度 |
学館の諸規則 |
08 |
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読み: |
文武を混一 |
解説: |
従来は文家武家とも各々自家にて教えていた(文家としては、伊藤、衣川、山室など、武家では、川崎家の自現流剣術、吉田家の日置流弓術など)。
弘道館設立以後は、文家は合同で館内で教えたが、武家は依然として自家で教えた。
誠之館設立以後は、文武ともに館内で教えた。 |
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08 |
武榭(ブシャ) |
内室のない堂屋。また武技を講習する家。道場。 |
10 |
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出典: |
礼記 |
読み: |
「語かつ学びかつ息(いこ)う」 |
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11 |
士風一變 |
士風が善い方に豹変すること。 |
12 |
幕府 |
天朝に忠でなければならないとして天朝に忠し、幕府に忠する。いずれも上を尊ぶということであるが、当時は幕府を崇むる故にこのように言った。また福山藩は徳川氏の親藩普代なので、このように言った |
12 |
父祖 |
祖父は阿部正倫、父は阿部正精。 |
14 |
稽首(ケイシュ) |
(1)頭を地につけて敬礼する。また、その敬礼。 (2)頭を腰から下にさげること
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14 |
嘉永七年 |
=安政元年。(安政は11月27日に改元) |
14 |
地 |
福山中学校(霞町校舎)の地 |
14 |
城 |
敵追山(てきおいざん)久松城。 |
15 |
展 |
のべひらく |
15 |
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読み: |
工善く吏勤む |
解説: |
袁州学記中の語、工匠も普請掛も善く勤める |
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15 |
三閲月 |
10月、11月、12月 |
16 |
局 |
1区室、すなわち所定の居場 |
17 |
楹(エイ) |
はしら。まるく、太い柱 |
17 |
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読み: |
夫子の堂 |
解説: |
黒漆塗の大櫛形に細目の明り障子をはめ、中に阿部正倫公筆の孔子書幅、及び阿部正精公下賜の孔子銅像を安置す |
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17 |
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17 |
句讀 |
「有司の廬」の南より西に折れたる各室であった。誠之館総纏は齋藤貞兵衛にて文學纏は門田尭佐で、その下に江木繁太郎、山室武左衛門、衣川作蔵、北條新助、糸井亮介、矢島槌六郎、田村彌七郎、門田重長、菅普賢など。他に関藤藤陰、五弓久文などがいた。
以上、就業時期に前後はあるが、大筋これらの人々であった。以下も同様である |
17 |
禮法 |
堀源三郎、豊浦與三郎、阿部首令 |
17 |
國史 |
松本長米 |
17 |
書 |
池田源吾、鳥山虎太、池田顕蔵、福山新六 |
18 |
數 |
佐藤保左衛門、落合泉助、荒木一助、小林德次郎、鈴木蔵太 |
18 |
醫學 |
小林亨齋、桑田恒庵、鼓泰安 |
18 |
洋學 |
蘭学であり、寺地強平 |
18 |
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読み: |
凡そ文の事、在らざる所無し |
解説: |
文のことは、悉く館中に具わっている |
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19 |
先勝堂 |
六トウの語による正弘公の命名である |
19 |
兵法 |
江木繁太郎、新居貞之助、下宮講之進、矢島槌六郎、大平郁之助、磯貫一郎、竹島茂、近藤求馬、田村彌七郎、甲州流大橋源総兵衛、野島流舟師今村左橘、三好三平 |
20 |
燕 |
醼(えん)と同じ。くつろいで語り合うこと。 |
20 |
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読み: |
廻廊以って通ず |
解説: |
全館のどこへでも廻廊で通じている |
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21 |
武榭(ブシャ) |
内室のない堂屋。また武技を講習する家。道場 |
21 |
劔 |
自現流(田中湊、川崎加守、河内俊雄、豊浦入江)
身捨流居合術(下宮治右衛門、下宮助兵衛、大和四方之助、高島鐡之助など) |
21 |
槍 |
無邊流(内藤權五郎、海塩又蔵、鶴岡太郎右衛門、楢崎十兵衛、小川隼雄、坂茂左衛門、今福新次郎)
佐分利流(佐分利源之進、佐分利猪九太) |
21 |
弓 |
日置流(吉田助右衛門、吉田介之進、吉田彌五左衛門、横山喜太治)
印西流(柴崎彈次兵衛、柴崎彈之亟、中山斧助、松村綱五郎)
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22 |
銃 |
富岡流(天海文九郎、鈴鹿新之亟)
荻野流(日村伯平、日野藤兵衛)
古田流(大島四郎兵衛、大島市蔵、内藤權五郎)
榊山流(綱川馬之助)
四洋流(伊藤兵重郎、百々三郎、堀幾馬) |
22 |
調馬 |
大坪流(大野健介、田中諒兵衛、不破誠兵衛、天野藤馬) |
22 |
拳法 |
直心流(岩崎東内、岩崎保三郎)
轉心流(小田切豊、三井岩五郎、掛川利右衛門)
竹内流(下宮理左衛門、湯原彌五郎)
起倒流(關槍一郎) |
22 |
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23 |
誠之館 |
附記 丸山に設けた誠之舎の教師は、太田全斎、伊澤蘭軒のように常府の者もいたが、弘道館時代と同じように、時に応じて在籍している人材を活用した |
23 |
武 |
半歩のこと |
23 |
別墅(ベッショ) |
しもやしき。別荘。代々藩主の下屋敷である。小さな二階建て。今の南小学校のあたりにあった。 |
23 |
遊讌 |
(1)さかもり(宴)。さかもりをする。 (2)くつろぐ。 (3)集まって語り合う。 |
24 |
塡メ |
しづめ |
24 |
教塲 |
調練塲 |
24 |
東西四町 |
東は今の昭和町(霞本通の延長線と南本通との交差点)より安楽寺裏まで |
25 |
南北二町 |
霞町校舎(今の中央公園一帯)西横より南道三川まで |
25 |
規模 |
学館の建物が大きく、敷地が広い |
25 |
制度 |
諸学科、諸規則 |
26 |
素定 |
良徳公が最初から予案どおり |
26 |
明年 |
安政2年 |
26 |
上元 |
一月十五日を上元という。実は一月十六日に開講した |
28 |
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28 |
密書官 |
河村九十九(かわむら・つくも) |
28 |
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読み: |
公の書 |
解説: |
良徳公は、当時老中頭で外交に関して極めて多忙であったため、來国せず書を送って来られた。 |
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29 |
紹述 |
中庸に夫孝者、繼人之志、善述人之事也とあり、二公が専ら忠孝をすすめられた意を、正弘公が継承して擴(ひろ)めた |
29 |
先公 |
正倫、正精 |
30 |
士道 |
士とは志である。しっかりと確信して正しい道を盡くさなくてはならない |
31 |
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読み: |
心志を定め |
解説: |
事を為し道を行なうには、人の常の道を拠所として行なえよ |
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31 |
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読み: |
不慮に備ふ |
解説: |
当時は、特別に外交事件が多発していた |
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34 |
稽首(ケイシュ) |
(1)頭を地につけて敬礼する。また、その敬礼。 (2)頭を腰から下にさげること |
34 |
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読み: |
科試の法 |
解説: |
分科であれば、十七歳で小學、十八史略、四書などの講義ができれば中段の免許となり、家録十二石と二人扶持を授けられる。
二十歳迄に五經の講義ができれば上段の免許となり、家録も高くなるといった具合である。
今までは十七歳になると十二月に召し出されて十二石二人扶持が、成績に関係なく授けられたが、この度の改正により、藩士は必死で勉強したが、この試験法には大いに苦しんだという |
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35 |
彬々(ヒンピン) |
(1)十分に備わっていること。(2)盛んで鮮やかなこと。
論語に、文質彬々然後君子というのがある |
36 |
薨(コウ) |
死ぬ。みまかる。諸侯が死ぬ。わが国では皇族、または三位以上の人の死に用いる。
良徳公は、その成功を見られずに、安政四年六月十七日三十九歳で薨(こう)じた |
37 |
公 |
阿部正教公、正弘公の子として継いだ。実際には、正弘の庶兄阿部正寧の子である |
38 |
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読み: |
成を受くる者 |
解説: |
正教公にしても、諸大夫にしても |
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39 |
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読み: |
知らざれば |
解説: |
良徳公が、文武を奨励し学校を建てるのに大変苦労したことを知らないので |
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39 |
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読み: |
奉行の意 |
解説: |
正教であれ、諸太夫にしても、良徳公の意を奉行することが |
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40 |
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読み: |
未だ能はざらん今日の如くなる |
解説: |
今日の盛の如くなること能はざるあらんか |
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40 |
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読み: |
有志者恐れ |
解説: |
良徳公の意を失墜してしまうことを恐れ |
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40 |
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読み: |
石を建て |
解説: |
水戸弘道館にては徳川齊昭自ら館記を作り、一丈二尺の寒水石に刻し建碑したので、和藩においてもこれに倣って建碑しようとしたが、未だ実現せず、残念なことである |
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41 |
二公 |
正倫、正精 |
41 |
戩 |
江木鰐水の名 |
42 |
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読み: |
命ぜられ其筆を執る |
解説: |
正教公に命ぜられてかく |
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42 |
先公 |
正弘公 |
43 |
|
読み: |
盡(つ)きたり |
解説: |
正弘公の予定通りに建築の議が作成された |
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43 |
|
読み: |
先公の書にて備れり |
解説: |
正弘公の手紙の趣意で、規則の精神は理解されているので |
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44 |
發 |
開くの意 |
44 |
|
読み: |
畢(お)へん |
解説: |
館名誠之の意味について、正弘公の意を一言で概括して説明する |
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44 |
公 |
正弘 |
45 |
|
読み: |
誠は天の道 之を誠にするは人の道なり |
解説: |
中庸の句である。誠とは天が与えたてくれる尊い道なので、素直に誠であるということは天道の自然であるけれども、これは聖人の生智安行に属するものであるので、人々にとってはなかなか困難なことではあるが、努力し実行すれば天道誠となる。
これは人の道であり、人の為である。
だから奮勉努力して學智利行や困智勉行を行なって一生懸命善きを擇(えら)んで、逃さないようにし、學問智辨行の五を懈(おこた)らず、百之千之して人道を尽さなければならない。
中庸に、誠者勉めずして中、思わずして得、従容中道、聖人也、之誠者善を択び面固之に執者なりというので、この心得を教育に取り入れるよう良徳公が命名された訳である |
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45 |
先公 |
正弘公 |
46 |
身 |
実践躬行する |
46 |
|
|
46 |
|
読み: |
家邦に臨めり |
解説: |
一には福山の民に孝の精神で接する |
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47 |
學故 |
學事の引き立て方。 |
47 |
|
読み: |
封を嗣ぎ |
解説: |
正弘公、天保7年封をつぐ |
|
47 |
|
読み: |
薨年に至るまで |
解説: |
安政4年6月薨去まで24年間 |
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47 |
終始一誠 |
中庸の所謂誠なるもので終始一貫された |
47 |
|
読み: |
菲薄自ら奉じ |
解説: |
正弘公、手元を切り詰めて一千両を積んで誠之館を創設した |
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48 |
|
読み: |
學費を優給せらる |
解説: |
正弘公、幕府西域の焼後再建の功労その他により、1万石が加増された。この加増分を年々の学費に充てられた。また薨後に正弘公在世中の倹約金2500両を、正教公より本館学費に充てられた。 |
|
48 |
志 |
館を建て文武を励まし、国家の多事に備えた |
49 |
今公 |
正教公 |
49 |
|
読み: |
承けて之を繼ぐ |
解説: |
正教公、封土を襲領するだけではなく、館名の意味をも益々盛んにした |
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49 |
躬行(キュウコウ) |
みずから行なう。自分自身で実際に行なう |
50 |
心得 |
人君たるもの忠孝の道を会得し実行して、下を率いるという意味である。これは學庸の中で、しばしば言われている |
50 |
庶幾(チカシ) |
近い、今にもそうなりそうだの意。
これにちかしの意味。更に躬行したいと願う意味を強調している |
52 |
|
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52 |
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読み: |
二公の意 |
解説: |
正倫・正精の二公が弘道館を建て、ついで正弘・正教が誠之館において忠孝を勧め、文武を励まされたことを指す |
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52 |
淬勵(サイレイ) |
淬はにらぐ。焼きを入れる。刀などを鍛える時、質を堅くするため、赤く熱して急に水に入れること。勵ははげむ、つとめる。はげます。すすめる。淬厲とは、心をふるいおこして物事にはげむこと。つとめはげむ。 |
52 |
已(やむ) |
やむ |
52 |
簾恥(レンチ) |
正直で、曲がったことをしない。廉正。 |
53 |
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出典: |
『左傳』 |
読み: |
美を濟(す)ます |
解説: |
『左傳』に、「世濟其美、不隕其名と美しきを成すなり」とある |
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53 |
先公 |
良徳公 |
58 |
江木戩 |
通称=繁太郎、諱=貞通、名=戩、字=晋戈、号=鰐水。江木鰐水のこと。 |
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◎ |
◎ |
60 |
(落款)津山義道 |
津山義道は津山義道(碧山)のこと |
- |
(姓名印)義道 |
義道は津山義道(碧山)のこと |
- |
(雅号印)碧山閑人 |
碧山は津山義道の号 |