福山誠之館同窓会 > 所蔵品 > 00044巻子「誠之館之記」(江木鰐水 撰 津山義直 書)

00044巻子「誠之館之記」(江木鰐水 撰 津山義直 書)

 

巻子「誠之館之記」  00044
江木鰐水(江木晋戈) 撰  文久元年(1861年)
津山義道(津山碧山) 書  明治17年(1884年)
紙本墨書 巻子 29 × 133 cm
巻子「誠之館之記」

 

↓前半部分

 

↓中央部分

 

↓後半部分

 

↓前半部分(1/2)
10
09
08
便
07
06
05
04
 
03
 
02
01

 

↓前半部分(2/2)
20
19
 
18
17
16
15
14
13
12
使
 
11

 

↓中央部分(1/2)
30
29
 
28
 
27
26
25
24
西
23
22
調
21

 

↓中央部分(2/2)
40
39
38
37
 
36
 
35
34
退
33
32
31

 

↓後半部分(1/2)
50
49
 
48
47
46
 
45
 
44
 
43
 
42
 
41
 

 

↓後半部分(2/2)
60
59
 
 
58
 
 
 
 
 
 
 
57
 
56
55
54
53
 
52
 
51

 

誠 之 館 記
01 良徳りょうとくこうほうぎて十七年、執政しっせい老臣ろうしんくだしていわく、
「人材教育のことは、祖宗そそう以来いらい、深く意をとどむ、熙徳きとくこう弘道館こうどうかんはじ謙徳けんとくこう丸山校まるやまこうみな斯学しがく孜々ししせらる。
04 不肖ふしょう嗣立しりつ以来、こころざし紹述しょうじゅつそんす。
05 二三の老臣ろうしんまた力をつくさざるにあらず。
06 しかるに文武いまはなはふるはざる者は、けだし制度のそなわらざるをもつてなり。
07 しばらく先君建学けんがくの意をたずね国校を改築かいちくし、規模を恢廣かいこうし文武を混一こんいつして、以て講習こうしゅう便びんせん。
08 子弟学にめば、武榭ぶしゃりてわざくら奮厲ふんれい(励)発揚はつよう、以て筋骨きんこつかたむ。
09 身体疲労すればすなはち又どうのぼりて書を読み、黙座もくざ静観せいかんもつて気力をやしなふ。
10 遊びいこふ、終日しゅうじつ学にりて、自然感発しぜんかんぱつとくせきを待たずして、文武ぶんぶならび進み、士風しふう一変せば、すなわれ孤をして幕府に忠に父祖に孝ならしむるなり。
12 しかれどもひと子弟していむるのみならず、望む所は老臣大吏たいりみずかこれひきゐるにるなり。」と。
14 しゅうみな感激稽首けいしゅしてめいほうず。
14 嘉永かえい七年秋、地を城の東南にはかり、土木さかんおこり、日夜力をぶ。
15 こうつとむ、三閲月さんえつげつにしてる。
16 講堂は南面し、館門は北出す
16 べて二十有五局、幾百いくひゃくえい
17 夫子ふうしの堂・有司ゆうし句読くとう・礼法・国史・書・数・医学・洋学・およそ文の事、在らざるところし。
18 講堂の正南を、先勝堂せんしょうどうし兵法を講習す。
19 東北はすなわ公上こうじょうえつえんきゅうところす。
20 みな別宇べつうこれを築き、廻廊かいろうもつて通ず
20 共に数十えいそのほかすなわかんすに武榭ぶしゃを以てす。
21 おくつくること大小十九、剣槍・弓・銃・調馬ちょうば・拳法・およそ武の事、くる有るもの無し。
22 名づけて之を合せ誠之館とふ。
23 館のひがし数百、本と別墅べつしよゆうえんの地、樹をり池をうずめたいらかにして兵馬の教場とす。
24 館内と通じてこれはかるに、東西四町、南北二町、規模の大なる、制度のそなわれる、一に公の素定の如し。
26 またさかんなりとふべし。
26 明年春正月上元開講す。
27 藩の子弟、盛服して講筵こうえんに上る者千有余人、執政諸有司皆位有り。
28 密書みっしょかん進みて公の書を読みて曰く、
28 ここに文武の学校を経営する者、ひそか聖賢せいけんおしえ源本げんぽんせんこうこころざししょうじゅつするなり。
30 れ士たる者はまさ士道しどうを尽し、経義きょうぎ根拠こんきょして、以て心志を定め、武技を練習して以て不慮ふりょそなふべし。
31 文武ぶんぶかね学びて偏廃へんぱいすべからず。
32 言行をつつしみ、風習を美にし、大節たいせつのぞみては、最もまさに学ぶ所にそむかざるべし。
33 臣とりては忠、子とりては孝、要は士名にぢざるにるなり。」と。
33 く者、みなふく稽首けいしゅして退しりぞく。
34 ここおいて、学政がくせい一新いっしん、科試の法厳正げんせいとなり、文武ぶんぶ科に入らざる者は、仕進ししんするを得ず。
35 一藩の子弟、彬々ひんぴんとして学に向ひ、日にるべき有り。
36 おしいかな、中道ちゅうどうにしてこうこうじ、そのなるを見るに及ばず。
36 さいわいに今こう承継しょうけいこころざしはなはあつく、督責とくせきの政、数数挙行きょこうせらる。
38 すなわち学校のさかんなること、くわふる有りて衰ふる無きやひつせり。
38 しかりといえども、後のしてるを受くる者、振興のろうかくごとつとめられしを知らざれば、すなわ奉行ぶぎょうの意、あるいいま今日こんにちごとくなることあたはざるなり。
40 有司者ゆうししゃ恐れ、あいはかりて、石を建ててこう勤苦きんく埀統すいとうの事を略記りゃっきし以て後臣こうしんに示さんとほっす。
41 せんとぼしきを儒員じゅいんけ、命ぜられそのふでる。
42 嗟夫ああ斯校しこう建立こんりゅうは、先公せんこうにて尽きたり。
43 斯学しがくの規則は、先公の書にてそなわれり。
43 せんまた何をか言はんや。
44 ひと館名かんめい誠之の義をひらきて、以て公の意をへんとす。
45 曰く、「まことは、天の道これを誠にするは人の道なり。」と。
45 うやうやしおもんみるに、先公、誠之せいしの道を身づからして、以て幕庭ばくていほうじ、以て家邦かほうのぞめり。
46 其の学政がくせいける、最も心を尽したまふ。
47 ほうぎてより、薨年こうねんに至るまで、終始一しゅうしいっせい菲薄ひはく自らほうじ、学費をゆうきゅうせらる。
48 ゆえ盛大せいだいきょついそのこころざしせり。
49 今公、至誠しせいもてけてこれを継ぐ。
49 所謂いわゆる人君じんくん躬行きゅうこう心得こころえこれもとづくるものちか
50 かみ誠を以てこれひきゐ、しもあえて誠を以て之に応ぜざれば、すなわち何をもつ臣子しんしたらん。
51 の館に入る者は、あおぎてこうの意を体し、至誠感発かんぱつ淬厲さいれいまず。
52 廉耻れんち風をし、文武美をす。
53 すなわおおいに先公在天の霊を慰め、今公淬励さいれいの意を成すなり。
54 すなわち忠、即ちすなわち孝、なんかならずしも他日を待たん。
55 かくごとくして士始めて士名しめいぢず、誠之の館誠之の名にぢざるなり。
57  文久元年春三月
58       福山藩儒官 江木戩  謹撰
59  明治十七年仲春応 石井雅兄需書
60              津山義道

 

↓姓名印 ↓雅号印

 

解 説
阿部正弘の意図を体し、力をつくして誠之館の創設にあたった江木鰐水は、正弘の死後、養嗣子正教の命をうけ、誠之館建学の由来とその精神、施設の概要などを記述して、先君の意志を永く後世に伝えようとした。

この館記の起草にあたっては、鰐水は何回も修正の手を加えて十全を期しているが、明治17年仲春(2月)、書家津山義道(津山碧山)が揮毫したのは、文久元年(1861年)改訂のものである。ここでご注意を願いたいのは、本文終りより10行目、「其於学故最盡心焉」の個所である。鰐水自筆の原文には「其於学政とある。

なお、この「誠之館記」は、明治27年以降、毎年挙行された「開校記念日」においては、必ず全文が朗読された。また、大正15年の皇太子殿下行啓の記念として、翌昭和2年5月24日、「誠之館記碑」が霞町校舎前庭に建立されたのである。その「誠之館記碑」は、三吉町校舎への移転に伴い、昭和9年(1934年)5月19日、三吉町校舎本館前へ移転設置された。さらに木之庄校舎への移転に伴い、昭和44年(1969年)に再度移され、現在、この「誠之館記碑」は、木之庄キャンパスの誠之館記念館前にある。

 

訳 注
02 良德公 阿部正弘
02 執政 佐原作右衛門内藤角右衛門下宮三郎右衛門
02 老臣 吉田助右衛門安藤織馬、齋藤貞兵衛など
03 祖宗 阿部正勝、阿部正邦
03 熙德公 8代・阿部正倫
04 弘道館 天明6年8月福山西町西壕側に創める。弘道とは論語による。安政元年誠之館創立までの68年。
儒者および見習を挙げると、伊藤家は文学総纏で、
伊藤弘亭鈴木圭輔衣川吉蔵山室武左衛門伊藤良炳伊藤長文・田中定安・山室時直衣川作蔵鈴木秉之助伊藤良有伊藤元善、および菅茶山北條霞亭がいた
04 謙德公 9代・阿部正精
04 丸山校 本郷丸山に誠之学舎を建った
04 孜々(シシ) つとめいそしむさま
05 王侯の謙称。正弘公が自ら言った
06 制度 学館の諸規則
08
混一文武
読み: 文武を混一
解説: 従来は文家武家とも各々自家にて教えていた(文家としては、伊藤、衣川、山室など、武家では、川崎家の自現流剣術、吉田家の日置流弓術など)。
弘道館設立以後は、文家は合同で館内で教えたが、武家は依然として自家で教えた。
誠之館設立以後は、文武ともに館内で教えた。
08 武榭(ブシャ) 内室のない堂屋。また武技を講習する家。道場。
10
遊焉息焉
出典: 礼記
読み: 「語かつ学びかつ息(いこ)う」
11 士風一變 士風が善い方に豹変すること。
12 幕府 天朝に忠でなければならないとして天朝に忠し、幕府に忠する。いずれも上を尊ぶということであるが、当時は幕府を崇むる故にこのように言った。また福山藩は徳川氏の親藩普代なので、このように言った
12 父祖 祖父は阿部正倫、父は阿部正精。
14 稽首(ケイシュ) (1)頭を地につけて敬礼する。また、その敬礼。 (2)頭を腰から下にさげること
14 嘉永七年 =安政元年。(安政は11月27日に改元)
14 福山中学校(霞町校舎)の地
14 敵追山(てきおいざん)久松城。
15 のべひらく
15
工善吏勤
読み: 工善く吏勤む
解説: 袁州学記中の語、工匠も普請掛も善く勤める
15 三閲月 10月、11月、12月
16 1区室、すなわち所定の居場
17 (エイ) はしら。まるく、太い柱
17
夫子堂
読み: 夫子の堂
解説: 黒漆塗の大櫛形に細目の明り障子をはめ、中に阿部正倫公筆の孔子書幅、及び阿部正精公下賜の孔子銅像を安置す
17
有司廬
読み: 有司の廬
解説: 夫子の堂の南室
17 句讀 「有司の廬」の南より西に折れたる各室であった。誠之館総纏は齋藤貞兵衛にて文學纏は門田尭佐で、その下に江木繁太郎山室武左衛門衣川作蔵北條新助糸井亮介、矢島槌六郎、田村彌七郎、門田重長、菅普賢など。他に関藤藤陰五弓久文などがいた。
以上、就業時期に前後はあるが、大筋これらの人々であった。以下も同様である
17 禮法 堀源三郎、豊浦與三郎、阿部首令
17 國史 松本長米
17 池田源吾、鳥山虎太、池田顕蔵、福山新六
18 佐藤保左衛門、落合泉助、荒木一助、小林德次郎、鈴木蔵太
18 醫學 小林亨齋、桑田恒庵、鼓泰安
18 洋學 蘭学であり、寺地強平
18
凡文之事無所不在
読み: 凡そ文の事、在らざる所無し
解説: 文のことは、悉く館中に具わっている
19 先勝堂 六トウの語による正弘公の命名である
19 兵法 江木繁太郎、新居貞之助、下宮講之進、矢島槌六郎、大平郁之助、磯貫一郎、竹島茂、近藤求馬、田村彌七郎、甲州流大橋源総兵衛、野島流舟師今村左橘、三好三平
20 (えん)と同じ。くつろいで語り合うこと。
20
廻廊以通
読み: 廻廊以って通ず
解説: 全館のどこへでも廻廊で通じている
21 武榭(ブシャ) 内室のない堂屋。また武技を講習する家。道場
21 自現流(田中湊、川崎加守、河内俊雄、豊浦入江)
身捨流居合術(下宮治右衛門、下宮助兵衛、大和四方之助、高島鐡之助など)
21 無邊流(内藤權五郎、海塩又蔵、鶴岡太郎右衛門、楢崎十兵衛、小川隼雄、坂茂左衛門、今福新次郎)
佐分利流(佐分利源之進、佐分利猪九太)
21 日置流(吉田助右衛門、吉田介之進、吉田彌五左衛門、横山喜太治)
印西流(柴崎彈次兵衛、柴崎彈之亟、中山斧助、松村綱五郎)
22 富岡流(天海文九郎、鈴鹿新之亟)
荻野流(日村伯平、日野藤兵衛)
古田流(大島四郎兵衛、大島市蔵、内藤權五郎)
榊山流(綱川馬之助)
四洋流(伊藤兵重郎、
百々三郎、堀幾馬)
22 調馬 大坪流(大野健介、田中諒兵衛、不破誠兵衛、天野藤馬)
22 拳法 直心流(岩崎東内、岩崎保三郎)
轉心流(小田切豊、三井岩五郎、掛川利右衛門)
竹内流(下宮理左衛門、湯原彌五郎)
起倒流(關槍一郎)
22
読み: 凡そ
解説: およそ
23 誠之館 附記 丸山に設けた誠之舎の教師は、太田全斎伊澤蘭軒のように常府の者もいたが、弘道館時代と同じように、時に応じて在籍している人材を活用した
23 半歩のこと
23 別墅(ベッショ) しもやしき。別荘。代々藩主の下屋敷である。小さな二階建て。今の南小学校のあたりにあった。
23 遊讌 (1)さかもり(宴)。さかもりをする。 (2)くつろぐ。 (3)集まって語り合う。
24 塡メ しづめ
24 教塲 調練塲
24 東西四町 東は今の昭和町(霞本通の延長線と南本通との交差点)より安楽寺裏まで
25 南北二町 霞町校舎(今の中央公園一帯)西横より南道三川まで
25 規模 学館の建物が大きく、敷地が広い
25 制度 諸学科、諸規則
26 素定 良徳公が最初から予案どおり
26 明年 安政2年
26 上元 一月十五日を上元という。実は一月十六日に開講した
28
有位
読み: 位有り
解説: 役順に座位を決めた
28 密書官 河村九十九(かわむら・つくも)
28
公之書
読み: 公の書
解説: 良徳公は、当時老中頭で外交に関して極めて多忙であったため、來国せず書を送って来られた。
29 紹述 中庸に夫孝者、繼人之志、善述人之事也とあり、二公が専ら忠孝をすすめられた意を、正弘公が継承して擴(ひろ)めた
29 先公 正倫、正精
30 士道 士とは志である。しっかりと確信して正しい道を盡くさなくてはならない
31
定心志
読み: 心志を定め
解説: 事を為し道を行なうには、人の常の道を拠所として行なえよ
31
備不慮
読み: 不慮に備ふ
解説: 当時は、特別に外交事件が多発していた
34 稽首(ケイシュ) (1)頭を地につけて敬礼する。また、その敬礼。 (2)頭を腰から下にさげること
34
科試法
読み: 科試の法
解説: 分科であれば、十七歳で小學、十八史略、四書などの講義ができれば中段の免許となり、家録十二石と二人扶持を授けられる。
二十歳迄に五經の講義ができれば上段の免許となり、家録も高くなるといった具合である。
今までは十七歳になると十二月に召し出されて十二石二人扶持が、成績に関係なく授けられたが、この度の改正により、藩士は必死で勉強したが、この試験法には大いに苦しんだという
35 彬々(ヒンピン) (1)十分に備わっていること。(2)盛んで鮮やかなこと。
論語に、文質彬々然後君子というのがある
36 (コウ) 死ぬ。みまかる。諸侯が死ぬ。わが国では皇族、または三位以上の人の死に用いる。
良徳公は、その成功を見られずに、安政四年六月十七日三十九歳で薨(こう)じた
37 阿部正教公、正弘公の子として継いだ。実際には、正弘の庶兄阿部正寧の子である
38
受成者
読み: 成を受くる者
解説: 正教公にしても、諸大夫にしても
39
不知
読み: 知らざれば
解説: 良徳公が、文武を奨励し学校を建てるのに大変苦労したことを知らないので
39
奉行之意
読み: 奉行の意
解説: 正教であれ、諸太夫にしても、良徳公の意を奉行することが
40
或未能如今日
読み: 未だ能はざらん今日の如くなる
解説: 今日の盛の如くなること能はざるあらんか
40
有志者恐
読み: 有志者恐れ
解説: 良徳公の意を失墜してしまうことを恐れ
40
建石
読み: 石を建て
解説: 水戸弘道館にては徳川齊昭自ら館記を作り、一丈二尺の寒水石に刻し建碑したので、和藩においてもこれに倣って建碑しようとしたが、未だ実現せず、残念なことである
41 二公 正倫、正精
41 江木鰐水の名
42
命執其筆
読み: 命ぜられ其筆を執る
解説: 正教公に命ぜられてかく
42 先公 正弘公
43
読み: (つ)きたり
解説: 正弘公の予定通りに建築の議が作成された
43
先公之書備
読み: 先公の書にて備れり
解説: 正弘公の手紙の趣意で、規則の精神は理解されているので
44 開くの意
44
読み: (お)へん
解説: 館名誠之の意味について、正弘公の意を一言で概括して説明する
44 正弘
45
誠者天之道
誠之者人之道
読み: 誠は天の道 之を誠にするは人の道なり
解説: 中庸の句である。誠とは天が与えたてくれる尊い道なので、素直に誠であるということは天道の自然であるけれども、これは聖人の生智安行に属するものであるので、人々にとってはなかなか困難なことではあるが、努力し実行すれば天道誠となる。
これは人の道であり、人の為である。
だから奮勉努力して學智利行や困智勉行を行なって一生懸命善きを擇
(えら)んで、逃さないようにし、學問智辨行の五を懈(おこた)らず、百之千之して人道を尽さなければならない。
中庸に、誠者勉めずして中、思わずして得、従容中道、聖人也、之誠者善を択び面固之に執者なりというので、この心得を教育に取り入れるよう良徳公が命名された訳である
45 先公 正弘公
46 実践躬行する
46
奉幕庭
読み: 幕庭に奉じ
解説: 一には幕府に忠し
46
臨家邦
読み: 家邦に臨めり
解説: 一には福山の民に孝の精神で接する
47 學故 學事の引き立て方。
47
嗣封
読み: 封を嗣ぎ
解説: 正弘公、天保7年封をつぐ
47
至薨年
読み: 薨年に至るまで
解説: 安政4年6月薨去まで24年間
47 終始一誠 中庸の所謂誠なるもので終始一貫された
47
菲薄自奉
読み: 菲薄自ら奉じ
解説: 正弘公、手元を切り詰めて一千両を積んで誠之館を創設した
48
優給學費
読み: 學費を優給せらる
解説: 正弘公、幕府西域の焼後再建の功労その他により、1万石が加増された。この加増分を年々の学費に充てられた。また薨後に正弘公在世中の倹約金2500両を、正教公より本館学費に充てられた。
48 館を建て文武を励まし、国家の多事に備えた
49 今公 正教公
49
承而之繼
読み: 承けて之を繼ぐ
解説: 正教公、封土を襲領するだけではなく、館名の意味をも益々盛んにした
49 躬行(キュウコウ) みずから行なう。自分自身で実際に行なう
50 心得 人君たるもの忠孝の道を会得し実行して、下を率いるという意味である。これは學庸の中で、しばしば言われている
50 庶幾(チカシ) 近い、今にもそうなりそうだの意。
これにちかしの意味。更に躬行したいと願う意味を強調している
52
読み: 體し
解説: 身に付けて我が物にする
52
二公之意
読み: 二公の意
解説: 正倫・正精の二公が弘道館を建て、ついで正弘・正教が誠之館において忠孝を勧め、文武を励まされたことを指す
52 淬勵(サイレイ) 淬はにらぐ。焼きを入れる。刀などを鍛える時、質を堅くするため、赤く熱して急に水に入れること。勵ははげむ、つとめる。はげます。すすめる。淬厲とは、心をふるいおこして物事にはげむこと。つとめはげむ。
52 (やむ) やむ
52 簾恥(レンチ) 正直で、曲がったことをしない。廉正。
53
濟美
出典: 左傳』
読み: 美を濟(す)ます
解説: 『左傳』に、「世濟其美、不隕其名と美しきを成すなり」とある
53 先公 良徳公
58 江木戩 通称=繁太郎、諱=貞通、名=戩、字=晋戈、号=鰐水。江木鰐水のこと。
60 (落款)津山義道 津山義道は津山義道(碧山)のこと
(姓名印)義道 義道は津山義道(碧山)のこと
(雅号印)碧山閑人 碧山は津山義道の号

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、64頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日