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00037頼復差出書状「門田堯佐・江木晋戈宛」(頼復)

 

賴復差出書状「門田堯佐・江木晋戈宛」 00037
賴復(賴支峰) 
文久2年(1862年)か
切紙 22×86 cm

 

↓前半部
便
便

 

↓後半部

 

大 意
この度、村上氏帰郷の便に、一書をしたため差し上げます。
時下日に日に寒さが増していますが、
ご両師には、ご一家ますますご多祥お祝い申し上げます。
私も無事、ご省念下さい。
さて、申し上げたいことがありますが、郵便では開封されてしまうおそれもあり、誰か
知人に託したく思えど、なかなかふさわしい人が無く、幸いこの度村上氏にお願いすることがかない、思いのままを申し上げます。
それはほかでもございません。今日に至るご時世につきまして、ご両師はいかにお考えでありましょうか。
尊皇攘夷の四字は今日に始まったことではありませんが、さりとて
よしあしはともかく、この四字はないないにて外には出ていないと存じます。
だんだんにお聞きおよびのとおり、都も四月以来徳山侯も、また長薩二藩に引きつづき土佐侯も上京され周旋されているということは先日のことで申し上げておりません。
何分にも攘夷のことは外藩へ任されることは、関ヶ原御陣の時
福島、黒田へ先駆を命じたようなことながら、これは井伊の謀ですから、親信の諸侯に先陣を嘱されることが肝要であるということは、御両師は早くからご存知のことと存じます。
それにつきましても、ここに面白いことがあります。
この時世は攘夷のことは五尺の童子でも
切歯扼腕する時世でございます。
そのようなとき、攘夷の先鋒を外藩にまかせるようなことがありましては、親信諸侯、御譜代の恥と存じます。
なにとぞ、お国許には藩君は賢明でご補佐の御人が
多数いらっしゃいますでしょう。
ご両師におかれましては、こうした大変な世のことはよくご存知でしょうから、攘夷の先鋒を外藩にはまかせずに、親藩へお任せになるように、お計りお任せすべきと存じます。
ところが、会津その外の親藩においては、
尾州の老公様がご相談のお相手をされているとお聞きしています。
なにとぞ、国をあげての志気がいかなるものであろうとも、断一字のご英断をください。
私も、これ以上の文通はいたしません。
どうか、志を同じくする両先生におかれましては、お聞き入れ下さいますようお願い致します。
ご覧になりましたら、燃やして下さい。
  堯佐 晋戈 両先生  賴復

 

解 説
賴復から、門田朴斎江木鰐水に宛てた書簡。正確な日付は不明であるが、文意から判断すると文久2年(1862年)と思われる。そうならば、賴復は39歳、門田朴斎66歳、江木鰐水53歳のことである。

 

訳 注
函丈(かんじょう) 杖を入れる。師と自分の席の間に一丈の余地をおくこと。転じて①師にあてた手紙のあて名のわきに添えて敬意を表す語。②師をいう。
乍去 さりとて
輦下(れんか) 天子の車のもと、転じて天子のおひざもと。皇居のあるところ。
托生(たくしょう) 生まれかわる
闔国(こうこく) 国をあげて
同人(どうじん) 同志の人、同じ趣味の人、気のあった友だち、なかま
堯佐 堯佐は門田朴斎の字
晋戈 江木鰐水のこと
頼復(らい・あつし) 復は頼支峰の名

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、63頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日