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00032江木晋戈命名書(頼山陽)

 

「江木晋戈命名書」 00032
頼山陽 書
天保2年(1831年)
色紙二枚墨書 軸仕立 23.5×46 cm
江木晋戈命名書

 

↓読み
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

解 説

顔魯公祭姪季明文稿」・・・顔魯公は唐の顔眞卿の封号である。顔眞卿に「顔魯公集」15巻の著作があるが、「季明文稿」はおそらくその中の一文で、「晋戈」の出典となった文章ではなかろうか。識者のご教示を乞う。
東京在住の鶴田徹氏より以下のご教示があった。ご本人のご許可頂きましたので、そのままを転載致します。   2002年11月11日
鶴田徹氏は鶴田皓
(つるた・あきら)の曾孫にあたられます。鶴田皓は、福山において晩年の江木鰐水に師事しています。
頼山陽、江木鰐水を戩と命名
 江木鰐水は頼山陽に入門し、天保二年辛卯秋七月、「戩」の名を貰った。
山陽はこの言葉を顔魯公(顔真卿)の祭姪季明文稿から引いたと命名書に記している。そこにはどのような意味があるのだろうか。
 顔真卿の祭姪稿(さいてつこう)を調べてみると、唐の臣であった顔真卿が、安禄山の乱で乱臣に殺された利発な甥顔季明を弔う文であった。原本は台湾の故宮博物館にある。深い悲しみに満ちた名文と名筆で有名なものらしい。「書聖名品選集十一 顔真卿」株式会社マール社刊 一九九九年(第五刷)によると次のような文章である。
祭姪稿維乾元元年、歳次戊戌、九月庚午朔、三日壬申。第十三叔、銀青光禄夫使持節蒲州諸軍事蒲州刺史・上軽車都尉・丹楊県開国侯真卿、清酌庶羞、祭干亡姪贈賛善大夫季明之靈。
惟爾挺生、夙標幼徳、宗廟瑚璉、階庭蘭玉。毎慰人心、方期戩穀。
何圖、逆賊閒○、稱兵犯順。爾父竭誠、常山作郡。余時受命、亦在平原。
仁兄愛我、俾爾伝言。爾既歸止、爰開土門。土門既開、兇威大蹙。
賊臣不救、孤城囲逼。父陥子死、巣傾卵覆。天不悔禍、誰為茶毒。念爾遘残、百身何贖。
嗚呼哀哉。吾承天澤、移牧河関。泉明比者、再陥常山、携爾首○、及茲同還。
撫念摧切、震悼心顔。方俟遠日、卜爾幽宅。魂而有知、無嗟久客。嗚呼哀哉。尚饗。
(大意)
時は乾元元年、戊戌の歳、九月(朔日が庚午の)三日壬申の日。第十三位の叔父に当る、銀青光禄(大)夫、使持節蒲州諸軍事・蒲州刺史・上軽車都尉・丹楊県開国侯である自分顔真卿は、清酒ともろもろの供物を供え、ここに亡き甥、贈賛善大夫である季明の靈を祭る。惟うに爾は生得の才能があり、幼時より徳を現わし、宗廟の見事な祭器、階庭の美しい芝蘭玉樹のようであった。つねに人の心を慰め、まさに福禄を得るはずであった。しかし、逆賊が隙をうかがい兵を挙げ謀反をおこすと誰が想像し得たであろうか。爾の父(顔杲卿)は忠誠を尽し、常山郡の太守となり、私もまた命を受け、平原郡の太守であった。仁兄(顔杲卿)は私を愛し、爾に伝令をさせた。爾は帰還し、土門関は賊軍から奪回された。土門関奪還により、賊の威力は大いに衰えたが、しかし賊臣に変じた味方が救援しなかったため、常山城は孤立し、賊軍に包囲され、遂に父は捕らえられ、子は殺された。巣は傾き、卵が覆ったのだ。天がこの禍いを悔いないならば、誰がこのむごさに耐えられようか。爾が残虐に殺されたことを思えば、百度死んでも足りない。ああ哀しい。私は天の恩恵を受け、河関の地方長官に転任した。(爾の兄)泉明は、最近常山城を再び奪還し、爾の首を納めた棺を携え、ここに帰還した。無念と哀悼の念が、限りなく心を揺さぶる。少し先になるが然るべき日を占い、爾の墓を選ぼう。魂があって知るならば、長く客であることを嘆かないでくれ。ああ哀しいかな。こい願わくは、この祭りを受けてほしい。
「戩穀」と言う言葉は、これより更に古く「詩経・小雅・天保」に、つぎのようにとあるという。
天保定爾 天は位をやすんじて
俾爾戩穀 爾に福禄をあらしめる
は、
「福禄」を得ることを意味するから、利発な弟子を愛し、仕合せになれ、との師の心であったであろう。さらに深読みすれば、顔真卿に対する敬意を伝え、一旦ことがあれば、季明のように、帝のために命を捨てる覚悟をさとしたのかも知れない。山陽はこの言葉が詩経にあることを知っていたであろうが、あえて「祭姪季明稿」から引いたと記したことに、暗喩が感じられる。
鶴田皓は、早世した兄を祭る文を残している[『元老院議員 鶴田皓』(鶴田徹著)所載]が、その形式は祭姪稿とそっくりであり、江木塾でも祭姪稿がテキストに使われていたことを偲ばせる。

 

↓落款印

 

訳 注
(せん) 戩は江木鰐水の名
晋戈(しんか) 晋戈は江木鰐水の字
天保二年 この命名書の作成日が天保2年であるということ
辛卯(かのと・う) ここでは天保2年のこと
山昜外史(さんよう・がいし) 山昜外史は頼山陽の号
(のぼる) 襄は頼山陽の名
顔魯公(がん・ろこう) 字は清臣。中国・唐の政治家、書家(709から785)。玄宗・徳宗に仕え、安史の乱の平定に功をたて、のち叛臣・李希烈(り・きれつ)に殺されるまで唐朝に忠節を尽くした。力強い雄大な書風を開く。「千福寺多宝仏塔感応碑文」、「麻姑仙壇記(まこ・せんだんき)」などが有名。(出典2)
(落款印)頼襄之印 (のぼる)は頼山陽の名

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、62頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『新世紀ビジュアル大辞典』、563頁、「顔真卿」、学習研究社編刊、1998年11月9日