00018扁額「誠之館」(徳川斉昭)
扁額「誠之館」 00018 | |||||||||||||||
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読み | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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解 説 |
誠之館と命名 藩校誠之館の創設にあたり、藩主・阿部正弘公は藩儒・関藤藤陰らに命名を要請した。藤陰らは中庸を原典に「誠之館」と命名した。扁額の制作 阿部正弘公は、何のためにこの扁額「誠之館」を制作したのであろうか。それまでの朱子学中心の藩校弘道館から、新しい時代を志向した藩校誠之館への脱却をアピールしたかったはずである。徳川斉昭が揮毫 正弘公は親しくしていた水戸藩主の 徳川斉昭に「誠之館」の揮毫を依頼した。それが扁額「誠之館原本」と扁額「誠之館落款」である。何ゆえに徳川斉昭だったのであろうか。当時斉昭は、幕政の中で攘夷派の頭目とされていた。明らかに正弘公とは立場が異なっていながら、斉昭に揮毫を依頼した本意は何なのであろうか。正弘公は斉昭が攘夷派と言われながらも、現実には外来の情報知識の取り込みに熱心であったことを良く知っていたのかも知れない。斉昭への懐柔策だったのかも知れない。正弘公は、幕政の責任者でもあり福山藩の責任者でもある立場を、使い分けていたのであろうか。扁額誠之館の書体 扁額誠之館の掲示場所変遷 扁額「誠之館」(複製) 扁額「誠之館」(模写) 誠之舎の書幅「誠之館(縦書)」 軸装「誠之館(縦書)」は、「誠之館」部分が篆書風で、落款部分は隷書風で扁額誠之館と酷似している。 (出典1~4) |
訳 注 | |||||||||
「誠之館」 |
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出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、58頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、83・95頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典3:『福山学生会雑誌(第45号)』、54頁、「感想」、平沢道次、福山学生会事務所編刊、大正4年4月15日 出典4:『阿部正弘と誠之館-没後百五十年記念-』、32頁、福山城博物館編刊、2007年10月6日 出典5:『中庸全訳注』(講談社学術文庫)、137頁、宇野哲人著、講談社刊、2009年12月18日 |