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00018扁額「誠之館」(徳川斉昭)

 

扁額「誠之館」 00018
徳川斉昭
製作 嘉永7年(1854年)正月11日
書体 大師様(だいしよう)
刻字 杉本輝蔵
木材
文字 群青
印象
扁額「誠之館」

 

読み

 

解 説
誠之館と命名
藩校誠之館の創設にあたり、藩主・阿部正弘公は藩儒・関藤藤陰らに命名を要請した。藤陰らは中庸を原典に「誠之館」と命名した。
扁額の制作
阿部正弘公は、何のためにこの扁額「誠之館」を制作したのであろうか。それまでの朱子学中心の藩校弘道館から、新しい時代を志向した藩校誠之館への脱却をアピールしたかったはずである。徳川斉昭が揮毫
正弘公は親しくしていた水戸藩主の

徳川斉昭に「誠之館」の揮毫を依頼した。それが扁額「誠之館原本」扁額「誠之館落款」である。何ゆえに徳川斉昭だったのであろうか。当時斉昭は、幕政の中で攘夷派の頭目とされていた。明らかに正弘公とは立場が異なっていながら、斉昭に揮毫を依頼した本意は何なのであろうか。正弘公は斉昭が攘夷派と言われながらも、現実には外来の情報知識の取り込みに熱心であったことを良く知っていたのかも知れない。斉昭への懐柔策だったのかも知れない。正弘公は、幕政の責任者でもあり福山藩の責任者でもある立場を、使い分けていたのであろうか。扁額誠之館の書体
この「誠之館」部分の書体は大師様と呼ばれる。いわば相撲や歌舞伎の勘亭流や、提灯などに描かれる装飾文字に近い。何ゆえに水戸藩主たる徳川斉昭が、このような書体を使ったのだろうか。また落款部分は隷書風であり、「甲寅」「辛亥」「朝臣」を1文字にするなど書としてのアイディアが駆使されている。

扁額誠之館の掲示場所変遷
斉昭の揮毫をもとに造られた扁額「誠之館」は、創立まもない藩校誠之館の玄関に掲示された。その後明治26年(1893年)4月に「尋常中学福山誠之館」が「広島県第二尋常中学校」となり、その校名から「誠之館」の文字がなくなったときに、玄関上の扁額「誠之館」は降ろされてしまった。それを知った地元有志は、学校に由緒ある扁額を有効活用するように懇請した。その結果扁額「誠之館」は、霞町校舎講堂に掲げることとなった。以後、幾多の変遷を経ながらも、三吉町校舎講堂、木之庄校舎講堂に掲げられ、受け継がれてきた。現在も誠之講堂内、正面上部に掲げられている。

扁額「誠之館」(複製)
誠之館記念館の玄関に、昭和51年(1976年)に制作された扁額「誠之館」(複製)が掲示されている。

扁額「誠之館」(模写)
扁額「誠之館」(模写)は、上記の扁額「誠之館」(複製)を制作する過程のものを平成11年(1999年)ごろに額装したものである。

誠之舎の書幅「誠之館(縦書)」
東京誠之舎に現存する

軸装「誠之館(縦書)」は、「誠之館」部分が篆書風で、落款部分は隷書風で扁額誠之館と酷似している。   (出典1~4)

 

訳 注
「誠之館」
出典: 『中庸』
原文: 「誠者天之道也。誠之者人之道也。誠者不勉而中不思而得 従容中道聖人也。誠之者擇善而固執之者也。」
読み下し: 誠は天の道なり。
これを誠にするは人の道なり。
誠は勉めずして中
(あた)り、思わずして得、従容(しょうよう)として道に中(あた)る。
聖人なり。
これを誠にするは善を択
(えら)んでこれを固執(こしつ)する者なり。
大意: 誠とは、天が定めて、あまねくこの世に行われるべきものとして布いている道である。だから人々が誠を身に備えることは、人としてなさなければならない道である。
そして、人間についていうと、誠であるということは、ことさら努力しないでも道にかない、ことさら思いめぐらさないでも物ごとの処理が適正をうる。つまり心の欲するままにして自然に道にかなうということである。この誠を十全に備えているものは聖人である。
また聖人にならって、誠を身に備える方法は、物事について最善のことを知ってえらび取り、かつそれを固く守って常にわれとわが身につけておくということ、そのことである。

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、58頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、83・95頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『福山学生会雑誌(第45号)』、54頁、「感想」、平沢道次、福山学生会事務所編刊、大正4年4月15日
出典4:『阿部正弘と誠之館-没後百五十年記念-』、32頁、福山城博物館編刊、2007年10月6日
出典5:『中庸全訳注』(講談社学術文庫)、137頁、宇野哲人著、講談社刊、2009年12月18日