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00016拾遺和歌集一首「亭子院屏風歌」(阿部正弘)

 

拾遺和歌集一首「亭子院屏風歌」 00016
阿部正弘 書
紙本墨書 33×44 cm

 

↓読み
 
 
 
 
 
 

 

大 意
色あせてゆくことだけでも惜しく思われるこの秋萩の花だ。
それなのに、さらに今にも折れてしまいそうなほどにも置いている露だよ。

 

解 説
この歌は、「拾遺和歌集巻第三」の「秋」の部に収められている一首である。

「拾遺和歌集」は、古今・後撰和歌集(ごせん・わかしゅう)につづく3番目の勅撰集。撰者は花山上皇、すなわち花山院の親撰といわれており、1351首の和歌が収められている。その138番がこの亭子院(ていじいん)屏風歌である。

作者伊勢〔元慶元年(877年)~天慶2年(939年)〕は、三十六歌仙の一人。父が伊勢守であったので伊勢と呼ばれたらしい。

宇多天皇女御温子(おんし)のもとに出仕、一時は宇多帝皇子の寵を受け、伊勢御息所ともいわれた。宇多・醍醐・朱雀の三代四十数年間、歌人として重きをなし、古今集の中でも抜群の位置を占め、各種の屏風歌にも才幹をふるった。家集に「伊勢集」がある。

冒頭の亭子院(亭子はあずまや)は、左京七条坊門南・油小路東にあった邸宅で、宇多上皇の御所であり、温子の邸宅でもあった。延喜13年(913年)3月13日、ここで行なわれた「亭子院歌合」は和歌史上きわめて有名である。

この書幅中の「伊勢」とは、原作者女流歌人の名であるが、卒然とこの書をながめて、阿部伊勢守の「伊勢」と勘違いする人があるかも知れない。しかもこの筆跡が、まず間違いなく阿部正弘のものであるからである。正弘はなぜこの歌を選んで揮毫したのか。歌のしらべに心うたれたのか。あるいは同名の「伊勢」の名に惹かれたのか。おそらくその両方の理由からであろう。   (出典1)

 

訳 注
拾遺和歌集
(しゅうい・わかしゅう)
平安時代の勅撰和歌集のひとつ(1002年ごろ成立)。20巻。撰者は花山法皇(かざん・ほうおう)・藤原公任(ふじわらの・きみとう)など諸説ある。歌数約1300首。「古今集」「後撰集」に落ちた歌を拾うことを目的に編まれた。洗練された歌が多い。拾遺集。 (出典2)
花山(かざん)上皇
・花山法皇
花山天皇、平安中期の天皇(968~1008年)。在位は984~986年。冷泉天皇の第1皇子。3年の在位で藤原兼家・道兼父子らにあざむかれ、退位して出家した。和歌と絵にすぐれた。一説に拾遺集の撰者。 (出典3)
宇多天皇
(うだ・てんのう)
平安前期の天皇(867~931年)。在位887~897年。光孝天皇(こうこう・てんのう)の第7皇子。藤原氏の権力をおさえ、自由な政務を行った。藤原道真を登用し、遣唐使の廃止を断行した。譲位の際に醍醐天皇に与えられた寛平御遺誡(かんぴょうの・ごゆいかい)は有名。 (出典4)
亭子院歌合
(ていじいん・うたあわせ)
延喜13年(913年)3月13日、宇田法皇の催した歌合。当初40番80首の披講予定だったが、実際には時間の都合でか、夏・恋が各5番づつ省略されている。本歌合に付載された伊勢作という仮名日記(最古の女流日記)が当日の様子・次第を記録している。法皇を中心に皇子・皇女・寵臣などが参加し、和歌作者には凡河内躬恒・藤原興風・紀貫之・坂上是則のほかに法皇・伊勢・大中臣頼基らも加わった兼日・兼題の撰歌合だった。判者には藤原忠房が指名されたが不参のため法皇の勅判となった。左右の頭・歌詠み・方人(かとうど)・判者・講師・員刺(かずさし)などの人的構成も、洲浜(すはま)・文台・奏状・奏楽・賜禄などの物的条件も完備した典型的な晴儀歌合で天徳内裏歌合の範となり、後世歌合への影響も大きい。現存最古の判詞である勅判にも、方人との会話にも自由でのどかな雰囲気が漂い、文運興隆期に生み出された君臣和楽の遊宴という初期歌合の性格が伺える。本歌合の証本には10巻本歌合・20巻本類聚歌合があるが、前者の方が純正といえる。 (出典5)

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、58頁、福山誠之館同窓会刊、平成5年5月30日
出典2:『新世紀ビジュアル大辞典』、1147頁、学習研究社編刊、1998年11月9日
出典3:『新世紀ビジュアル大辞典』、462頁、学習研究社編刊、1998年11月9日
出典4:『新世紀ビジュアル大辞典』、239頁、学習研究社編刊、1998年11月9日
出典5:『国史大辞典9』、858頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和63年9月30日