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00013五言対句「桃符呵筆寫」(阿部正弘)

 

五言対句「桃符呵筆寫」 00013
阿部正弘 書
天保7年(1836年)冬日
絹本墨書 101×30 cm
↓読み ↓読み下し ↓落款 ↓落款
読み

 

 

大 意
春節の桃符は、暖めた筆で書し
正月の祝いの酒は、梅をめでつつ酌む

 

↓姓名印 ↓雅号印

 

解 説
正弘公は、天保7年(1836年)に兄・阿部正寧(あべ・まさやす)の養子となり、備後10万石の藩主(第7代)になった。この作品は主計を用いていることから藩主就任の直前のものであろう。

翌天保8年(1837年)に一度だけ就封のため領国の福山へ帰国した。

その後寺社奉行に続いて老中を14年間つとめ、39歳の若さで死去した。藩校誠之館を開校して2年後のことであった。

 

訳 注
五言対句
「桃符呵筆寫」
出典:陸游著「己酉元日詩」
陸游(1125年~1210年)。中国、南宋の代表的詩人。越州・山陰(浙江省紹興県)の人。字は務観、号は放翁。陸佃の孫。
29歳のとき、祖父功労の恩典で登仕郎に補せられ、進士の試に応じて首席に擬せられながら、宰相秦檜によって退けられた。38歳のとき、孝宗から進士出身を賜わり、聖政所検討官に起用されたが、まもなく地方に転出、久しく逆境ににあった。光宗が即位すると、礼部郎中・兼実録院同修撰・同修国史を兼ねて<孝宗実録>500巻、<光宗実録>100巻を奉り、80歳のとき、大中大夫・宝謨閣待制をもって退官した。
幼くして詩文をよくし、13歳のときには陶潜の詩を愛読、ために食事を忘れたという。
のち江西派崇拝者たる曽機(号:茶山)について詩法を学んだが、それにとらわれることなく、広く古今の作を読んでその長所をとり、自家独特の詩風をひらいた。所作1万首をこえ、多作詩人として古今に冠絶する。その中には、南渡後の宋室が日に非なるを慨嘆して詠じた慷慨悲憤の作が多く、ために愛国詩人の名をもってよばれるが、反面、郷里の田園生活に取材した閑適詩も多く、閑雅な風趣をそなえつつ、彼独特の詩境をうちだしている。<渭南文集>50巻のほか紀行文<入蜀記>などがある。
(出典2)
桃符(とうふ) 桃の木で作った板2枚に神荼(しんと)と鬱壘(うつりつ)の二神をかき門に貼って悪鬼を除く札、後に紙に代り春聯と同義となる。これを文人墨客が書写して潤筆料を得るようになった。
呵筆(かひつ) 息を吹きかけて筆をあたためる、寒い時に詩文の下書きをすること、転じて詩文に力を用いること、詩文の研鑽を積むこと
椒酒(しょうしゅ) 山椒の種子に薬種を加え浸した酒、神酒とし正月元旦の祝酒とする
過花 過は見(みる)に同じ、花を見る
(シン) (くむ)におなじ
(落款)
天保丙申
(ひのえ・さる)
ここでは天保7年(1836年)のこと、正弘公16歳
(落款)
阿部主計
(かずえ)正弘書
主計は阿部正弘公が若年のころ使った称、天保7年(1836年)の伊勢守叙爵以前に用いた
(姓名印)阿部正弘 阿部正弘は、福山藩第7代藩主阿部正弘公のこと
(雅号印)字叔道 叔道は阿部正弘公の字

 

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、57頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『アジア歴史事典9』、198頁、「陸游」、平凡社編刊、1984年4月1日