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00002「孔子画像」阿部正倫

 

「孔子画像」 00002
阿部正倫 画
寛政12年(1800年)9月
絹本着色軸装 129×58 cm

 

↓読み ↓読み下し ↓箱書き「聖像幅函記」

 

↓姓名印 ↓雅号印 ↓遊印

 

解 説
天明6年(1786年)7月、福山西町西堀端に、藩校「弘道館」を創設した阿部正倫は、藩校教育振興のため、儒教精神の高揚に心を砕いた。その方策として、寛政12年(1800年)秋、みずから筆をとって孔子像を描き、これを下賜した。学館では、毎年の発会式にこれを拝覧するのを例としていた。これは誠之館時代においても同様であった。

さて、正倫画の「孔子像」は、明治5年(1872年)、誠之館閉校の際、行方知らずになったが、それが再び帰ってきた経緯については、聖像を納めた函裏に記されている。

上記、正倫が倣ったという中国の画家元章は、本名を王冕(おう・べん)、字を元章、号を会稽外史といい、元来明初(1335年~1407年)の文人画家である。進士試験に失敗し、諸方を遊歴して一生を過ごした。画は墨梅(水墨の梅)をもっとも得意として、華麗な様式を作りあげ、明代に盛行した墨梅の先駆者となった。   (出典1) 

 

訳 注
王元章(おう・げんしょう) 王冕(おう・べん)(1335~1407)、中国元末から明初の文人画家。諸曁(浙江省諸曁県)の人。字は元章、号は老村・飯牛翁・会稽外史・梅花屋主。
幼少のころ家が貧しく苦学したが、会稽の儒者韓性に見出されてその門に入り、のち通儒と称された。しばしば科挙の試験に応じて失敗したが、元末の乱を予見し、妻子をたずさえて九里山(浙江省金華県付近)に隠れ、梅・桃・杏を植え、また画を売って生活した。水墨の梅・竹を得意としたが、とくに墨梅は南宋の楊補之に劣らぬと評された。墨梅に名手のあらわれなかった時代では、彼がもっともすぐれており、当時すでにその作品は珍重されたという。
 (出典2)
歳次(さいじ) 歳星(木星)が十二次のどれかにやどること、歳星のやどり、としまわり
庚申(かのえ・さる) ここでは寛政12年(1800年)のこと
(姓名印)正倫之印 正倫は阿部正倫のこと
(雅号印)外字咊卿 咊=和、よって咊卿は正倫公の字・和卿のこと、外というのはめったに使用しないとでもいうことか
(遊印)四時行百物成
大意: 四時は四季のこと、四時行百物成は四季有って百物が生まれるの意味
出典: 『論語(陽貨第十七 十六』
読み: 四時行焉百物生焉
読み下し: 四時行われ、百物生ず
 (出典3)
武田安之助 福山誠之館第4代校長
川又茁(かわまた・めぐむ) 福山誠之館(福山中学校)教諭
門田重長 福山誠之館(福山中学校)教師

 

この項目では、ひしきまこと様のご教示を頂きました。
出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、56頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『アジア歴史事典2』、44頁、平凡社編刊、1984年4月1日
出典3:『論語全訳注 増補版』(講談社学術文庫)、404頁、加地伸行著、講談社刊、2009年9月10日