福山誠之館同窓会 > 所蔵品 > 00252『黄葉夕陽村舎紀行(驥蝱日記)』河崎敬軒

00252『黄葉夕陽村舎紀行(驥蝱日記)』河崎敬軒

黄葉夕陽村舎紀行 (驥日記)』  00252
河崎敬軒 著
全1冊
天保11年(1840年)刊
驥蝱日記 (表紙) 驥蝱日記 (表紙裏)

解 説
藩主阿部正精の命によって、菅茶山は文化11年(1814年)再度出府し、翌年2月まで藩邸に滞在していた。

当時江戸にあった河崎敬軒は、文化12年正月19日、はじめて小川町の阿部屋敷に茶山をたずね、大いに歓待された。北條霞亭の友人であったからである。

この時、茶山の帰国が近いことをきき、その供をして自分も伊勢に帰る約束をした。文化12年2月26日、茶山は江戸を発って帰国の途についた。同行者は敬軒を含めて5名であった。この日から3月7日、四日市に到着するまでの12日間、各地で茶山の詠む詩に応じて、敬軒なども作詩し、文雅な旅を楽しんだ。翌文化13年3月8日、一同四日市の宿を出発。追分で敬軒は一行とたもとを別って伊勢に帰りついた。彼はこの旅の印象をこういっている。

「時たまたま清明、百花研を争う。十日、楽しきこと、恍として夢境の如し。先生高作多し。あわせて予が詩を録し、名づけて『驥蝱日記』という。」

驥は名馬(一日で千里を駆ける駿馬)で茶山のこと、蝱はあぶで自分のことである。敬軒はこの紀行作品集を茶山に送り、序を乞うた。茶山は翌文化13年正月、序文を草して敬軒に送った。その文は、この書の巻頭をかざっている。

出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、73頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日