『真書高島帖(再版)』 07428
三島中洲
長三洲
青木嵩山堂刊
明治31年(1881年)2月1日
25.6 × 17.5 cm
『真書高島帖』
扉頁 本文冒頭頁


13
西
12
11
10
綿
09
殿
08
西
07
西
06
05
04
03
02
01


24
 
23
22
21
20
19
18
17
16
15
14


本文読み下し
高島公園記
01 諏訪湖の勝、海内に名づけて、其の土神は諏訪大神と為し実に大己貴命(おおなむちのみこと)第二子健御方(たけみかた)を祀る。
02 其の土豪は諏訪氏と為す。
02 出づるところは詳らかならざるも、鎌倉府時に右兵衛尉盛重なる者有り。
03 (諏訪氏)始めて数世の孫安芸守頼忠が著(あらわ)れ徳川氏に属(つらな)る。
03 食は諏訪郡三万石、高島城に居し、世襲殆ど三百年、明治廃藩迄。
04 去りて東京に住み、部民の思慕して已(や)まず、乃(すなわ)ち城を闢(ひら)き墟は公園と為す。
05 (もっ)て(公園の)図は藩主に存り。
05 旧跡は永世に於(お)いて図をもって徴(あきらか)にす。
06 (われ)記して曰く、園は広く袤(南北)は凡そ一町、樹竹有りて翳(かげ)なるべし。
06 亭榭有りて觴(しょう)すべし。
07 東は市街に連なり、西は湖に臨み、湖囲は大約四里。
07 南涯の松杉(おううつ)し、間に微かに露(あらわ)れた華表(かひょう)は、大神の本祠となす。
08 北岸の別祠、及び西湾の大悲閣とともに、水を隔てて相望み、朱殿は彫欄歴歴たり。
09 指して沙禽(さきん)(ふうしょう)、上下に出没すべし。
09 (もっと)も画ありて、其の外すなわち奇嶂(きしょう)を致す。
10 碓嶺(たいれい)、綿亘(めんせん)環合して巍然(ぎぜん)崇大にして擁護する如し。
10 本祠は屋山を守りと為(な)し、其の東は矗矗(ちくちく)として列立して剣戟(けんげき)の如し。
11 天を刺すは甲斐八嶽を為し富嶽躍り出(い)で、其の間白雪玲瓏として倒(さかしま)に、碧波に浸す。
11 秀影掬すべし。
12 (まさ)に別(わけ)ても祠上隠然として隆起起伏し相倚るべし。
13 而して西は和田塩尻となり、諸嶺嶺漸く先の卑より飛騨槍ヶ岳を望み、縹渺(ひょうびょう)として雲の如し。
14 此れ園中の大概なり。
14 (われ)、其の言に因りて其の図を閲(けみ)す。
14 (こう)として、目睹(もくと)嵐光(らんこう)、波影(はえい)の掩映(えんえい)するが如し。
15 耳に聴く漁唱(ぎょしょう)棹歌(とうか)の、應(まさ)にその勝果に和すべし。
15 聞くところに負(そむ)かず、豈(あに)記すところ無かるべけんや。
16 しかりと雖も、山水の勝、今古不変にして、変遷して常無きは人事なり。
16 故に世襲と雖(いえど)も諏訪氏の如きは、城墟(じょうきょ)荒蕪して将に無に帰せんとす。
17 聞けば、部民慨ありて、此れを修治して公園と為す。
18 佳節良辰相携えて遊覧す。
18 其の湖山の秀麗なるを指して曰く、是れ我が旧君の跋渉遊予するところなり。
19 其の人煙殷賑を顧みて曰く、是れ我が旧君の布政施恵する所なり。
19 則ち其の人去ると雖(いえど)も、その徳永存し、山水と倶に変わらざるは将に是れなるや。
20 ここに在(あ)りて是れ最も記すべきなり。
21 嗚呼(ああ)三百諸侯其の遺徳、民に在るは、何限(かげん)にして遺民の思慕するは此(か)くの如し。
22 其の切なるは、豈(あに)由るところ無くして、然(しかる)や。土人は相伝う。その系実は大神の想より出(い)ずるを。また然(しか)り。     
23 (しか)らば即ち、民の旧君を慕う所以(ゆえん)は、即ち大神を敬う所以なり。
24 明治十四年八月従六位三島毅撰 従五位長炗書


本文大意
高島公園記
01 諏訪湖の優れたること、海内に名づけてその土神を諏訪大神と呼び、大己貴命の第二子健御方を祀った。
02 その土豪が諏訪氏となった。
02 諏訪氏の出自ははっきりしないが、鎌倉幕府のころ右兵衛尉盛重という者がいた。
03 諏訪氏のはじめから数代の孫に安芸守頼忠が現れ、徳川氏の家来となった。
03 禄高は諏訪郡の三万石で、高島城を居城とし、その後約三百年にわたって明治の廃藩置県まで累代世襲した。
04 廃藩後諏訪を離れて東京に住んだが、諏訪の民衆は依然として思慕を続けた。城は解体し、その跡地は公園とした。
05 そうしたことで、公園の図面は藩主の所有となった。
05 お城の旧跡は、図に描かれて末永く明示されている。
06 私は以下に記録する。園は広く、南北は凡そ一町、樹木が繁って日陰がある。
06 (あずまや)があって、杯を酌み交わすに丁度よい。
07 東は市街につながっていて、西は湖に面している。湖の周りはおおよそ四里である。
07 南の涯の松杉が繁茂する梢の間からかすかに見える鳥居は大神の本祠(諏訪神社上社)のもので、諏訪湖の北岸には別祠(諏訪神社下社)があり、諏訪湖の西岸には湖水を隔てて大悲閣が見え、その朱殿は欄干に歴々と彫刻が施されている。
09 眼を転すれば上下に、湖の浜辺には鳥がおり、湖上には帆を張った船が見える。
09 見事な景色で、険しい山々が連なっている。
10 碓氷峠へと続く山々は東西南北に連なり、高大で諏訪神社を擁護しているかのようである。
10 本祠は屋山の守りとなっており、その東方は山々が高く聳えて連なって、まるで刀剣が並んでいるようだ。
11 天に向かって聳えているのは甲斐八ヶ岳で、さらには富士山が聳えていてその間には白雪が玲瓏と美しく輝いて、その姿が湖の碧の波に逆さまに映えている。
11 この素晴らしい景色を掌に掬い取りたいものだ。
12 まさに、なかでも諏訪大社の上方には山々がどっしりと隆起して連なっている。
13 西は和田・塩尻となり、山々の先の低地からは飛騨槍ヶ岳が望め、まるで雲のように見える。
14 以上が高島公園の概要である。
14 私は、その言をもとにその図を見ている。
14 山々に映る日のひかりがほのかに見えるのは、波影が覆い隠されているかのようだ。
15 漁師や船頭は、その豊漁さを歌っていて、その様を記さずにおかれない。
16 山水の景色は、むかしから不変ではあるが、世のことは変遷してとどまらない。
16 故に、諏訪氏のように世襲とはいっても、城跡は荒蕪して無となろうとしている。
17 部民はこれを聞いて、慷慨してしまった。
17 そこで城跡を公園として修復し、完成の目出度い日に連れだって公園を遊覧した。
18 この風景が秀麗であったので、我が旧君が山野を出歩いて楽しんだという。
19 その山野に多くの人々がいて賑わっているのは、我が旧君の政治の恵みであるという。
19 たとえ、旧君はこの土地を去ってもその徳は永存し山里の風景とともに変わらないさまは、将にこのことである。
20 諏訪を訪ねてみて、これが記すべき最も重要なことである。
21 ああ、三百諸侯のいずれにおいても民衆の間にその遺徳があり、いずれにおいても民衆は同様に思慕している。
22 その切なる想いには、訳があるのだ。
22 そうして、土民の、大神への信仰をもととしたその系実を相伝えるというのも、自然の流れである。
23 そうしたことは、つまり民が旧君を慕う訳は、民が大神を敬うことにある。
24 明治十四年八月 従六位三島毅撰 従五位長炗書


↓本文三島毅 姓名印 ↓本文三島毅 雅号印
↓本文長三洲 姓名印 ↓本文長三洲 雅号印


本文訳注
『真書高島帖
(しんかき・たかしまちょう) 
三島中洲撰 長三洲
真書は楷書のこと
01 (う) ~に
01 海内(かいだい・かいない) 海のうち、国内、天下、海外の対
01 土神 土地の神
01 大己貴命
(おおなむちのみこと)
素盞鳴尊(すさのをのみこと)の子孫。=大黒主命(大黒さま)。出雲大社に祭られ、縁結びの神として知られている。
02 健御方(たけみかた) =健御名方、健南方神。出雲の大国主神の御子と伝えられる神。国譲りの際、天神側の建御雷(たけみかずち)神に力競べをいどみ、腕を引き抜かれ、負けて逃げ出し、信濃国の諏訪湖まで追い詰められて降伏し、以後この諏訪の地から出ないと誓って赦され、その地に鎮座したと語られる。この説話は、『古事記』のみ記され、『日本書紀』にはみえない。もともと国譲りとは無関係の別系の説話が割り込まされたのであろうといわれる。『延喜式』にみえる、信濃国諏訪郡南方刀美(みなみかたとみ)神社(現在の長野県諏訪市諏訪大社)の祭神がこの神である。『古事記』の力競べという相撲の話は、もと土地の古い伝承で、水の精霊の河童が人に力をいどみ、腕を引き抜かれて降参し、以後、人に害を加えないと誓って赦されるという、後世の「河童のわび証文」型の話と一致する。もとは建御雷は登場せず、建御名方が諏訪湖の水の神を打ち負かし、これを眷属とするという話で、諏訪社の鎮座縁起として語られていたもので、これが中央に伝わって、中臣氏の氏神である建御雷神の武勇譚という形に変形されたのであろう。(出典1)
03 安芸守頼忠
(あきのかみ・よりただ)
諏訪頼忠(天文5年[1536年]~慶長10年[1605年])のこと。天文11年[1542年]武田信玄により諏訪氏は滅亡させられた。しかし、一族の頼忠は神官として生き残り、武田氏が織田・武田連合軍に滅ぼされ、さらに織田信長が本能寺で横死するや、諏訪氏を再興させた。その後、徳川家康と戦ったのち和睦してその家臣になった。一時は関東に移封されたが、慶長6年[1601年]、子の諏訪頼水(元亀元年[1570年]~寛永18年[1641年])が旧領諏訪に復帰した。以後諏訪氏が廃藩置県まで諏訪の領地を守った。諏訪忠誠(再承)が明治17年[1884年]に子爵となり華族に列せられた。
05 部民 人民
06 永世(えいせい) 永い年代、世のある限り、とこよ、永代。
06 (ぼう) 南北の長さ
06 (えい、あい) きぬがさ、おおい、たて、かざす
06 亭榭(ていしゃ) うてな
07 (しょう) さかずき、さかずきを酌み交わす
07 大約(たいやく) おおよそ、大略
07 (おううつ) 草木の盛んなさま、蓊蔚
08 華表(かひょう) 鳥居
09 沙禽(さきん) 砂に遊ぶとり
09 風檣(ふうしょう) 帆にいっぱい風をふくんだ帆柱
10 (しょう) みね
10 碓嶺(たいれい) =碓日嶺(うすい・とうげ) (江戸時代には峠の文字は使われず、平仮名ないしは嶺をとうげと読んでいたらしい。)
10 環合(かんごう) とりまく、めぐらす
10 巍然(ぎぜん) 山の高大なさま、人物のすぐれているさま
10 嵩大(すうだい/そうだい) 高大にする、また高大なこと
高大は、高く大きい/すぐれている/おごりたかぶる/思いあがる
11 (ちくちく) 高く聳えるさま
11 甲斐八嶽(かい・やつがたけ) 甲斐八ヶ岳、諏訪からは東方向
11 富嶽(ふがく) =富士山、諏訪からは南東方向
12 玲瓏(れいろう) さえてあでやかなさま、すきとおるように美しいさま
12 隠然(いんぜん) はっきりと表面には現れないが、どことなく軽視できない勢力のあるさま、おもみのあるさま
13 和田(わだ) 現:松本市和田、諏訪からは西方向
13 鹽尻(しおじり) =塩尻、現:塩尻市、諏訪からは西方向
13 飛騨槍嶽(ひだ・やりがたけ) 飛騨槍ヶ岳、諏訪からは北西方向
13 縹渺(ひょうびょう) ほんのりかすかにみえるさま
14 (こう) ほのか、かすか、おぼろ、はっきりと見定め難いさま、われを忘れてぼうっとしているさま
14 目睹(もくと) みる、目で実際に見る
14 嵐光(らんこう) 山の気の日が映じたひかり
14 波影(はえい) 波の影
15 掩暎(えんえい) おおいかくす、掩映
15 漁唱(ぎょしょう) 漁夫のうたう唄、漁歌
15 棹歌(とうか) 船頭がさおを操って船を進めながらうたう歌、ふなうた、櫂歌(とうか)、棹唱
18 佳節(かせつ) めでたい日、佳辰、吉日
18 良辰(りょうしん) めでたい日、吉日、佳辰、おだやかで気持ちのよい日
18 (けつ、けち) =携、たずさえる
18 跋渉(ばっしょう) 山を越え川を渡る、山野を歩きまわる、また諸所を歩きまわる
19 游豫(ゆうよ) =游予、出歩いて楽しむこと
21 何限(かげん) 無限
22 土人(どじん) その土地に代々住んでいる人
23 (よ、か、や)
24 (落款)従六位三島毅撰
(みしま・つよし・せん)
従六位は三島の当時の位階(姓名印では正六位となっている
三島毅は三島中洲の名
24 (姓名印)正六位三島毅 正六位は三島の当時の位階(落款では従六位)となっている
三島毅は三島中洲の名
24 (雅号印)東京大学教授 東京大学教授は三島中洲が当時東京大学の教授であったからか
24 (落款)従五位長炗書
(じゅうごい・ちょう・ひかる・しょ)
従五位は長三洲の当時の位階
炗は長三洲の字
24 (姓名印)長炗印 炗は長三洲の字
24 (雅号印)太史氏


奥書読み(1/2)
15
14
13
12
11
10
09
08
07
06
05
04
03
02
01


奥書読み(2/2)
27
26
25
24
23
22
21
20
19
18
17
16


奥書読み下し
01 右高島公園記は余の撰する所にして、長秋史の書する所なり。
02 しばらくして、蓋(けだ)し堂主人有りて、将に模刻して世に公にせんとす。
03 余に跋言を請う。
03 余曰く、秋史の書、これ妙なり。
04 世人皆知る所、何ぞ余の言を須(もちいん)や。
05 (しか)も余の文の拙劣なるを、今秋史の書に因りて世に傳うは、蓋(けだ)し驥尾(きび)蒼蝿(そうよう)なるのみ。
07 亦言に足るは無し。
07 然れども已むこと無くして、則ち一二の友人の評語ありて、以って抜言に代う。
08 (すなわ)ち之を録して左。
10 重野成齋曰く、起首は湖勝を提叙し、其の神を以って其の豪之(これ)を承け、其の系を差し夾(はさ)むに詳らかならざる句は伏案となし、篇末は神孫一語と為す。
13 もって之に応じ、中幅は記すなかるべし。
13 最も記すべき二語は亦相喚(よ)びて、應(まさ)に線鍼(せんしん)極めて密にして排置、循法すべし。
16 川田甕江曰く、昔、高島侯、好学の者有れば招致す。
17 南郭の諸儒湖上の勝概を賦す。
18 然るに其の詩は平凡なり。
18 此の文は一たび出(いず)るや、彼其の色を失い、世或いは古今人謂(い)いて相及ばず。   
20 (われ)信ぜず。
21 中村敬宇曰く、徳沢の在の人心は山水の景、倶(とも)に変ぜず。
22 主意既に最も高き地歩を占め、是(これ)に由りて以下横説竪説(おうせつ・じゅせつ)不可とする所なし。
25 辛巳(かのとみ)謹白
26  中洲学人三島毅識(しる)す (三島毅印)
27     半嶺中根聞書(か)く  (中根聞印)


奥書大意
01 右の高島公園記は私(三島毅)の撰で、長秋史の書である。
02 しばらくたってから、嵩山堂主人が刊行を思い立った。
03 私に跋言の要請があった。
03 私は、秋史の書は妙なるものと申し上げた。
04 世間ではよく広く知られていることで、今さら私が余計なことを書く必要はない。
05 秋史の書に私の拙劣な文をつけて刊行することは、まさに驥尾の蒼蝿だ。
07 そうはいってもふさわしい言葉がない。
07 そこで、やむをえず、何人かの友人が評したものを跋言の代わりとする。
08 それを左に掲載する。
10 重野成齋は以下のとおり評している。まず最初に湖勝について述べ、
11 土地の神をもって土地の支配者はこれをうけて、系統で詳細には分からないことは腹案として記載しないで、最後に神孫という一語で述べている。
13 そうすることによって、中ほどには何も書いていない。
13 最も重要な二語のみ、よく言葉を選択して述べている。
14 線鍼をていねいに並べて、決りを守っている。
16 川田甕江は以下のとおり評している。昔、高島侯は好学の者がいると招致していた。
17 そうした儒家たちは、湖の景色をみて詩をつくっていた。
18 そうした詩は、みな平凡なものだった。
18 この(高島公園記の)文が発表されるや、彼(諸儒の詩)はその色を失い、世間の人は、昔の人も今の人も、とても及ばないという。
20 私は(この川田氏の考えを)信じない。
21 中村敬宇は以下のとおり評している。徳沢の人々の気持ちも、自然の風景も変わらない。
22 主意はすでに最高の域に達しており、すべてに自由自在な議論ができる。
25 明治14年 謹しんで申し上げる
26  中洲学人 三嶋毅識
27     半嶺 中根聞書


↓奥書三島毅 落款印 ↓奥書中根半嶺 落款印


奥書訳注
01 ここでは三島中洲自身のこと
01 長秋史 秋史は長三州の号
02 (ケイ/ころ) しばらく
02 (がい) ふた、おもうこと、おもうに
02 堂主人 ここではこの本を出版した青木嵩山堂・青木恒三郎(文久3年[1863年]~大正15年[1926年])のこと。青木嵩山堂の創業者。
青木嵩山堂は明治10年[1877年]から大正10年[1922年]にかけて大阪心斎橋筋博労町角と東京日本橋区通りに事務所・店舗をもつ総合出版社。小売から取次ぎ、さらに出版・印刷も手がけた。またカタログによる通信販売の魁でもあった。
代表的出版物として、『萬国名勝図絵』、『日本名勝図絵』があり、文芸出版では、幸田露伴の『五重塔』、村上浪六の『当世五人男』、黒岩涙香の『岩窟王』、尾崎紅葉の『金色夜叉』、国木田独歩の『武蔵野』、新渡戸稲造の『武士道(日本語訳)』、福沢諭吉の『修行立志篇』がある。
恒三郎は大阪出版組合を創設し、その会長をつとめた。
03 跋言(ばつげん) 跋文、あとがき
06 驥尾(きび) 優れた人の後にいることのたとえ
06 蒼蝿(そうよう) 小人のたとえ
06 のみ
10 重野成齋
(しげの・せいさい)
重野成齋(文政10年[1827年]~明治43年[1910年])は、薩摩藩儒、東京帝国大学教授、文学博士。
諱は安繹
(やすつぐ)、字は士徳(しとく)、通称は厚之丞(あつのじょう)、号は成齋(せいさい)
成齋は薩摩藩士の家に生まれ、嘉永元年(1848年)昌平黌に入り、羽倉簡堂・塩谷宕陰・安井息軒らの知遇を得る。藩内で開国論を展開して流罪になり、西郷隆盛とも交流した。
その後「生麦事件」のとき藩命でイギリス人・パークスと談判し藩と国を救った。
明治4年(1871年)上京し修史館長などを歴任。明治14年(1881年)東京帝国大学文学部教授となる。明治15年(1882年)からは『大日本編年史』の編纂に携わる。
岩崎男爵家の「静嘉堂文庫」では、膨大な漢籍を蒐集した。
早くから名声で知られ、序文や碑文などが多い。
若いころは斉藤竹堂を慕い、欧陽脩・蘇東坡を好んだが、晩年は清の姚姫伝
(ようきでん)を好んだ。
著書に『国史眼』、『国史綜覧稿』など。
明治43年[1910年]没、享年84歳。
10 起首(きしゅ) 物事のはじめ、おこり。着手する。
10 (こう) はさむ、はめる、入れ込む
14 線鍼(せんしん) =鍼線(しんせん)、縫い針と縫い糸
14 排置(はいち) 順序を立てて並べおく、行儀よく据えおく
15 循法(じゅんぽう) 法規にしたがう
16 川田甕江
(かわだ・おうこう)
川田甕江(文政13年[1830年]6月13日~明治29年[1896年]2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。文学博士。
本名は剛
(たけし)、初名は竹次郎、通称は剛介、字は毅卿(きけい)、号は甕江。
備中国浅口郡玉島の回船問屋に生まれる。幼くして両親をなくし辛い少年時代を過した。
はじめ玉島で儒学者鎌田玄渓に学ぶ。江戸に出て佐藤一斎・古賀茶渓・大橋訥庵・藤森弘庵らに学ぶ。
その後、近江大溝藩の藩儒となり、さらに安政4年[1857年]28歳のとき山田方谷の引きで備中松山藩の藩儒となった。松山藩では江戸藩邸の教授をつとめた。三島中洲とともに山田方谷門人筆頭として、幕末には藩の存続に尽くした。
明治3年[1870年]には政府に仕え、大学少博士、権大外史となる。明治8年[1875年]修史館において国史編纂にあたった。しかしその編纂の方針をめぐって、重野成齋と対立した。明治17年[1884年]に東京帝国大学教授となり、華族女学院校長、帝室博物館理事、貴族院議員(勅撰)を歴任し、明治26年(1893年)には東宮侍講をつとめた。
著書に『随鑾紀程
(ずいらん・きてい)』、『近世名家文評』、『文海指針』、『楠氏考』、『得間瑣録』など。
関連書籍に、亀田濤著『川田甕江先生小伝』などがある。

明治29年[1896年]2月2日没、享年67歳。
18 一出(いっしゅつ) 一たび出る、ひとたび、一番
21 中村敬宇
(なかむら・けいう)
中村敬宇(天保3年5月26日[1832年6月24日]~明治24年[1891年]6月7日)は、江戸期の幕臣で、また明治期の思想家にして教育家。
諱は正直、通称は敬輔、号は敬宇。
江戸の生まれ。昌平坂学問所において佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を学んだ。安政2年[1855年]に学問所教授、文久2年(1862年)幕府の儒官となる。
慶応2年[1866年]幕府のイギリス留学生の監督として渡英。維新で帰国後は静岡学問所の教授となった。
明治3年[1870年]にスマイルズの『Self Help』を『西国立志篇(自助論)』の名で出版、100万部以上のベストセラーとなった。続いてミルの『On Liberty』を『自由之理(自由論)』の名で出版し、最大多数の最大幸福という功利主義思想を主張した。
明治5年[1872年]大蔵省に出仕。また女子教育、盲唖教育にも尽力した。明治6年[1873年]同人社を開設、同志とともに明六社を設立し、『明六雑誌』を発行するなどして啓蒙思想の普及に努めた。
その他の訳著書に、『共和政治』、『西国童子論』、『天道溯原』、『西洋童蒙訓』、『敬宇全集』、『敬宇詩集』、『英国律法要訣』、『敬宇先生詩文偶抄』、『西洋節用論』、『自叙千字文』、『敬宇先生演説集』、『報償論』、『処世之方針』、『品行論』、『ポケット自助論』、『英訳漢語』、『表忠帖 天』など。
21 徳澤(とくさわ) =徳沢。地名か、ならば長野県松本市の上高地の一地名
23 横説竪説
(おうせつ・じゅせつ)
縦横に説き述べること。自由自在に議論すること
25 辛巳(かのと・み) ここでは明治14年[1881年]のこと
25 謹白(きんぱく) 書翰文用語、つつしんでもうす
26 中洲学人
(ちゅうしゅう・がくじん)
中洲学人は三島中洲の号
26 三嶋(みしま) 三島は三島中洲のこと
26 (つよし) 毅は三島中洲の名
26 (落款印)三島毅印 三島毅は三島中洲の名
27 半嶺(はんれい) 半嶺は中根半嶺の号
27 中根(なかね) 中根は中根半嶺のこと
27 (もん) 中根半嶺の名
27 (落款印)中根聞印 中根聞は中根半嶺の名
27 中根半嶺
(なかね・はんれい)
中根半嶺(天保2年[1831年]2月16日~大正3年[1914年]6月23日)は、幕末・明治期の医師・書家。
名は聞、字は公升、号は半嶺。
越後国、高田藩の侍医・中根半仙の子。江戸生まれ。幕府の医学館で学び、父の職をついで高田藩侍医兼書道師範となった。
巻菱湖にも師事し、曹全碑を学んだ。隷書を得意とし、関雪江と並び称される。また篆刻・詩もよくした。
明治40年(1907年)日本書道会の創設に尽力した。
大正3年6月23日没、享年84歳。


解 説
『真書高島帖』
『真書高島帖』は、明治14年[1881年]8月に三島中洲撰・長三洲書により青木嵩山堂から出版されている。タイトルに真書とあることからも分かるように、習字(楷書)のお手本でもあったのであろう。
「高島公園碑」
同じ明治14年[1881年]8月に、『真書高島帖』とほぼ同一内容の石碑「高島公園碑」が諏訪市の高島公園内に建っている。碑には右大臣従一位勲一等岩倉具視の筆になる篆額が〔高島公園碑〕と刻まれており、本文は三島中洲撰・長三洲書『真書高島帖』による。
刊行と建碑の目的
もそも、『真書高島帖』が誰の発意で企画されたのか、「高島公園碑」がどのような経緯で建てられたのか、その詳細は分らない。帖(初版)の刊行も、碑の建立もともに明治14年[1881年]8月なので、おそらく一体的な企画のなかで行われたものであろう。


解説注
右大臣従一位勲一等岩倉具視
岩倉具視は、江戸末期から明治前期の政治家(文政8年[1825年]~明治16年[1883年]。
公卿
(くぎょう)の出身。公武合体に尽くし、のち尊皇攘夷の志士と交わって、大久保利通らと倒幕運動を推し進めた。維新後政府の中心人物となり、明治4年[1871年]、遣米・遣欧使節。帰国後征韓論に反対し、自由民権運動などを弾圧し、明治政府の基礎を築いた。(出典2)


誠之館所蔵品
管理№ 氏 名 名  称 制作/発行 日付
06782 三島中洲
長三洲
『真書高島帖(再版)』(コピー) 青木嵩山堂 明治31年(1898年)
07428 三島中洲
長三洲
『真書高島帖(再版)』 青木嵩山堂 明治31年(1898年)


出典1:『国史大辞典9』、145頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和63年9月30日
出典2:『新世紀ビジュアル大辞典』、198頁、学習研究社編刊、1998年11月9日
2012年1月6日追加●2012年1月11日更新:本文(読み・訳注)・奥書(読み下し・訳注)・解説・解説注●2012年1月12日更新:本文(読み・読み下し・大意・訳注)●2012年1月13日更新:写真・本文(読み・読み下し・大意・訳注)・奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月16日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月17日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月17日更新:奥書(大意)、解説●2012年1月20日更新:本文(読み・読み下し・大意)・奥書(読み・読み下し)●2012年1月25日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月26日更新:本文落款印・奥書落款印●2012年1月27日更新:奥書(読み・読み下し)●2012年1月31日更新:誠之館所蔵品●2012年2月17日更新:本文(読み下し・大意)・奥書読み下し●2014年11月27日更新:本文(読み・読み下し・大意・訳注)・奥書読み下し●2015年7月15日更新:レイアウト(改頁)●2017年1月4日更新:管理番号t0790→07428●