『真書高島帖(再版)』 07428 | |||||
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本文読み下し | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本文大意 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本文訳注 | ||
表 | 『真書高島帖』 (しんかき・たかしまちょう) |
三島中洲撰 長三洲書 真書は楷書のこと |
01 | 于(う) | ~に |
01 | 海内(かいだい・かいない) | 海のうち、国内、天下、海外の対 |
01 | 土神 | 土地の神 |
01 | 大己貴命 (おおなむちのみこと) |
素盞鳴尊(すさのをのみこと)の子孫。=大黒主命(大黒さま)。出雲大社に祭られ、縁結びの神として知られている。 |
02 | 健御方(たけみかた) | =健御名方、健南方神。出雲の大国主神の御子と伝えられる神。国譲りの際、天神側の建御雷(たけみかずち)神に力競べをいどみ、腕を引き抜かれ、負けて逃げ出し、信濃国の諏訪湖まで追い詰められて降伏し、以後この諏訪の地から出ないと誓って赦され、その地に鎮座したと語られる。この説話は、『古事記』のみ記され、『日本書紀』にはみえない。もともと国譲りとは無関係の別系の説話が割り込まされたのであろうといわれる。『延喜式』にみえる、信濃国諏訪郡南方刀美(みなみかたとみ)神社(現在の長野県諏訪市諏訪大社)の祭神がこの神である。『古事記』の力競べという相撲の話は、もと土地の古い伝承で、水の精霊の河童が人に力をいどみ、腕を引き抜かれて降参し、以後、人に害を加えないと誓って赦されるという、後世の「河童のわび証文」型の話と一致する。もとは建御雷は登場せず、建御名方が諏訪湖の水の神を打ち負かし、これを眷属とするという話で、諏訪社の鎮座縁起として語られていたもので、これが中央に伝わって、中臣氏の氏神である建御雷神の武勇譚という形に変形されたのであろう。(出典1) |
03 | 安芸守頼忠 (あきのかみ・よりただ) |
諏訪頼忠(天文5年[1536年]~慶長10年[1605年])のこと。天文11年[1542年]武田信玄により諏訪氏は滅亡させられた。しかし、一族の頼忠は神官として生き残り、武田氏が織田・武田連合軍に滅ぼされ、さらに織田信長が本能寺で横死するや、諏訪氏を再興させた。その後、徳川家康と戦ったのち和睦してその家臣になった。一時は関東に移封されたが、慶長6年[1601年]、子の諏訪頼水(元亀元年[1570年]~寛永18年[1641年])が旧領諏訪に復帰した。以後諏訪氏が廃藩置県まで諏訪の領地を守った。諏訪忠誠(再承)が明治17年[1884年]に子爵となり華族に列せられた。 |
05 | 部民 | 人民 |
06 | 永世(えいせい) | 永い年代、世のある限り、とこよ、永代。 |
06 | 袤(ぼう) | 南北の長さ |
06 | 翳(えい、あい) | きぬがさ、おおい、たて、かざす |
06 | 亭榭(ていしゃ) | うてな |
07 | 觴(しょう) | さかずき、さかずきを酌み交わす |
07 | 大約(たいやく) | おおよそ、大略 |
07 | 蓊鬱(おううつ) | 草木の盛んなさま、蓊蔚 |
08 | 華表(かひょう) | 鳥居 |
09 | 沙禽(さきん) | 砂に遊ぶとり |
09 | 風檣(ふうしょう) | 帆にいっぱい風をふくんだ帆柱 |
10 | 嶂(しょう) | みね |
10 | 碓嶺(たいれい) | =碓日嶺(うすい・とうげ) (江戸時代には峠の文字は使われず、平仮名ないしは嶺をとうげと読んでいたらしい。) |
10 | 環合(かんごう) | とりまく、めぐらす |
10 | 巍然(ぎぜん) | 山の高大なさま、人物のすぐれているさま |
10 | 嵩大(すうだい/そうだい) | 高大にする、また高大なこと 高大は、高く大きい/すぐれている/おごりたかぶる/思いあがる |
11 | 矗矗(ちくちく) | 高く聳えるさま |
11 | 甲斐八嶽(かい・やつがたけ) | 甲斐八ヶ岳、諏訪からは東方向 |
11 | 富嶽(ふがく) | =富士山、諏訪からは南東方向 |
12 | 玲瓏(れいろう) | さえてあでやかなさま、すきとおるように美しいさま |
12 | 隠然(いんぜん) | はっきりと表面には現れないが、どことなく軽視できない勢力のあるさま、おもみのあるさま |
13 | 和田(わだ) | 現:松本市和田、諏訪からは西方向 |
13 | 鹽尻(しおじり) | =塩尻、現:塩尻市、諏訪からは西方向 |
13 | 飛騨槍嶽(ひだ・やりがたけ) | 飛騨槍ヶ岳、諏訪からは北西方向 |
13 | 縹渺(ひょうびょう) | ほんのりかすかにみえるさま |
14 | 恍(こう) | ほのか、かすか、おぼろ、はっきりと見定め難いさま、われを忘れてぼうっとしているさま |
14 | 目睹(もくと) | みる、目で実際に見る |
14 | 嵐光(らんこう) | 山の気の日が映じたひかり |
14 | 波影(はえい) | 波の影 |
15 | 掩暎(えんえい) | おおいかくす、掩映 |
15 | 漁唱(ぎょしょう) | 漁夫のうたう唄、漁歌 |
15 | 棹歌(とうか) | 船頭がさおを操って船を進めながらうたう歌、ふなうた、櫂歌(とうか)、棹唱 |
18 | 佳節(かせつ) | めでたい日、佳辰、吉日 |
18 | 良辰(りょうしん) | めでたい日、吉日、佳辰、おだやかで気持ちのよい日 |
18 | 挈(けつ、けち) | =携、たずさえる |
18 | 跋渉(ばっしょう) | 山を越え川を渡る、山野を歩きまわる、また諸所を歩きまわる |
19 | 游豫(ゆうよ) | =游予、出歩いて楽しむこと |
21 | 何限(かげん) | 無限 |
22 | 土人(どじん) | その土地に代々住んでいる人 |
23 | 歟(よ、か、や) | - |
◎ | ◎ | ◎ |
24 | (落款)従六位三島毅撰 (みしま・つよし・せん) |
従六位は三島の当時の位階(姓名印では正六位となっている 三島毅は三島中洲の名 |
24 | (姓名印)正六位三島毅 | 正六位は三島の当時の位階(落款では従六位)となっている 三島毅は三島中洲の名 |
24 | (雅号印)東京大学教授 | 東京大学教授は三島中洲が当時東京大学の教授であったからか |
24 | (落款)従五位長炗書 (じゅうごい・ちょう・ひかる・しょ) |
従五位は長三洲の当時の位階 炗は長三洲の字 |
24 | (姓名印)長炗印 | 炗は長三洲の字 |
24 | (雅号印)太史氏 | - |
奥書読み(1/2) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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奥書読み(2/2) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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奥書読み下し | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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奥書大意 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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↓奥書三島毅 落款印 | ↓奥書中根半嶺 落款印 | ||||||||||||||
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奥書訳注 | ||
01 | 余 | ここでは三島中洲自身のこと |
01 | 長秋史 | 秋史は長三州の号 |
02 | 頃(ケイ/ころ) | しばらく |
02 | 蓋(がい) | ふた、おもうこと、おもうに |
02 | 堂主人 | ここではこの本を出版した青木嵩山堂・青木恒三郎(文久3年[1863年]~大正15年[1926年])のこと。青木嵩山堂の創業者。 青木嵩山堂は明治10年[1877年]から大正10年[1922年]にかけて大阪心斎橋筋博労町角と東京日本橋区通りに事務所・店舗をもつ総合出版社。小売から取次ぎ、さらに出版・印刷も手がけた。またカタログによる通信販売の魁でもあった。 代表的出版物として、『萬国名勝図絵』、『日本名勝図絵』があり、文芸出版では、幸田露伴の『五重塔』、村上浪六の『当世五人男』、黒岩涙香の『岩窟王』、尾崎紅葉の『金色夜叉』、国木田独歩の『武蔵野』、新渡戸稲造の『武士道(日本語訳)』、福沢諭吉の『修行立志篇』がある。 恒三郎は大阪出版組合を創設し、その会長をつとめた。 |
03 | 跋言(ばつげん) | 跋文、あとがき |
06 | 驥尾(きび) | 優れた人の後にいることのたとえ |
06 | 蒼蝿(そうよう) | 小人のたとえ |
06 | 耳 | のみ |
10 | 重野成齋 (しげの・せいさい) |
重野成齋(文政10年[1827年]~明治43年[1910年])は、薩摩藩儒、東京帝国大学教授、文学博士。 諱は安繹(やすつぐ)、字は士徳(しとく)、通称は厚之丞(あつのじょう)、号は成齋(せいさい)。 成齋は薩摩藩士の家に生まれ、嘉永元年(1848年)昌平黌に入り、羽倉簡堂・塩谷宕陰・安井息軒らの知遇を得る。藩内で開国論を展開して流罪になり、西郷隆盛とも交流した。 その後「生麦事件」のとき藩命でイギリス人・パークスと談判し藩と国を救った。 明治4年(1871年)上京し修史館長などを歴任。明治14年(1881年)東京帝国大学文学部教授となる。明治15年(1882年)からは『大日本編年史』の編纂に携わる。 岩崎男爵家の「静嘉堂文庫」では、膨大な漢籍を蒐集した。 早くから名声で知られ、序文や碑文などが多い。 若いころは斉藤竹堂を慕い、欧陽脩・蘇東坡を好んだが、晩年は清の姚姫伝(ようきでん)を好んだ。 著書に『国史眼』、『国史綜覧稿』など。 明治43年[1910年]没、享年84歳。 |
10 | 起首(きしゅ) | 物事のはじめ、おこり。着手する。 |
10 | 夾(こう) | はさむ、はめる、入れ込む |
14 | 線鍼(せんしん) | =鍼線(しんせん)、縫い針と縫い糸 |
14 | 排置(はいち) | 順序を立てて並べおく、行儀よく据えおく |
15 | 循法(じゅんぽう) | 法規にしたがう |
16 | 川田甕江 (かわだ・おうこう) |
川田甕江(文政13年[1830年]6月13日~明治29年[1896年]2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。文学博士。 本名は剛(たけし)、初名は竹次郎、通称は剛介、字は毅卿(きけい)、号は甕江。 備中国浅口郡玉島の回船問屋に生まれる。幼くして両親をなくし辛い少年時代を過した。 はじめ玉島で儒学者鎌田玄渓に学ぶ。江戸に出て佐藤一斎・古賀茶渓・大橋訥庵・藤森弘庵らに学ぶ。 その後、近江大溝藩の藩儒となり、さらに安政4年[1857年]28歳のとき山田方谷の引きで備中松山藩の藩儒となった。松山藩では江戸藩邸の教授をつとめた。三島中洲とともに山田方谷門人筆頭として、幕末には藩の存続に尽くした。 明治3年[1870年]には政府に仕え、大学少博士、権大外史となる。明治8年[1875年]修史館において国史編纂にあたった。しかしその編纂の方針をめぐって、重野成齋と対立した。明治17年[1884年]に東京帝国大学教授となり、華族女学院校長、帝室博物館理事、貴族院議員(勅撰)を歴任し、明治26年(1893年)には東宮侍講をつとめた。 著書に『随鑾紀程(ずいらん・きてい)』、『近世名家文評』、『文海指針』、『楠氏考』、『得間瑣録』など。 関連書籍に、亀田濤著『川田甕江先生小伝』などがある。 明治29年[1896年]2月2日没、享年67歳。 |
18 | 一出(いっしゅつ) | 一たび出る、ひとたび、一番 |
21 | 中村敬宇 (なかむら・けいう) |
中村敬宇(天保3年5月26日[1832年6月24日]~明治24年[1891年]6月7日)は、江戸期の幕臣で、また明治期の思想家にして教育家。 諱は正直、通称は敬輔、号は敬宇。 江戸の生まれ。昌平坂学問所において佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を学んだ。安政2年[1855年]に学問所教授、文久2年(1862年)幕府の儒官となる。 慶応2年[1866年]幕府のイギリス留学生の監督として渡英。維新で帰国後は静岡学問所の教授となった。 明治3年[1870年]にスマイルズの『Self Help』を『西国立志篇(自助論)』の名で出版、100万部以上のベストセラーとなった。続いてミルの『On Liberty』を『自由之理(自由論)』の名で出版し、最大多数の最大幸福という功利主義思想を主張した。 明治5年[1872年]大蔵省に出仕。また女子教育、盲唖教育にも尽力した。明治6年[1873年]同人社を開設、同志とともに明六社を設立し、『明六雑誌』を発行するなどして啓蒙思想の普及に努めた。 その他の訳著書に、『共和政治』、『西国童子論』、『天道溯原』、『西洋童蒙訓』、『敬宇全集』、『敬宇詩集』、『英国律法要訣』、『敬宇先生詩文偶抄』、『西洋節用論』、『自叙千字文』、『敬宇先生演説集』、『報償論』、『処世之方針』、『品行論』、『ポケット自助論』、『英訳漢語』、『表忠帖 天』など。 |
21 | 徳澤(とくさわ) | =徳沢。地名か、ならば長野県松本市の上高地の一地名 |
23 | 横説竪説 (おうせつ・じゅせつ) |
縦横に説き述べること。自由自在に議論すること |
25 | 辛巳(かのと・み) | ここでは明治14年[1881年]のこと |
25 | 謹白(きんぱく) | 書翰文用語、つつしんでもうす |
26 | 中洲学人 (ちゅうしゅう・がくじん) |
中洲学人は三島中洲の号 |
26 | 三嶋(みしま) | 三島は三島中洲のこと |
26 | 毅(つよし) | 毅は三島中洲の名 |
26 | (落款印)三島毅印 | 三島毅は三島中洲の名 |
27 | 半嶺(はんれい) | 半嶺は中根半嶺の号 |
27 | 中根(なかね) | 中根は中根半嶺のこと |
27 | 聞(もん) | 中根半嶺の名 |
27 | (落款印)中根聞印 | 中根聞は中根半嶺の名 |
27 | 中根半嶺 (なかね・はんれい) |
中根半嶺(天保2年[1831年]2月16日~大正3年[1914年]6月23日)は、幕末・明治期の医師・書家。 名は聞、字は公升、号は半嶺。 越後国、高田藩の侍医・中根半仙の子。江戸生まれ。幕府の医学館で学び、父の職をついで高田藩侍医兼書道師範となった。 巻菱湖にも師事し、曹全碑を学んだ。隷書を得意とし、関雪江と並び称される。また篆刻・詩もよくした。 明治40年(1907年)日本書道会の創設に尽力した。 大正3年6月23日没、享年84歳。 |
解 説 |
『真書高島帖』 『真書高島帖』は、明治14年[1881年]8月に三島中洲撰・長三洲書により青木嵩山堂から出版されている。タイトルに真書とあることからも分かるように、習字(楷書)のお手本でもあったのであろう。 「高島公園碑」 同じ明治14年[1881年]8月に、『真書高島帖』とほぼ同一内容の石碑「高島公園碑」が諏訪市の高島公園内に建っている。碑には右大臣従一位勲一等岩倉具視の筆になる篆額が〔高島公園碑〕と刻まれており、本文は三島中洲撰・長三洲書『真書高島帖』による。 刊行と建碑の目的 そもそも、『真書高島帖』が誰の発意で企画されたのか、「高島公園碑」がどのような経緯で建てられたのか、その詳細は分らない。帖(初版)の刊行も、碑の建立もともに明治14年[1881年]8月なので、おそらく一体的な企画のなかで行われたものであろう。 |
解説注 | |||
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岩倉具視は、江戸末期から明治前期の政治家(文政8年[1825年]~明治16年[1883年]。 公卿(くぎょう)の出身。公武合体に尽くし、のち尊皇攘夷の志士と交わって、大久保利通らと倒幕運動を推し進めた。維新後政府の中心人物となり、明治4年[1871年]、遣米・遣欧使節。帰国後征韓論に反対し、自由民権運動などを弾圧し、明治政府の基礎を築いた。(出典2) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理№ | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日付 |
06782 | 三島中洲 撰 長三洲 書 |
『真書高島帖(再版)』(コピー) | 青木嵩山堂 | 明治31年(1898年) |
07428 | 三島中洲 撰 長三洲 書 |
『真書高島帖(再版)』 | 青木嵩山堂 | 明治31年(1898年) |
出典1:『国史大辞典9』、145頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和63年9月30日 出典2:『新世紀ビジュアル大辞典』、198頁、学習研究社編刊、1998年11月9日 |
2012年1月6日追加●2012年1月11日更新:本文(読み・訳注)・奥書(読み下し・訳注)・解説・解説注●2012年1月12日更新:本文(読み・読み下し・大意・訳注)●2012年1月13日更新:写真・本文(読み・読み下し・大意・訳注)・奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月16日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月17日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月17日更新:奥書(大意)、解説●2012年1月20日更新:本文(読み・読み下し・大意)・奥書(読み・読み下し)●2012年1月25日更新:奥書(読み・読み下し・訳注)●2012年1月26日更新:本文落款印・奥書落款印●2012年1月27日更新:奥書(読み・読み下し)●2012年1月31日更新:誠之館所蔵品●2012年2月17日更新:本文(読み下し・大意)・奥書読み下し●2014年11月27日更新:本文(読み・読み下し・大意・訳注)・奥書読み下し●2015年7月15日更新:レイアウト(改頁)●2017年1月4日更新:管理番号t0790→07428● |