「阿部正弘とペリー展」 
−藩校誠之館の誕生とその時代−

 このたびは、藩校誠之館の創設者・福山藩主阿部正弘をとりあげ、収蔵資料を中心に書画、書簡集、図面、器物、書籍、写真などを展示し、藩校誕生と老中の正弘の人となり及びペリー来航当時の様子を紹介するものです。


2003年10月〜2004年3月

T 阿 部 正 弘
 福山藩5代藩主阿部正精の6男として、文政2年(1819)10月16日、江戸藩邸で生れた。天保7年(1836)兄の6代藩主正寧のあとを継ぎ、18歳で7代藩主となった。天保9年に奏者番、そして寺社奉行を経て、天保14年(1843)25歳の若さで老中に抜擢された。翌弘化元年(1844)侍従、同2年には老中首座となる。嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが開国を要求して浦賀に来航し、翌安政元年(1854)3月日米和親条約の締結にいたる開国問題を、正弘は老中首座として指揮した。また、文武一体の教育を進め、江戸と福山に藩校誠之館を設立し、江戸は安政元年、福山は翌2年(1855)に開校した。福山藩では、藩士の仕進の法を改正し、人材の養成と登用の道を開いた。だが、安政4年(1857)6月17日、39歳の若さで病没してしまった。

展示 著・書・画 品 目 名 称 管理
五姓田芳柳 「阿部正弘(伊勢守)肖像画」 00019
阿部正弘 書幅「仁義」 t0010
阿部正弘 書幅 七言長律「数日陰晴」 t0020
阿部正弘 書額「潮音」 t0030
阿部正弘 書幅 五言対句「桃符」 00013
阿部正弘 書幅「以不教民戦 是謂棄之」 00015
阿部正弘 書額「功徳山」 00017
阿部家伝来 「御所人形」 t0040
阿部家伝来 「陣羽織」 t0050
10 徳川斉昭 『新伊勢物語』 00246
11 パネル「長崎海軍伝習所」 t0060


U 藩 校 誠 之 館
 福山藩には、天明6年(1786)に創設された藩校弘道館、文政初年設置の江戸丸山学問所があった。弘道館は安政元年まで69年間福山藩の教育施設として存在したが、その効果はあがらず、それを改革して新しい藩校誠之館を設立することとした。安政元年に江戸に、安政2年には福山に相次いで2つの藩校が開校された。試験によって人材登用をおこなう仕進法の採用と従来の漢学のみであった学科に国学・洋学・医学・数学・礼法および軍法を加えたことは、時代の要請とはいえ大きな特色であった。列強の圧迫という現実を目の前にして教育の重要性をより明確にした阿部正弘は、国力の差を生み出した西洋科学技術を摂取し、その差を縮めようとしたのであった。

展示 著・書・画 品 目 名 称 管理
12 「廃藩直前福山城下地図(複製)」 00343
13 阿部正倫 「孔子画像」 00002
14 徳川斉昭 書幅「誠之館」 00317
15 川谷尚亭 「誠之館名」 00089
16 江木鰐水
津山義道
「誠之館之記」 00044
17 阿部正弘 「御諭書」
(おんさとしがき)
00014
18 「誠之館諸稽古場惣体百歩一絵図面」 00282
19 「ペリーからの贈り物」 z0660
20 「誠之館一件帳(複製)」 00292


V ペ リ ー(黒船来航)
 近代の幕開けを告げる象徴的な出来事は、嘉永6年(1853)ペリーの率いる黒船4隻に浦賀への来航である。その強大な武力を背景に開国を迫る行動と使命感は前例をみないほど大きく、幕府もその要求をのまざるを得なかった。ペリーは、1852年11月24日ミシシッピ号でノーフォークを出航し、大西洋を渡り、アフリカの南端ケープタウンを回ってインド洋に入り、シンガポールを抜けて、香港・マカオに寄港し、上海で旗艦となったサスクエハナ号に移り、那覇、小笠原に寄り、那覇から4隻そろって出航し、江戸湾内の浦賀に錨をおろした。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の出来事である。7ヶ月半ほどの大航海を経てあの黒船はやってきたのである。
 そして翌安政元年1月16日、7隻の軍艦を率いて江戸に近い金沢沖に停泊した。2月7日横浜応接所で交渉は開始された。薪水・食料・石炭の供給及び漂流民救助は認めて、交易は認めないという内容であったが、第2回の交渉では下田・箱館開港という大きな譲歩を余儀なくされた。3月3日、日米和親条約が調印された。これによってわが国の鎖国制度は大きく崩れていった。


展示 著・書・画 品 目 名 称 管理
21 「黒船来航絵巻(複製)」 t0070
22 「ペルリ提督神奈川上陸図」複製パネル t0090
23 「ペリー来航図」複製パネル t0100
24 「亜米利加使節饗応之図」複製パネル t0110
25 「ペルリ像」複製パネル t0120
26 「ペリー肖像画」複製パネル t0130
27 「幕末外国関係資料」 z0670


W ロ シ ア 来 航
 ペリーが浦賀を去ってから1ヶ月程後の嘉永6年7月18日、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航する。幕府は交渉を開始するが、意見の一致をみないまま、翌安政元年に長崎をはなれ、10月になって下田に入り、交渉の結果12月21日に日露和親条約が調印された。

展示 著・書・画 品 目 名 称 管理
28 「ロシア使節上陸並応接之図」 t0080




展示 著・書・画 品 目 名 称 管理
31 菅茶山 『黄葉夕陽村舎詩(初編)』 00247
32 菅茶山 『黄葉夕陽村舎詩(後編)』 00248
33 菅茶山 『黄葉夕陽村舎詩(遺稿)』 00249
34 河崎敬軒 『黄葉夕陽村舎紀行(驥虻日記)』 00252
35 菅茶山 『筆のすさび』 00250
41 目崎 一三 「目ア一三 写真」
42 『岬 柴火 遺稿集』 00301
43 『今、今ですよ!!
目崎一三(岬柴火)遺稿詩文集』
02996
91 塩出英雄 日本画「樹陰」 03684
92 浮乗廉(水郷) 書{致中和」 03685
93 塩出英雄 扁額「誠之会館」 03686


ここでご紹介する資料の解読と解説は、
森田雅一先生
、および松浦盤峯先生
ご尽力によるものです。