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福山誠之館同窓会会長(第4代)、八杉商店会長 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治23年(1890年)3月4日、府中市生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和52年(1977年)1月25日、享年88歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
府中市出口町にて小川良平の次男として生まれる。 中学校進学の際、当時中学は数少なく、備後では県立福山中学校のみで、文武両道の中等教育に徹する優秀な藩校の気風を継承していた。 中学校入学以来の長い徒歩通学が、人生を決した感がする。 毎朝午前3,4時頃起床し、大きな握り飯を携え、夜中に家を出て戸手(現在の福戸橋)辺りで、日曜に自分で作っておいた藁草履に履き変え、新市方面から出てくる先輩、後輩と合流し、福山誠之館中学校まで徒歩通学した。 そんな厳しい社会状態であった。 横尾を過ぎる頃、朝食として携えてきた大きな握り飯を食べ、本を出して勉強しながら通学したのである。よくも5年間も続いたものだと今更ながら感心するばかりである。 しかも学校では剣道部に所属し、毎日人並みの練習をして、午後6,7時頃帰宅の途につき、午後11,12時頃やっと府中の家に辿り着く日々で、睡眠時間をどの様にして作ったのか驚くばかりである。 5年間の勉学を終え中学を卒業し、更に官立長崎高商(現長崎大学)に入学し、最終の勉学を身につけた。愈最高学府を卒業し、府中に帰郷した。 英語、漢詩が得意で、暫く教員生活を送った。 縁あって福山市深津町の商家八杉商店の一人娘八杉ミツの婿養子となり入籍する。 2男2女の子宝に恵まれ、八杉商店6代目杜長となり、立派な業績を上げ、会杜の発展に寄与する。 昭和初期より裁判所調停委員、福山警察署公安委員、広島県警公安委員等多くの要職に就き活躍し、一方福山税務署の調停委員長として多くの市民に貢献し喜ばれた。 又栄誉ある福山誠之館同窓会会長(第4代)に総会にて推挙され就任し、多くの先輩、後輩の方々と接し、その責を果たした。 八杉善次郎(昭和19年卒) |
参考資料1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、33頁、野上五郎・式見静夫編、備後文化出版社編刊、昭和34年9月 参考資料2:『備後備中肖像名鑑 郷土を創りつつある人々』、17頁、式見静夫編、備後文化出版社編刊、昭和37年8月 参考資料3:『自治行政大観 新日本人文録(広島県人国記)』、593頁、地方自治調査会編刊、昭和41年11月30日 |
2005年3月9日更新:肩書・参考資料●2006年6月28日更新:タイトル●2006年8月28日更新:経歴●2008年6月11日更新:経歴・本文●2010年7月8日更新:経歴● |