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福山誠之館同窓会会長(第10代)、ウエスギ株式会社社長 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和7年(1932年)10月16日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成30年(2018年)2月25日、享年87歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「陽の当たる坂道」 上杉博美 |
少し古くなったが、ある大学の卒業式に参加した。 キャンパスの広さ、施設の重厚さ、生徒数の多さ、なかんづく教授陣の多才さには圧倒された。 が、それにも増して保護者の参加数の多いのには驚いた。 四年間の成長の証しと共にその大半が家庭を離れ、また故郷を旅立つ−−−まさに出発の確認の儀式であり、独立の宣告ゆえなのでもあろうか。 もう後戻りは出来ぬ。 この間、何割の学生が後顧の憂いなく自信を持って学問を後にし得たのか。 汚濁、混沌の社会の中へ飛び出して行く彼らを見て、大半散り急いだ桜並木の中、しばらく感傷に耽った。 今更言うべくも無いが、各項代表の女性登壇の多さに感嘆させられる。 女性が前を走って行く。 袴の和服が大半で、男性のスーツは勿論だが、カッターシャツの白は極少である。 減少はしたが不似合いな茶髪、髭面が点在する。 学帽の消えたのは解るが、誇るべき学校の校章がどこにも見えない。 学生本人すらも、もう描けないのではなかろうか。 一人一人名前を呼ばれるが、返事の声は蚊の如く細い。 三年前ある友人が、一番返事の大きい学生に自社入社を懇望し連れ帰った企業の話を思い出した。 国旗は堂々と掲げられるが、国歌の斉唱で、大きな声で歌っているのは壇上の来賓と教授連だけである。 合唱団まで編成された棹尾を飾る「蛍の光」は感傷的な叙情の中に湧溢する浄化の信を見るようだが、涙を見せる生徒は皆無だ。 感動や感傷を失ったのではないだろうか。 煩雑な生活とテレビ・雑誌などの情報過多が物の基準や量率を失わせ、価値判断や精神構造を巣食っていく。 学長告辞を要約すると、まず、「立志」を告げ、個性の尊重が言われるが、個性には悪性もある。 己の適性の発見と自覚を説かれ、人間としての道義的心情、道義的判断、道義的行動を強調された。 最後はこちらまで悟され、佛教学校へ参した感すら頂戴した。 然し、一弁一言、教えには感慨を持った。 一方、誠之館では、新装なった新校舎を伴って全日制三八二名、定時制一八名が卒業証書を戴いて巣立っていった。 総合選抜から新総合学科誠之館へと移行して、二年目の学生たちである。 まだ、あどけなさの中に伸び上がる若芽の純粋さは微笑ましくも頼もしい。 素晴らしく完成度の高い施設の中、改革の実践隊となった期待の後輩達である。 多くの卒業生注目の下、美濃校長から山代校長へ引き継がれた訓導の中に育てられ、鍛えられた後輩たちである。 今はもう夫々の進路や社会ヘステップを踏んでいるが、生き様の基本に挨拶と清掃の何であるかを学び、「美しい誠之館・輝く誠之館」の担い手であった。 その彼らに、我々同窓会が掲げ訓じた同窓会の先人の歴史資料と実践の記録は、幾人もの人物画の瞳の中に秘められ強く固く伝えられたであろう。 そして、現在の学生たちにも綿々と継がれ語られ、誠之の伝統と骨格を造っていくものである。 岩崎会長は式辞の中にたまたま一緒に机を並べた暫しの縁が、やがて強い友情、結縁となり生涯の仲間として助け合うことになる。 事に際し、短絡的な選択でなく、広い視野での知識を二重、三重に持ちながら、目先の損得に因われず、本質を見極め、大所高所の決断ができる常識的思考力を問いたい。 更に、大きく日本民族としての叡智と献身を語られ、現今の混濁の世相の中ゆえにこそ、誠之の一同に「輝ける人生を」と締めくくられている。 今席、街中にバラの香る今日、東西より多勢の同窓生が相集うだろう。 昔の思い出を語り、明日の思い出を新たに呵々大笑も良し、沈思黙考も良し、誠之の輪の中にどっぷりとつかろうではないか。 今回初めてのホテルの懇親会、新趣向の労に相槌を打ちながら盛会を祈る次第。 誠之館から観音寺を経て、グランドホテルヘの道を人呼んで「陽の当る坂道」と言う。 (出典1) |
出典1:『誠之館同窓会報(第9号)』、64頁、「編集後記」、上杉博美、福山誠之館同窓会編刊、2002年5月1日 |
2005年4月12日更新:本文追加・出典●2005年7月6日更新:経歴●2006年5月23日更新:タイトル・連絡先(削除)●2008年2月7日更新:経歴●2010年5月25日更新:経歴●2010年7月23日更新:写真●2013年5月1日更新:経歴●2018年2月5日更新:経歴● |