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弁護士、福山市長(第七代)、画家 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治28年(1895年)5月1日、福山霞町生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和52年(1977年)、享年82歳、福山西町能満寺に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
徳永家は下級武士であったが士族で、廃藩と共に転向して呉服店を営み商勢隆昌であった。 県会議員としては、政友会に属し、民政党の中島精二氏と対峙し、以後たがいに好敵手となる。 昭和11年(1936年)設立の中国化学工業株式会社は、社長・藤井与一右衛門氏、専務・徳永豊で、政党的系列をのりこえ、福山市財界を打って一丸としたもので、高く評価される。 会社は昭和12年(1937年)に操業開始し、炭酸バリューム・硝酸バリューム・硫酸バリュームを製造する。 会社は軍の重要工場に指定され、遂に軍事技術員を命ぜられる。 昭和19年(1944年)には、亜硫酸ガスのたちこめる工場内で日夜陣頭指揮をするうち過労と栄養失調のため倒れる。 医師のすすめにより妻静子の実家・芦品郡有磨村小田家に敗残の身を疎開療養する。 昭和20年(1945年)は、8月6日に広島市に原子爆弾が投下され、8月8日にはB29が福山市を空襲し焼夷弾により市街を焼失される。 真紅に燃える福山の空を死期迫る病床で暗澹としてのぞむ。 8月15日天皇陛下の玉音放送を病床に端座して聞く。 昭和21年(1946年)は、三谷一二氏が市長を引退、助役小林和一氏が福山市長となる。 復興部長茂森豊次氏の立案になる戦災復興都市区画整理事業の実施をめぐって市民の世論が二分する。 昭和22年(1947年)4月、新憲法による福山市初代市長が公選となる。 推されて立候補するも、前代議士・藤井正男氏に敗れ、涙をのむ。 昭和26年(1951年)、福山市長候補に茂森豊次氏を推すが、藤井正男氏に敗退。 昭和30年(1955年)、市長選挙に再び擁立され、病をおし立候補、藤井正男氏の3選を阻止し、第7代福山市長となる。 昭和31年(1956年)、鞆・水呑など周辺10か町村を合併する。 昭和32年(1957年)、御門町にばら公園をつくる。 「ここに善意の花ひらく」との碑文は、公園造成過程における地元市民の支援を讃えた言葉である。 大昭和製紙誘致運動を展開する。 予定投下資本は40億円。 昭和34年(1959年)には、大昭和製紙の福山進出決定により、用地買収に入るが、竹が端漁協から猛烈な誘致反対運動がおこる。 この頃同時に県が中心となって川崎製鉄の松永湾誘致問題が進行しており、日量10万トンの協力分水を約束するが、結局これも失敗する。 同じくこの年「日本鋼管全国に進出適地を求む」との情報を得、誘致の希望を申し入れる。 昭和35年(1960年)、大昭和製紙誘致の断念により、日本鋼管誘致に専念の決意を固める。 芦田川の水量測定に専念、日量30万トンの用水供給の可能性について、やや確信を持つが、夏季旱魃に対する不安がなお去らない。 昭和36年(1961年)、用水の問題は、三川ダムが決め手となり、日本鋼管側の水量調査をパス。 広島県は、日本鋼管誘致促進事務所を東京に置く。 遂に日本鋼管福山進出に成功し、10月16日広島県知事室で調印式を挙行する。 昭和37年(1962年)、深安町を合併。 鞆の浦スカイラインを開発、工業都市とともに観光都市福山を志向する。 昭和41年(1966年)、松永市を合併、市域206平方キロ余、人口20万を越す。 7月10日福山市制50周年式典を挙行、ここに新福山市が誕生する。 昭和45年(1970年)5月11日、4期間の任期満了により市長を辞任する。 日本鋼管誘致、備後工特地域指定とその後の歩みは、大福山市建設の基盤をほぼ完成させた。 昭和34年(1959年)10月1日、田尻漁業協同組合の藻貝養殖記念碑を揮毫。 徳永光昭氏は氏の子。 (出典2) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
07401 | 徳永豊 画 | 油彩画「大阪淀屋橋附近」 | − | − |
06552 | 徳永豊 画 | 色紙「富士」 | − | 昭和40年 |
04354 | 徳永豊 画 | 油彩画「大帝釈峡」 | − | − |
05329 | 徳永豊 書 | 書「論語(知者楽仁者壽)」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
02118 | 徳永豊回顧録刊行会 編 | 『徳永豊回顧録』 | 徳永豊回顧録刊行会 | 昭和47年 |
03118 | 福山文化連盟 編 | 『福山−風と土と人−5 徳永豊特集号』 | 福山文化連盟 | 昭和56年 |
出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年6月 出典2:『徳永豊回顧録』、578頁、徳永豊回顧録刊行会編刊、昭和47年7月15日 出典3:『自治行政大観 新日本人文録(広島県人国記)』、地方自治調査会編刊、昭和41年11月30日 出典4:『備後備中肖像名鑑 郷土を創りつつある人々』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和37年8月 出典5:『福山いしぶみ散歩』、64頁、「藻貝の養殖記念碑」、佐野恒男著、1993年5月12日 |
関連情報1:『ニコピン先生葛原しげる追悼録』、146頁、「ニコピン先生を憶う」、徳永豊、葛原先生童謡碑建設委員会編刊、昭和39年3月29日 |
2005年3月11日更新:関連本・所蔵品・出典●2006年3月30日更新:経歴・所蔵品●2006年5月26日更新:連絡先(削除)●2006年8月28日更新:出典●2007年11月30日更新:経歴●2008年5月23日更新:本文●2009年2月18日更新:経歴・誠之館所蔵品●2009年7月7日更新:関連情報●2010年11月25日更新:誠之館所蔵品●2012年2月14日更新:経歴・本文・出典●2014年6月26日更新:誠之館所蔵品●2014年8月21日更新:誠之館所蔵品●2015年8月4日更新:誠之館所蔵品●2015年9月14日更新:経歴●2016年6月28日更新:誠之館所蔵品● |