福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
徳川齊昭 徳川斉昭
とくがわ・なりあき とくがわ・なりあき
水戸藩主(第9代)
徳川齊昭 (出典1)


経 歴
生:寛政12年(1800年)3月11日、江戸・小石川の水戸藩邸生まれ
没:万延元年(1860年)8月15日、水戸城で急死、享年61歳
文政12年(1829年)10月17日 30歳 兄の跡をつぎ、水戸藩第9代藩主となる
文政12年(1829年)12月 30歳 十三位に叙す、左近衛権中将に任ぜられる
天保元年(1830年) 31歳 老中大久保忠真に書を送って綱紀刷新を計る
天保元年(1830年) 31歳 藩政改革に着手、藤田東湖ら改革派を抜擢登用
天保元年(1830年)12月 31歳 有栖川宮織仁親王の王女吉子と婚約
天保4年(1833年)3月 34歳 最初の就藩
天保5年(1834年) 35歳 領内視察
天保5年(1834年)9月 35歳 神武陵修復を幕府へ建議
天保5年(1834年)10月 35歳 蝦夷開拓を幕府へ建議
天保6年(1835年) 36歳 那珂湊に郷校敬業館開設
天保7年(1836年)3月 37歳 那珂湊に砲台を築く
天保8年(1837年) 38歳 水戸藩の改革
天保8年(1837年)8月 38歳 権中納言に任ぜられる
天保9年(1838年)3月 39歳 「弘道館記」成る
天保10年(1839年) 40歳 「戊戌封事(ぼじゅつ・ふうじ)」を将軍家慶に提出
天保10年(1839年) 40歳 『北方未来考』を著す
天保11年(1840年) 41歳 水戸藩において弘道館の建設
天保14年(1843年) 44歳 水戸藩において寺社改正を断行
弘化元年(1844年)5月 45歳 幕府から隠居謹慎を命ぜられる
弘化元年(1844年)11月 45歳 謹慎が解かれる
弘化2年(1845年) 46歳 老中阿部正弘と書簡の交換を始める(のちの『新伊勢物語』)
嘉永2年(1849年) 50歳 藩政復帰
嘉永6年(1853年)7月 54歳 幕府海防参与
嘉永6年(1853年)7月 54歳 幕府へ「海防愚存」を提出
安政2年(1855年)8月 56歳 幕府幕政参与
安政4年(1857年)7月 58歳 海防・幕政両参与を免ぜられる
安政6年(1859年)8月27日 60歳 水戸に永蟄居


生い立ちと学業、業績
生い立ちと学業
水戸藩(35万石)第9代藩主。第7代藩主・徳川治紀
(はるとし)の第3子として、江戸小石川に生まれた。母は烏丸資補の女。幼名は虎三郎、啓三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに齊昭(なりあき)。兄の第8代藩主・齊脩(なりのぶ)の嗣子となる。字は子信、叔寛。通称は虎三郎、のち敬三郎。号は景山、潜竜閣と称した。諡は烈公。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子(登美宮)。厳正なる水戸の家風の下に育てられ、会沢正志斎らに学ぶ。

業績
文政12年(1829年)、30歳で兄の跡をつぎ第9代藩主となり、従三位に叙し、左近衛権中将に任じた。齊昭の生涯は、いわゆる烈公という諡号(しごう)の通り、幕藩体制の矛盾が噴出してきた内憂外患の幕末期を、徳川御三家の藩主として、藩政・国政の諸方面に対して、積極果敢にその指導力を発揮して、烈しく燃えた一生であった。その一生は第1期から第4期までに分けて概括できよう。

第1期 文政12年(1829年)〜弘化元年(1844年)
まず襲封より天保15年までの第1期は、幕府のそれより3年もさきがけた水戸藩の天保改革であった。藤田東湖・戸田忠太夫らを登用。天保の大飢饉に対応する経済の安定、士道の高揚、人事の刷新等のため、齊昭は天保8年(1837年)、改革の四大目標を示した。
その第1「経済の義」は水戸全領の検地。
第2の「土着の義」は、家中を城下から移して地方に土着させること。
第3「学校の義」は、藩校弘道館や各地郷校の創設である。
第4「総交代」は江戸定府の藩士の一部を水戸に帰任させることである。
これらは、いずれもある程度の成功を見た。
さらには天保元年(1830年)に、老中大久保忠真に書を送って綱紀刷新を計り、天保5年(1834年)山陵修復を建議して賛意を求め、これと前後して蝦夷開拓の建議を試み、天保10年(1839年)には、「戊戌封事(ぼじゅつふうじ)」を将軍に提出して大船解禁・蝦夷地開拓の事を計ったが、これら数度の建議に対して、老中は祖宗の禁令に固執していずれも否決したのみでなく、水野忠邦退閣後はこの議をもって弘化の難の一条件とした。この間蘭学者を招いて造艦書を翻訳せしめ、郡宰に命じて船材を整え、船を派遣して蝦夷地の調査を試み、幕吏間宮林蔵に彼地の事情を問わしめ、天保10年(1839年)には自ら『北方未来考』を著して準備に怠りなかった。天保11年(1840年)就藩して国政に精励、中でも弘道館の建設に力を致し、天保14年(1843年)には寺社改正を断行して神仏混同を改め、多くの僧を還俗せしめた。
第2期 弘化元年(1844年)〜嘉永2年(1849年)
ところが、弘化元年(1844年)5月、齊昭は突然幕府から隠居謹慎を命ぜられた。ここから、嘉永2年(1849年)の藩政復帰までの、蟄居雌伏の時代が第2期である。この期間に齊昭が、老中
阿部正弘に書面をもって意見を開陳したその書簡集が『新伊勢物語』である。弘化元年(1844年)11月謹慎が解かれると、関白鷹司政通を通して京師との関係を深め、一方蘭学の研究の意欲も急速に加わった。
第3期 嘉永2年(1849年)〜安政4年(1857年)
嘉永2年以後、とくに
ペリー来航を機として、老中阿部正弘の包容力に包まれて、縦横に自己の政策を展開した幕政参与の時期が第3期である。嘉永6年(1853年)7月海防参与の命が下りると意見10ヵ条を建言し、和戦を一決して大艦製造を最急務とした。ついで安政元年(1853年)7月軍制改革に参与、翌安政2年(1854年)幕政改正に参与した。
第4期 安政4年(1857年)〜万延元年(1860年)
安政4年6月の正弘の死を契機に、齊昭の立場は次第に苦しくなり、安政4年(1857年)7月、海防・政務両参与を免ぜられ、特に安政5年(1858年)の安政条約調印以後、将軍継嗣問題などが起こり、井伊大老との政治的対立は決定的となり、安政5年(1858年)7月謹慎。安政6年(1859年)8月27日、水戸に永蟄居を命ぜられ(安政の大獄)、加えて水戸藩内の党争すなわち尊攘派分裂という事態が発生し、万延元年(1860年)8月15日、謹慎中の水戸城内で、失意のうちに、波乱の生涯を終えた。享年61歳。茨城県久慈郡の瑞竜山に葬る。

主な著書
主な著書として、以下がある。『明訓一斑抄』、『大極論』、『海防愚存』、『砲術問答』、『北方未来考』、『不慍録』、『雲霓機纂』、『景山奇方集』、『景山和薬集』、『景山女誡』、『景山文集』、『景山公詩文』、『景山詠草』、『要石』、『進思録』、『彪物語』、『海防過去未来考』、『仏滅秘策』、『山海二策』、『告志篇』、『和訓集成』、『八洲文藻』、『明倫歌集』、『息距編』、『鷹書集成』。
   (出典1〜5)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
05454 徳川齊昭 書 「扁額誠之館原本」 嘉永7年(1854年)
05455 徳川齊昭 書 「扁額誠之館落款」 嘉永7年(1854年)
00018 徳川齊昭 書 扁額「誠之館」 嘉永7年(1854年)
04308 徳川齊昭 書 扁額「誠之館」(複製) 昭和51年
04309 徳川齊昭 書 扁額「誠之館」(模写) 平成11年ごろ
00317
00316
徳川齊昭 書 「誠之館(縦書)・落款」(複製)
00246 徳川齊昭 編 和本『新伊勢物語』 弘化2年(1845年)〜
 嘉永6年(1853年)
07109 徳川齊昭 編 『新伊勢物語』(写真) 福山城博物館友の会古文書部 平成26年(2014年)
07022 川路寛堂 「徳川斉昭公親書及びその由緒書」 明治27年
07110 茨城県史編さん幕末維新史部会 編 『茨城県史料 幕末編T』 茨城県 昭和46年
05206 茨城県立歴史館 編 『幕末日本と徳川齊昭』 茨城県立歴史館 平成20年
05493 半藤一利 著 『幕末史』 新潮社 平成20年
05560 東京大学埋蔵文化財調査室 編 『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9 東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区T』 東京大学埋蔵文化財調査室 平成21年
07271 福山城博物館 編 『福山阿部家展−受け継がれた武家資料ー』 福山城博物館 平成27年


出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、58頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典2:『国史大辞典(10)』、292頁、「徳川齊昭」、吉川弘文館編刊、平成元年9月30日
出典3:『堂々日本史14』、113頁、NHK取材班編、KTC中央出版刊、1998年4月17日
出典4:『明治維新人名辞典』、658頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日
出典5:『常陽藝文 特集徳川齊昭 (1991年6月号)』、財団法人常陽藝文センター刊、平成3年6月1日
2005年8月2日更新:レイアウト●2006年6月27日更新:タイトル・所蔵品●2006年7月4日更新:所蔵品●2006年8月31日更新:所蔵品●2007年1月18日更新:経歴・本文・関連情報・出典●2007年9月21日更新:経歴・出典●2007年10月10日更新:誠之館所蔵品●2008年1月15日更新:本文・関連情報削除●2008年6月18日更新:本文・出典●2008年11月28日更新:[斉昭→齊昭]・氏名・本文・誠之館所蔵品・出典●2009年8月3日更新:誠之館所蔵品●2010年1月27日更新:誠之館所蔵品●2010年2月23日更新:誠之館所蔵品●2011年8月11日更新:誠之館所蔵品●2014年7月17日更新:誠之館所蔵品●2014年8月2日更新:誠之館所蔵品●2015年2月9日更新:誠之館所蔵品●2015年8月5日更新:誠之館所蔵品●2015年12月8日更新:レイアウト・誠之館所蔵品●