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福山誠之館同窓会会長(第5代)、鳥取県知事・愛媛県知事、弁護士 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治31(1898)年3月20日、広島県深安郡御野村下御領(現福山市神辺町下御領)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成2(1990)年7月24日、享年93歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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登録請求の頃を偲んで 土肥 米之 |
私が弁護士登録の請求をしたのは昭和22年(1947年)2月でありました。 私は昭和20年(1945年)11月愛媛県知事を辞任して現住地に帰任し農業に従事しておりました。 所有田畑があるので稲麦甘藷等を作って自活の途を進んでおりました。 その頃は統制経済の時代で物資は不足し経験に乏しい百姓仕事の成績はあがりませんでした。 その上インフレが進んできておりました。 私がその様な生活をしておるのを見て、大正12年頃私が愛媛県庁の警察部に警視として勤務しておった頃、当時の松山の検事局へ検事として勤務しておった今西貞夫氏と親しくなり爾来交際を続けておりましたが同君はいつしか官界を去り弁護士となり広島市に居住しており、同君が私の大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業のことを知っており弁護士登録請求の資格があることを教えてくれ、請求手続に必要な書類を送付するよう勧めてくれたので、経歴書を書き大学卒業証書の写しなどを送り登録請求の手続をとって貰いました。 当時の広島弁護士会会長高橋武夫先生から昭和22年(1947年)3月の常議員会に出頭するように通知があったので指定の日時に当時弁護士会の事務所のあった向洋の東洋工業の建物内の事務所に行き常議員会に出頭して事情聴取を受けました。 その月の終り司法大臣から、弁護士名簿第9869号登載した旨の通知を受けました。 そして広島弁護士会に入会させて頂き今日に至っておる次第です。 前記常議員会に出頭した際の常議員諸先生の氏名は判りませんが、唯風貌容姿により後日知った三宅清先生がその1人であったことと弁護士会のために協力して欲しいと述べられた一言が強く印象に残っております。 今西、三宅両先生は既に故人となっておられ御冥福をお祈りする次第です。 私は退官後農業をも営んでおりますが農地については用水排水だけについてもそれぞれ旧慣が厳然としており之が守られておりますが農地で畦畔が境界と謂はれておりますがその使用管理を隣接所有者と共同で行うか或いは灌漑用水路の水流の流れの上の方の土地所有者がその土地の畝畔の使用管理するか又はその反対となるのか慣習によるものも多いので地方の慣習を念頭におくことの大切であることを教えられました。 民事刑事の問題にしても事実内容を知ることが肝要であることは言うまでもありませんが、私が登録を受けた当時は自分独りで検討するより外なく参考書など手元に持ち合せがなく苦労しましたが、今は参考書類が多く発刊されておりありがたい時代となったものと思います。 又研修制度が出来たので良い時代となったと思っております。 私の登録請求の頃インフレが著しく亢進し貨幣価値の急激な低落で苦労しました。 インフレ防止は固より為政者経済界の施政の問題でありますが金銭等に関する訴訟事件は自分の過去の経験に鑑みて可能的に早く解決し度いものと思っております。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02060 | 土肥米之 著 福山誠之館同窓会 編 |
「中学校時代の思い出」 『懐古−誠之館時代の思い出−』、26頁 |
福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
出典1:『芦田川のひまわり』、広島弁護士会福山地区会編刊 出典2:『福山学生会雑誌(第62号)』、128頁、福山学生会編刊、大正15年7月12日 |
関係資料1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月 |
2005年3月8日更新:肩書・出典●2005年4月11日更新:本文●2006年3月2日更新:経歴(深安郡→福山市)●2006年6月27日更新:タイトル●2007年8月10日更新:関係資料●2007年8月21日更新:経歴・関係資料●2008年5月23日更新:経歴●2009年6月30日更新:経歴●2011年8月17日更新:誠之館所蔵品・出典・関係資料● |