福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
寺地強平
寺地舟里
てらち・きょうへい てらち・しゅうり
藩校誠之館教授、同仁館病院の院長兼教授
寺地強平 (出典1)


経 歴
生:文化6年(1809年)
没:明治8年(1875年)12月7日、享年67歳、福山木之庄仁伍谷の神葬墓地に葬る
漢医方を学ぶ
文政12年(1829年)春 21歳 京都で開業
長崎に遊学
江戸に上って坪井信道(つぼい・しんどう)の門に入る
天保8年(1837年) 29歳 帰郷して開業、家塾に於ては蘭書を講義
天保14年(1843年) 35歳 江戸において正弘公に蘭書を講ずる
嘉永2年(1849年)ごろ 41歳ごろ 福山地方で種痘を実施
安政2年(1855年) 47歳 藩校誠之館洋学寮教授
安政3年(1856年) 48歳 石川和介(関藤藤陰)・山本橘次郎らと東蝦夷を踏査し、開拓策を正弘に献じる
安政4年(1857年) 49歳 『大①使用軌範』を刊行
明治2年(1869年)9月 61歳 藩立医学校兼病院「同仁館病院」を設立し、その院長兼教授
明治4年(1871年) 63歳 普通学教科書『養生論』を著す


生い立ちと学業、業績
寺地強平、名は豊、字は子亨、号は舟里である。文化6年、福山藩士寺地幸助の二男として生まれた。はじめ漢医方を学んで、文政12年(1829年)京都で開業したが、当時京坂地方で、原書により蘭方を行う者がいなかったのに発奮し、志を立てて長崎に遊学した。研鑚すること3年、さらに江戸に上って坪井信道(つぼい・しんどう)の門に入った。同門の親友に緒方洪庵がいる。

天保8年(1837年)、強平は帰郷して開業し、家塾に於ては蘭書を講義した。嘉永2年(1849年)、はじめて長崎に牛痘がもたらされ、日本にも種痘術がはじまると、緒方洪庵は同年末には痘苗の分与を受け、大坂に除痘館をつくってその普及に努めたが、寺地強平も良種を手に入れ、多くの反対を排して福山地方にこれを実施したと伝えられる。その年月は、明確ではないが、洪庵の活動に促されたことは十分考えられるところである。

阿部正弘は強平に俸禄若干を与えて藩士の列に加えていたが、天保14年(1843年)、老中に列せられた後、強平を江戸に召して蘭書を講じさせた。安政2年(1855年)、福山誠之館開校後は、洋学寮教授に任ぜられ、多くの学生を育てた。また安政3年(1856年)、正弘の特命を受け、石川和介(関藤藤陰)山本橘次郎らとともに、5月7日から11月10日までの間、東蝦夷を踏査して帰り、開拓策を正弘に献じた。強平は、理化学・博物学・生理学に通じていたが、安政4年には、『大礟使用規範(たいほう・しよう・きはん)』(3巻3冊)を翻訳刊行した。(原書はドマンの著した“Voorsschrift tot de bediening van het batterij-geschut,1836”であり、内容は各種砲台における装具の配置や員数、砲種ごとの号令による操練の手配や注意すべき要点などである。)また、明治4年(1871年)福山藩刊行の普通学教科書『養生論』も彼の著作である。

明治2年(1869年)9月福山藩によって福山西町字築切に
医学校兼病院「同仁館病院」が設立されたが、強平はその院長兼教授に推され、洋医学をもって診療と医学生の教育にあたった。門人には代山堅三、五十川基小林義直佐沢太郎、坂田雅夫、佐原純一郎などがいる。

明治8年(1975年)没、67歳。福山木之庄村、二五谷に葬られた。
   (出典2・6)


(芸備医事(第17号)より)    富士川游   (出典3)
備後の国、福山の城趾、百木枝茎互いに青緑を競ひ、石泉滾々として咽て又吐くの邊、歳歳春時花花歴乱、清馥人を薫るの処、磊落たる蘚石の屹然として樹立するあり、篆額して、「舟里先生之碑」と曰う、旧福山藩主阿部正桓侯の親筆に係る碑文あり、備中の老儒阪谷朗廬の撰ぶ所、其文に曰く、本邦欧学の行はるるや、端を医学に啓く、而して其術の初めて起るや、宿習主となり、上下忌避、指して異端邪説となし、忮攻撃す、幸に、豪傑の士の真理の存する所を知り、百折撓まず示すに実効を以ってするあり、然して後、人肇めて之に服し今日の盛んに至る、寺地強平先生の如き其一なり、先生は備後福山の人、初め漢医方を学ぶ、年甫めて一九、医範提綱を読み、慨然として曰く、済生の真理此に在りと、

文政十二年ノ春、業を京都に問ふ、当時京坂の間、原書未だ行はれず、概ね唯訳書を講ず、先生奮て長崎に遊び、始めて蘭書を読み、研鑚三年、遂に東江戸に入り、坪井信道
(つぼい・しんどう)の塾に寓し、緒方洪庵、及び青木川本諸子と日夕討論、業大に進む、天保八年郷に帰る、是より先き、嘗て洪庵と約し、京阪に分立して大いに其学を開かんとす、因て将に京に寓せんとす、父君固く執て聴かず、先生帳然たり、既にして曰く、父母の国を開くも亦吾が任内の事なりと、乃ち居を福山城下に卜す、城下の医家、本と一二欧方喜ぶものあり、然れども亦唯訳書に據り通ぜざるものあれば輙ち漢方を雑へ用ふ、其原書を以て主となすは則ち先生に創まる、衆或は悪み、或は嫉み、議議譸張、先生笑て顧みす、洪庵諸友と書牘往復、琢切益勤め、治効漸く人に信ぜらる、種痘術の新に伝ふるや、先生奔走其種を得て之を播く、群疑沸騰、斥けて妖妄となすに至る、先生説諭尽力、機に応じ験を取る、其術日に行はれ、済ふ所実に多し、数州の嬰孩、今に至るまで其澤を蒙ると云う、此時に当りて藩主正弘君、徳川政府の老中となり、先生を江戸の邸に辟し、待つに殊例を以てし、専ら欧書を講ぜしむ、又藩校に命じて欧学科を創立し、先生をして帰て教授に任せしむ、後欧学益開け、更らに医学校を設け、兼て病院を開き、先生を推して、長となす、實に明治三年なり、此に至りて先生の志始めて大に行はる方今海内翕然として欧学を重じて備人旗を掲け、特に医術のみならず、欧米政治経済教育法律兵制等の諸書を訳して以て世に資するもの、彬彬然として其間に列立す、皆先生唱導の力なり豪傑の士澤の及ぶ所、広且遠と云うべし、先生辟に応ずる時、蝦夷開拓の挙あり、主命を奉じて同藩士と東蝦を跋渉し、擇捉諸島を探り、開拓説を作りて之を献ず、嘉永中、海防令の発するや、福山火薬之を他州に仰ぐ、先生建言して製造所を設け、藩始て便を得、是皆余力経世に及ぶものなり、先生人となり温雅灑落善く談ず、其学傍ら理化物産本草に長ず、また和学に通ず、訳述頗る多きも未だに梓に付せず、梓行するもの大砲使用規範あるのみ、

名は豊・束、字は子亨、舟里と号す、考を孝助君と曰ふ、世阿部氏に仕ふ、姓は大塚氏、配は務仲氏、子なし、兄の子準三を嗣となす、先生晩年官を罷めて優遊を養う、明治八年一二月七日没す、享年六十七、福山城北木之荘二五谷に葬むる、而して墓碑未だ銘あらず、門人別に碑を城下に樹て、素の先生の友人たるを以って文を詫す、銘に曰く、「卓識立業、一方之傑、披拂迷霧、永表正掲、厥功在国、厥愛在人、石兮可泐、澤兮弗淪」と、朗廬子の文、能く其人の神を伝へ、一字句の加減すべきものなし、乃ち挿むに国字を以ってし以て先生の伝に代ふ

此に挿む所の先生の像は
小林義直君の蔵する所に係る、君曰く、此の像は初め畫工五姓田某に命じて畫かしめしに、太た先生の真に肖さる所あり更に郷人藤井松林に嘱して畫かしむ、松林は能く先生を知るもの、其の像由りて始めて真容を得たりと、今回君の厚意によりて此に之を挿むを得、謹で一言を付して謝意を表すと云う 

上掲の藤井松林筆の肖像画は、小林義直の末裔であられる小林芙慈子さんより寄贈されたものです。このことから、この項の最後で触れられているのは、この肖像画のことと推察されます。
①=


寺地強平先生の子孫    岩崎博(昭和19年卒)
平成11年の暮、友人の医師、楠本剛先生(昭和20年⑤卒)から、「寺地強平の子孫が現れましたよ」と意外な電話を貰った。

「神戸の知人医師から電話があって、親しい方が先日福山に墓参に行き、駅前の『福山医学黎明の地 明治福山醫學校・同仁館病院跡』の顕彰碑を見て大変感激された。彼女は寺地強平の曾孫で、毎年墓参しているが何も知らなかった。顕彰碑は福山医師会が建てているので由来を医師会に聞いて欲しいと頼まれた」とのことである。

かつて
『誠之館百三十年史』刊行の際は6年間編集委員として係わったが、責任執筆者の森田雅一先生から、藩校誠之館における西洋医学の採用と同仁館病院の建設、院長である寺地強平の業績など教えていただき、誠之館出身の後輩開業医として大いに感激していた。だから長く不明なその末裔が見つかればと森田先生と一緒に探しはじめてからもう10年以上になる。

「寺地強平之墓」と刻まれる木之庄仁伍谷の神道墓はどなたかが掃除されているらしいが縁者の消息は杳として分からなかった。新年を迎えそのK老婦人から子供がいない強平が兄の子準三を養子にして家督を継いだこと、一家は戦前福山を引き払い神戸に移ったこと、久しぶりに墓参し医師会の顕彰碑に案内され驚いたことなど拝聴した。

病院創立120年に当たる平成元年、福山医師会(
村上貞夫会長・昭和17年卒)は今は東京三菱銀行の敷地である旧跡に碑を造り盛大な顕彰イベントを持ったが、今思いがけない形でその顕彰碑の意義を再確認出来たことは嬉しかった。寺地先生の写真はここに掲げる1枚だけで、神戸のお宅でもずっと同じ写真が仏壇に飾られていたが戦災で消失している。

明治2年(1869年)福山藩が寺地強平を院長として、今は駅前、東京三菱銀行付近に造った医学校、福山病院同仁館はこの地方に初めて本格的な近代医療をもたらした。廃藩のため数年で廃校になるが、医師達は
平川鴨里など郷里に留まりやがて地域医師会の淵源となる者、また小林義直佐沢太郎のように中央に出て天下に名を為した人も少なくない。

福山城裏「先人の森」には
阪谷朗廬が撰する「舟里寺地先生顕彰碑」がある。福山駅前東京三菱銀行角の「福山医学黎明の地 明治福山藩醫學校・同仁館病院跡」碑とともに是非ご覧頂き、誠之館の輝かしい歴史の残影を確かめていただきたい。   (出典5)


誠之館所蔵品
管理№ 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
06816 寺地強平 著 『蝦夷紀行(上中下)』 安政3年(1856年)
00354 寺地強平 作書 短冊「年ばかり」
00355 寺地強平 作書 短冊「世の波の」
00356 寺地強平 作書 短冊「世わたりの」
00049 関藤藤陰 画文 巻子「蝦夷探査図絵」 安政4年(1857年)
z0023 寺地強平 院長 「同仁館病院」 明治2年(1869年)
00351 阪谷朗廬 撰文 拓本「舟里寺地先生之碑」 明治11年(1878年)
00353 藤井松林 「寺地強平肖像画」 小林義直 明治17年(1884年)


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氏 名 書  名 発行所 発行日 コメント
寺地強平 訳 『大砲使用規範』 安政4年(1857年) 3巻3冊
寺地強平 著 普通学教科書『養生論』 福山藩 明治4年(1871年)


出典1:『福山の今昔』、170頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、112頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『芸備医事(第17号)』、6~8頁、富士川游、藝備醫學會(芸備医学会)編刊、明治30年10月
出典4:『芸備医志』≪昭和10年12月15日刊行本の復刊≫、32頁、広島県医師会編刊、昭和48年11月11日
出典5:『誠之館同窓会報(第7号)』、10頁、「寺地強平先生の子孫」、岩崎博、福山誠之館同窓会編刊、2000年5月1日
出典6:『今昔物語 福山の歴史(上巻)』、230頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和53年11月20日
出典7:『広島県の医師群像-明治時代-』、45頁、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和61年1月1日
出典8:『福山の碑』、74頁、「寺地強平の碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日
出典9:『新編「福山いしぶみ散歩』」、103頁、「寺地舟里」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日
関連資料1:『広島県の医学歴史散歩』、65頁、「舟里寺地先生の碑」、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和57年8月1日
関連資料2:『芸備両国医師群像』、33頁、「寺地舟里」、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和58年1月1日
2004年12月17日:更新●2005年4月13日更新:所蔵品●2005年12月2日更新:本文・出典●2006年3月17日更新:所蔵品●2006年4月5日更新:タイトル・本文●2007年1月18日更新:経歴・本文●2007年9月27日更新:経歴・本文●2007年11月2日更新:誠之館所蔵品●2008年4月30日更新:経歴・本文●2008年11月17日更新:経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●2009年2月12日更新:本文●2009年8月20日更新:レイアウト●2009年9月18日更新:著書訳書・出典●2009年9月30日更新:関連資料●2009年10月1日更新:関連資料●2009年10月19日更新:本文・出典・関連資料●2009年12月17日更新:本文●2010年3月31日更新:写真・誠之館所蔵品・探しています・出典●2011年1月24日更新:探しています●2012年3月1日更新:本文・出典●2012年3月12日更新:出典●2015年3月23日更新:本文・誠之館所蔵品・探しています●