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福山市長(第8代)、弁護士、歴史研究家、茶道家 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和3年(1928年)2月29日、広島県福山市東堀端町(現福山市城見町)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成7年(1995年)6月8日、68歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
生い立ちと学業 広島県福山市東堀端町(現福山市城見町)において、藤井定市の6男に生まれる。 昭和20年誠之館中学校を卒業。 撰文と揮毫 昭和50年(1975年)5月25日、福山市立西小学校の「百周年記念碑」を撰んでいる。 昭和52年(1977年)11月には、福山市山野町に「島谷先生碑」の題字を揮毫している。 昭和60年(1985年)10月、福山市加茂町に建つ「小曳研造翁顕彰碑」を撰文した。 また、平成5年(1993年)5月、福山市城見町に「創倉志魂碑」を撰文している。 |
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彼と私との関りは、共に誠之館を卒業し旧制広島高等学校へ進んだ時から始まる。 昭和20年3月終戦直前の混乱期の為か、5学年生と4学年生が同時に誠之館を卒業した。 彼は私の1学年上の5年生であり、共に広島へ進学したものの、彼は文科、私は理科、寮も異なり、当時は互いに深い交流があった訳ではなく、未だ面識がある程度であった。 彼は広高卒業後同志社大学に進み、司法試験合格後福山で弁護士を開業、私は広高在学中父を喪い、卒業後家業を継ぎ、既に福山で事業を営んでいた。 爾来交遊を深め、終生私は心情的には彼に最も近いうちの1人となった。 弁護士時代、政界に身を置いた時代、病を得政界から引退した時代、何れの時代も常に王道を歩み自信に満ち、妥協を許さず終始立石流を通した一生であったと思う。 昭和38年の県会議員と昭和45年の市長選挙立候補前に数名を集めて行われた相談の場が生々しく思い出される。 凡そ、どうしようか迷っての相談というものではない。 心底に確固たる基を据え、進むべき方向を定め、決意しての宣言であり、容赦せぬ協力の要請であった。 今にして思えば、その時の気魄、強引さこそ彼の真骨頂であり、又彼の人生の中で最も美しい姿であった。 共に栄冠を手にし得たのも、きっと多くの賛同者がその気魄を胸に熱く感じ奮起し戦ったからであろう。 病を得、政界への道を断念した後、彼の才覚であり趣味でもあろうが、戦国武将の生きざまを辿った歴史ものを数冊上梓している。 当然、入念な考証の上、忠実に史実を記してはあるが、その行間には燃え尽きた武将への彼の限りない思い入れを感じさせる。 己の今日までの歩みを反芻し乍ら、誇り高き武将の背に憧憬の念を禁じ得なかったのではなかろうか。 生涯を終えるに際しては、恰も己の人生の終焉を予感し、去り際の有りようを意識したかのような所業の見事さには驚嘆させられる。 嫁いだ1人娘の二女を立石家の跡継ぎとして養女にし、仕事上の周辺の整理は勿論、立石家の菩提寺を福山大念寺に定め、墓を建て(墓形は著書『関ヶ原島津決戦記』の考証の為訪れた島津義弘の墓に似せている)、又彼の最後の著書となった『あしあと〔立石定夫の生涯〕』の原稿を病床にあり乍ら口述で完成させる。 あとがきには自身の葬儀のあり方まで述べ、自分が最も好んだ西行の歌 「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」 を記して結んでいる。 そして身罷る6月直前の4月には「桜が見たい」と周囲に訴えたと聴く。 まさに男の美学を演出し続けた生涯であったと思う。 付記 『あしあと〔立石定夫の生涯〕』は彼の没後、岩崎同窓会会長、鈴木、上杉同副会長ら有志の御尽力により、立石夫人の同意を得て製本され、関係者に配布された。 |
誠之館所蔵品 | ||||||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 | コメント | |||
03104 |
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『千代の面影』 | − | 昭和56年 | − | |||
03913 | 立石定夫 著 | 『元和の栄光 水野勝成の政治』 | 忘憂会 | 昭和57年 | 広島県地域出版物文化振興賞 | |||
03110 | 立石定夫 著 | 『杏葉紋の族譜』 | 立石事務所 | 昭和61年 | − | |||
04826 | 立石定夫 著 | 『関が原島津決戦記』 | 新人物往来社 | 昭和59年 | − | |||
04827 | 立石定夫 著 | 『戦国宇喜多一族』 | 新人物往来社 | 昭和63年 | − | |||
04828 | 立石定夫 著 | 『神辺城と藤井皓玄』 | 内外印刷 | 平成2年 | − | |||
04829 | 立石定夫 著 | 『あしあと[立石定夫の生涯]』 | 立石事務所 | 平成6年 | − | |||
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | |||
03048 | 福山市市長公室 | 『地方都市の課題』 | 福山市市長公室 | 昭和53年 | − |
探しています | ||||
氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 | コ メ ン ト |
立石定夫 著 | 『美作立石一族』 | − | − | − |
立石定夫 著 | 『皓玄公の後裔たち』 | − | 昭和57年 | − |
立石定夫 著 | 『杉原盛重』 | 内外印刷 | 平成2年 | − |
立石定夫 著 | 『美作大庄屋・大年寄記』 | 内外印刷 | 平成5年 | − |
立石定夫 著 | 『平田由緒録』 | − | − | − |
立石定夫 著 | 『鍋島家譜』 | − | − | − |
立石定夫 著 | 『鈴木家譜』 | − | − | − |
資料提供:吉田信一氏(昭和20年C卒) |
出典1:『自治行政大観 新日本人文録(広島県人国記)』、578頁、地方自治調査会編刊、昭和41年11月30日 出典2:『福山いしぶみ散歩』、10頁、「西小学校百周年記念碑」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1993年5月12日 出典3:『福山いしぶみ散歩』、112頁、「島谷真三」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1993年5月12日 出典4:『新編「福山いしぶみ散歩」』、32頁、「義倉 創倉志魂碑」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日 出典5:『新編「福山いしぶみ散歩」』、83頁、「小曳研造」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日 |
2005年3月11日更新:出典●2005年3月14日更新:主な著書●2006年4月3日更新:タイトル・所蔵品・主な図書●2007年9月27日更新:経歴●2007年12月21日更新:主な著書・誠之館所蔵品●2008年1月16日更新:経歴・主な著書・誠之館所蔵品●2009年7月9日更新:経歴・本文・資料提供●2012年2月14日更新:経歴・本文・出典●2012年2月17日更新:本文・出典●2012年3月9日更新:本文・出典●2012年3月12日更新:本文・出典● |