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書 家 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||
生:明和4年(1767年)、備前国和気郡北方村(岡山県備前市吉永町)生まれ | |||||||||||||||
没:文政元年(1818年)2月24日、京都で没、享年52歳 | |||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
登々庵は、備前国和気郡北方村(現・岡山県備前市吉永町)の名主・武元和七郎の長男。名は質・正質、通称を和五郎・孫五郎、字は景文、登々庵・行庵・泛庵(はんあん)などはその号である。弟勇次郎(君立)とともに閑谷学校に学ぶ。 病弱のため家業を弟に譲り眼科医になったが、江戸の儒学者柴野栗山に師事し、諸国を歴遊し、各地の名士を訪ねて生涯を送った。最初蘭学を志したが、その大成の困難をさとり、古碑法帖や古詩の研究に精励した。菅茶山に私淑し、交遊には、頼山陽・田能村竹田・浦上春琴など著名な学者文人が多い。登々庵がはじめて廉塾を訪れたのは、享和元年(1801年)の秋のころで、その後、文化3年(1806年)・文化4年(1807年)にも訪塾、滞留している。書道の門人は、備前をはじめ9か国145人に及んだ。 やがて、彼は文政元年(1818年)2月24日、享年52歳をもって京都に没した。翌月6日、「大和行日記」の旅に出た茶山は、7日備中において、はじめてその訃を聞いた。やがて吉野の花を見終えて京都に出た茶山は、4月22日、二条の料亭をかり、柴田義董(しばた・ぎとう)、浦上春琴(うらかみ・しゅんきん)などの知友10人を集めて登々庵追善の会を催している。 著書に『古詩韻範(5巻)』、『行庵詩草(6巻)』等がある。 (出典2)〜(出典3) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00251 | 武元登々庵 著 | 『行庵詩草(生集一、涯集二)』 | − | 文化11年(1814) |
05539 | 菅茶山関係書籍発刊委員会編 | 『黄葉夕陽文庫から 菅茶山の世界』 | 菅茶山関係書籍発刊委員会 | 平成21年(2009年) |
出典1:『閑谷学校資料館図録』、57頁、特別史跡閑谷学校顕彰保存会編刊、平成12年10月14日 出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、72頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典3:『黄葉夕陽文庫から 菅茶山の世界』、91頁、「武元登々庵」、菅茶山関係書籍発刊委員会編刊、2009年12月15日 |
2005年6月17日更新:レイアウト●2005年11月7日更新:インデックス●2006年6月27日更新:タイトル・所蔵品●2007年9月3日更新:関連情報●2008年1月16日更新:経歴・本文・関連情報削除●2008年1月25日更新:本文(吉永町→備前市吉永町)●2009年11月24日更新:誠之館所蔵品●2009年12月21日更新:経歴・誠之館所蔵品・出典● |