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福山誠之館同窓会会長(第9代)、株式会社鈴木工務店社長 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和5年(1930年)9月25日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成26年(2014年)6月20日、享年83歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「私の青春」 鈴木康平(昭和23年卒) |
初めての仕事はメーデイだった。 前の年の皇居前広場は、警官隊による一斉射撃によって、数人の死傷者を出しただけに、異様な雰囲気に包まれていた。 神宮外苑に集まったデモ隊は、皇居前広場に向かったと刻一刻知らせが入ってきた。 新米共に見て来いという。 皇居には入れまいとする警官隊と衝突したデモ隊は、新橋方面に方向を転換、電車通りに向かった。 渦巻きデモと異常に興奮した群集に驚いた私は、逃げ出そうと却ってデモ隊の中に入ってしまった。 小突き廻され、殴られ、水を掛けられビショ濡れになって、這う這うの体で会社に逃げ込んだ私は、バカヤローと怒鳴られた。 組合運動に出されて中央執行委員となり、拍手をもって励まされて団体交渉と得意になっていた私は、挙げ句の果てに病気になって休職、復帰後は出版局への転籍であった。 ある日、交渉相手であった大友専務(のち東京タワー社長)に会った。 気まずそうにする私に「君に用がある」と言った。 間もなく、社長室の中に有る審議室に入れられた。 編成は各局から一人づつで、怪しくなった会社の再建という大仕事であった。 40歳そこそこの室長が国策パルプより来た(のち副社長)。 変だと思っている内に、前田久吉社長は退陣、財界四天王の水野成夫氏の出陣であった。 サンケイホールに全員を集めて「スクラム組んで行こうじゃないか」と言った。 さすがに、共産党旗揚げの頭目である。 寒がりで、社長室には畳が持ち込まれ、炬燵が入った。 主筆は板倉卓造氏(庄原出身で福沢諭吉の弟子)で、主幹がが伊藤正造氏(『海軍』の著者)であった。 私らの横に部屋が有り、吉田茂氏がいつか縁の曲がったパナマ帽と麻の服でお見えになった。 どうした訳か、吉田さんからの板倉さんに宛てた毛筆の手紙が、私の抽斗の中に長く有った。 当時の財界は四天王時代であったが、未だ松永安左衛門(電力の鬼)・加藤武雄(三菱銀行元頭取)・藤原銀次郎(王子製紙)のご老体がお元気で、それらの人の前では、池田勇人通産大臣が直立不動の姿勢で話しておられたのが印象的だった。 木川田さん(東京電力社長)は常務で、経済同友会の代表幹事であった。 原稿を取りに行った新米の私に、「読んで下さい。これでいいでしょうか。」と言われた。 石川達三の「風そよぐ葦」のモデルになった文化部長は、風呂に入れば特高によって傷つけられた背中を見せた。 机の下に一升ビンを忍ばせてチビリチビリやらないと原稿が書けぬ人、宴席には必ず両肩に水筒を掛け、燗冷ましを入れて持ち帰る人、放射能の雨でやられると、ビニールのカッパを頭から掛けた東大出の秀才は、とうとう呪いの金魚鉢をアメリカ大使館に持って行き(金魚鉢の口が原爆雲の広がりに似ている)、病院に入院させられる羽目となった。 色んな個性の有る人が、水野体制となり、一気に首となった。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02060 | 鈴木康平 著 福山誠之館同窓会 編 |
「我が誠之館時代」、『懐古−誠之館時代の思い出−』、190頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
出典1:『商工ふくやま』、福山商工会議所刊、昭和63年5月号 |
2004年11月17日更新:写真●2005年8月18日更新:本文追加●2006年5月24日更新:タイトル・連絡先(削除)●2007年8月23日更新:関連資料●2010年5月25日更新:経歴●2011年8月18日更新:誠之館所蔵品・関係資料(削除)●2014年6月24日更新:経歴● |