福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
鈴木康平
すずき・こうへい
福山誠之館同窓会会長(第9代)、株式会社鈴木工務店社長
鈴木康平


経 歴
生:昭和5年(1930年)9月25日
没:平成26年(2014年)6月20日、享年83歳
昭和23年(1948年)3月 17歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和24年(1949年)3月 18歳 広島県福山誠之館高等学校卒業
昭和28年(1953年)3月 22歳 松山商科大学商経学部卒業
昭和28年(1953年)4月 22歳 産業経済新聞社入社
昭和35年(1960年)1月 29歳 株式会社鈴木工務店入社、社長
昭和43年(1968年)1月 37歳 福山青年会議所理事長
昭和43年(1968年)3月 37歳 福山商工会議所議員
昭和49年(1974年)3月 43歳 福山商工会議所監事
昭和52年(1977年)7月 46歳 福山ライオンズクラブ会長
昭和59年(1984年)4月 53歳 福山地方土木建築協会会長
昭和59年(1984年)4月 53歳 福山ケーブルネットワークス設立、代表取締役社長
昭和61年(1986年)7月 55歳 ライオンズクラブ国際協会336−C地区幹事
昭和62年(1987年)4月 56歳 株式会社テレビ新広島取締役
昭和63年(1988年)4月 57歳 広島経済同友会福山支部長
昭和63年(1988年)5月15日 57歳 福山誠之館同窓会幹事長
平成5年(1993年)1月 62歳 裏千家淡交会福山支部支部長
平成5年(1993年)9月 62歳 福山市教育委員
平成7年(1995年)3月 64歳 福山商工会議所副会頭
平成8年(1996年)1月 65歳 株式会社エフエムふくやま設立、代表取締役社長
平成8年(1996年)5月19日 65歳 福山誠之館同窓会副会長
平成8年(1996年)6月 65歳 福山明るいまちづくり協議会会長
平成10年(1998年)12月 68歳 福山市教育委員長
平成14年(2002年)12月 72歳 (財)裏千家淡交会本部参事
平成15年(2003年)1月 72歳 (財)裏千家淡交会福山支部名誉支部長
平成16年(2004年)5月16日〜
 平成22年(2010年)5月23日
73〜
79歳
福山誠之館同窓会会長(第9代)
平成22年(2010年)5月23日〜
 平成26年(2014年)6月20日
79〜
83歳
福山誠之館同窓会顧問
広島県建築協会理事東支部支部長
広島県建設業厚生年金基金監事
両備信用組合総代
しまなみ信用金庫総代
福山大学評議員
福山神社責任総代
福山護国神社総代監事
松山商科大学(現松山大学)温山会福山支部長


「私の青春」   鈴木康平(昭和23年卒)
初めての仕事はメーデイだった。
前の年の皇居前広場は、警官隊による一斉射撃によって、数人の死傷者を出しただけに、異様な雰囲気に包まれていた。
神宮外苑に集まったデモ隊は、皇居前広場に向かったと刻一刻知らせが入ってきた。
新米共に見て来いという。
皇居には入れまいとする警官隊と衝突したデモ隊は、新橋方面に方向を転換、電車通りに向かった。
渦巻きデモと異常に興奮した群集に驚いた私は、逃げ出そうと却ってデモ隊の中に入ってしまった。
小突き廻され、殴られ、水を掛けられビショ濡れになって、這う這うの体で会社に逃げ込んだ私は、バカヤローと怒鳴られた。

組合運動に出されて中央執行委員となり、拍手をもって励まされて団体交渉と得意になっていた私は、挙げ句の果てに病気になって休職、復帰後は出版局への転籍であった。

ある日、交渉相手であった大友専務(のち東京タワー社長)に会った。
気まずそうにする私に「君に用がある」と言った。
間もなく、社長室の中に有る審議室に入れられた。
編成は各局から一人づつで、怪しくなった会社の再建という大仕事であった。
40歳そこそこの室長が国策パルプより来た(のち副社長)。
変だと思っている内に、前田久吉社長は退陣、財界四天王の水野成夫氏の出陣であった。
サンケイホールに全員を集めて「スクラム組んで行こうじゃないか」と言った。
さすがに、共産党旗揚げの頭目である。
寒がりで、社長室には畳が持ち込まれ、炬燵が入った。

主筆は板倉卓造氏(庄原出身で福沢諭吉の弟子)で、主幹がが伊藤正造氏(『海軍』の著者)であった。
私らの横に部屋が有り、吉田茂氏がいつか縁の曲がったパナマ帽と麻の服でお見えになった。
どうした訳か、吉田さんからの板倉さんに宛てた毛筆の手紙が、私の抽斗の中に長く有った。

当時の財界は四天王時代であったが、未だ松永安左衛門(電力の鬼)・加藤武雄(三菱銀行元頭取)・藤原銀次郎(王子製紙)のご老体がお元気で、それらの人の前では、池田勇人通産大臣が直立不動の姿勢で話しておられたのが印象的だった。
木川田さん(東京電力社長)は常務で、経済同友会の代表幹事であった。
原稿を取りに行った新米の私に、「読んで下さい。これでいいでしょうか。」と言われた。

石川達三の「風そよぐ葦」のモデルになった文化部長は、風呂に入れば特高によって傷つけられた背中を見せた。
机の下に一升ビンを忍ばせてチビリチビリやらないと原稿が書けぬ人、宴席には必ず両肩に水筒を掛け、燗冷ましを入れて持ち帰る人、放射能の雨でやられると、ビニールのカッパを頭から掛けた東大出の秀才は、とうとう呪いの金魚鉢をアメリカ大使館に持って行き(金魚鉢の口が原爆雲の広がりに似ている)、病院に入院させられる羽目となった。
色んな個性の有る人が、水野体制となり、一気に首となった。
   (出典1)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02060 鈴木康平 著
福山誠之館同窓会 編
「我が誠之館時代」、『懐古−誠之館時代の思い出−』、190頁 福山誠之館同窓会 昭和58年


出典1:『商工ふくやま』、福山商工会議所刊、昭和63年5月号
2004年11月17日更新:写真●2005年8月18日更新:本文追加●2006年5月24日更新:タイトル・連絡先(削除)●2007年8月23日更新:関連資料●2010年5月25日更新:経歴●2011年8月18日更新:誠之館所蔵品・関係資料(削除)●2014年6月24日更新:経歴●