福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
篠崎小竹
しのざき・しょうちく
朱子学者
篠崎小竹 (出典1)


経 歴
生:天明元年(1781年)4月14日
没:嘉永4年(1851年)5月8日、享年71歳
寛政2年(1790年) 9歳 篠崎三島について古文辞学を学ぶ
篠崎三島の養子となる
寛政12年(1800年) 19歳 江戸において尾藤二洲の講説を聞く
文化5年(1808年) 27歳 昌平黌に入り古賀精里に学ぶ
文化6年(1809年) 28歳 家に戻り、三島塾をつぐ
文化8年(1811年) 30歳 神辺より上坂の頼山陽を支援


生い立ちと学業、業績
豊後出身の医者・加藤周貞の第二子として大坂に生まれ、名を弼(たすく・ひつ)、字は承弼(しょうひつ)、通称は長左衛門といい、号は小竹・畏堂(いどう)・南豊・聶江(しょうこう)・退翁などである。

菅茶山
の友人である大坂の篠崎三島について古文辞学を学んでいるうちに、望まれてその養子となった。
寛政の学制改革の際、小竹は養家を脱出して出府し、古賀精里の門に学んで朱子学者となり、ふたたび大坂に帰って三島塾をついだ。

さて文化8年(1811年)、廉塾を出て上洛した
頼山陽が、最初に身を寄せたのが、父頼春水の友人・篠崎三島の養子である小竹のもとであった。
小竹は山陽をよく理解し、茶山と山陽の和解を取り持つなど、その後一生を通じて彼を援護しつづけたばかりでなく、山陽の死後も、その遺児たちの面倒をよく見た。
例えば、山陽の末子
頼三樹三郎の教育をあずかった後藤松陰は、小竹の養子であった。
小竹は三樹三郎を世話して江戸昌平黌へ入学させている。

小竹は性穏健にして社交好きでもあったため、関西学芸界の勢力家のような地位を得た。
また山陽の死によって師を失った
江木鰐水は、山陽と親交のあった小竹に師事するため、天保4年(1833年)2月、大坂に到り、天保6年(1835年)出府するまで、篠崎塾にいた。

小竹は、詩文のみならず、元、明、さらに唐の書法をも学んで、独自のすぐれた筆跡を残している。
主な著書として『小竹詩鈔』、『小竹斎文稿』がある。


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
t1350 頼山陽
篠崎小竹 書
七言絶句「双鳩」 天保元年(1830年)
00035 篠崎小竹 書 七言絶句「夢断」
04396 安藤英男 編 『頼山陽選集7 頼山陽品行論』 近藤出版社 昭和56年


出典1:『廣瀬旭荘−東遊 大阪池田−』、23頁、日田市教育庁咸宜園教育研究センター編刊、平成24年8月17日
出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、62頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典3:『頼山陽選集7頼山陽品行論』、13頁、安藤英男編、近藤出版社刊、昭和56年12月10日
2005年7月28日更新:レイアウト●2006年6月26日更新:タイトル・所蔵品●2007年6月12日更新:関連情報●2008年1月15日更新:本文・関連情報削除●2008年11月5日更新:経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●2013年8月16日写真●2015年7月8日更新:誠之館所蔵品●