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幕末の兵学者 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||
生:明和3年(1766年)、上野国群馬郡並榎村(群馬県高崎市)生まれ | |||||||||||||||
没:嘉永元年(1848年)5月10日没、享年83歳、東京都文京区小日向1丁目・日輪寺に葬る | |||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
幕末の兵学者、砲術家。名は正徳(せいとく)・煥。字は俊平。通称が俊蔵。号は赤城・淡庵・虚舟・遯庵・藍斎・生気堂。 嘉永元年5月10日(1848年6月10日)没。享年83歳。墓は東京都文京区小日向1丁目の日輪寺にある。法名は正当赤城居士。 長男正巡は礫洲と号した武学者で、随筆『ありやなしや』の著者、4男正順は江戸日本橋の豪商大橋淡雅の聟養子となり、訥庵を号とした尊王家。 生い立ちと学業 明和3年(1766年)、上野国群馬郡並榎村(群馬県高崎市)の医師・清水俊達(謙山)の三男として生まれる。 9歳のとき父に従って江戸に移った。 13歳で儒者・冢田大峯の塾に入ったが、やがて実学を志し長沼流兵学を島田正脩・和合猶水に学び、天文と暦算を本多利明に学び、さらに剣槍・砲術などを広く学んだ。 やがて兵学をもって一家をなすに至り、特に砲術にすぐれた。 業績 文化3年(1806年)、ロシア帝国が千島列島の択捉島を攻撃すると、南蛮流・星山流・自得流などの和砲術を研究し、さらには清国やオランダ式の砲術も研究した。 『火砲要録』・『西洋火攻神器説』・『神器譜』(翻刻)・『兵要録講義』・『迂評ツ録』、その他多くの砲術書・兵書を著作し、『周髀図解』のごとき書まである。 文化年間(1804〜18)、幕府に請うて、前後2回砲術を徳丸ヶ原に演じた。 砲術家としての名声が大いにあがり、諸侯をはじめとして県勇記・佐藤信寛らの門人が極めて多く、晩年は練武堂・俟尽軒を設けて子弟の教育にあたった。 福山藩関連では、江木鰐水が清水赤城より長沼流兵法を学んだ。 『淡庵詩抄』・『淡庵漫録』をのこす。 交遊 赤城はまた学問の素養、文雅の嗜みもあって、滝沢馬琴・屋代弘賢・渡辺崋山・石田醒斎らと交際し、蒲生君平・藤田幽谷・会沢正志斎・平山行蔵らも友人であった。 文化・文政のころ、清水俊蔵・平山行蔵・近藤重蔵の3人は「天下の三蔵」と呼びはやされた。 いずれも学者ながら、奇行に富んだ豪傑肌の人物であったからであろう。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00140 | 清水赤城 書 | 五言絶句「小詩衝口」 | − | 天保13年(1842年)ごろ |
00202 | 清水赤城 書 | 書「動時勿動」 | − | 天保13年(1842年)ごろ |
出典1:『国史大辞典(第7巻)』、134頁、「清水赤城」、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和61年11月20日 |
関連情報1:豊国覚堂『清水赤城』 関連情報2:豊国覚堂「赤城先生子孫手沢の遺著類」(『上毛及上毛人』73) 関連情報3:武田信賢「清水赤城翁伝」(『同友会誌』21) 関連情報4:村林正美『清水赤城の業績と士道観』、愛知文教大学刊 関連情報5:和田博徳『明代の鉄砲伝来とオスマン帝国 神器譜と西域土地人物略』、慶應義塾大学 |
2015年9月28日追加●2015年9月29日更新:生い立ちと学業業績● |