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広島大学教授、教育学博士 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和6年(1931年)1月2日、広島県呉市浜田町生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成23年(2011年)10月28日、享年81歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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「スポーツで学ぶもの」 佐藤裕(昭和23年卒) |
私達の時代は戦後の学制改革の節目にあたる。 クラブ活動は上級生・下級生の縦割の人間関係を高めるのに役立っていた。 当時のクラブ活動は課外活動が中心で、各運動部とも広島県東部地区の大会や県大会の入賞を目指した活動であった。 この頃の広島県のスポーツ水準は東部地区の方が高かった。 第二次世界大戦中に県内主要都市の大部分が戦災を受けたが、東部地区の旧制中学校は焼失を免れた学校が多かった。 誠之館は、こうした戦後の世相の中で残存する木造の校舎・施設・用具を生かして、スポーツ活動の復興に力を注いだ。 しかも、その状況は現在のように恵まれたものではなかった。 狭い運動場では各運動部が入乱れて練習しており、野球部は陸上部員がトラックを走ると投球をしばしば中止せざるを得ない始末であった。 しかし、各部ともそれなりの成績を残していたように思う。 私は百・二百米・障害(ハードル)種目を選んだが、現在のような金属製L字型の障害は皆無であり、木製の障害に加えて昭和初期のクルクル横木が回転する障害も混用せざるを得なかった。 スパイクは先輩の中古品で靴底は使い古したために波打ち、スパイクの針は四方八方に向き、履いて走ると足の裏が痛くなったり、靴底から針の根っ子が皮底を破ってはみ出してくるものもあった。 それでも大切に保管し、試合の時だけ使用するようにした。 こんな調子だから日頃の練習は裸足。 そのため足の裏は親指の付け根が逆剥け出血することもあったが、包帯を巻きつけて走った。 ところが試合時にスパイクを履くと驚く程地面を引っかく力が強く、スピードは加速し次々と好記録が生まれた。 現今では想像もつかない物資不足の時代であった。 また食糧事情も悪かった。 対外試合では米穀通帳と米を持参しなければ泊まれなかった。 列車もSLであるから移動にも時間がかかった。 遠征費は学校や先輩が援助してくれた。 京都で開催された全国中等学校対校陸上選手権大会では、先輩の下宿も宿の一つになった。 この大会では百米・二百米・二百米低障害・四百米リレーなどの総得点でトラック優勝した。 これが契機となって誠之館のグランドに第3種公認トラックが誕生した(当時、公認トラックは福山市には無かった)。 対外試合に出発する時と帰還時にはブラスバンド部が福山駅頭で吹奏激励してくれ、多くの級友が声援をおくってくれた。 こうした全校挙げての縦横の連繋支援が成果を生んだのだと思う。 新制高校になってからは、中国大会が全国大会の予選を兼ねるようになった。第1回の名古屋の全国大会では、残念ながら連続優勝は果たせなかった。タイトルを維持することの難しさを痛感した厳しい大会だった。 スポーツと学業の両立は常に代表選手の悩みであるが、誠之館には先輩からの良い伝統があった。 課外活動に熱中しながら、先輩たちは京大、高師、高商、旧制高校などの受験に合格していたのだから立派である。 私達はこうした先輩に憧れた。私が山口高校に在任した頃のクラブ活動方針も、誠之館時代の“クラブ文化"に改良を加えたものだった。 全国大会に座を求めて激しい練習を続けていても、生徒達は東大、九大、山大、広大、有名私大に合格していった。 私の体験では、学校全体のクラブ活動が対外的成果を挙げている時期には全体の進学・就職率も高いが、低迷期にはいずれも低くなる傾向がある。 クラブ活動の活性化は、サポーターも含めて全校生徒の主体性や創造性を高め、人間関係を深めると同時に学校の雰囲気や士気を旺盛にしていく役割を果たしている。 またスポーツ活動は体験を通して人間の心を覚醒する役割も果たしている。 全国大会の時、百米準決勝と二百米低障害決勝が時間的に重なってしまった。 百米の準決勝を終えた時には、既に障害の決勝出場選手は全員ブロックを打ち終えて発走の合図をまっていた。 私は息を切らせて発走地点に移動し、直ちにブロック打ちの作業に人ったが、呼吸はかなり乱れていた。 その時スターターが歩み寄り、 「まだ苦しいだろう。少し時間をあげるからゆっくり準備調整しなさい。」 と言われた。 この言葉で僅かに心のゆとりができた。 数分後、 「もういいですか?」 と声をかけられた。 いつもなら2〜3台障害を試走し調整するのだが、待っている他の選手のことも考えそのまま位置についた。 号砲一発、決勝レースの幕が切って落された。 1台は巧くいったが、あろうことか、2台目の障害にガチンと膝をしこたまぶっつけてしまった。 この瞬間、他の選手と大きく距離が開いた。 コーナーを出る地点では私が取り残された形になった。 “もう勝ち目はない。レースを放棄するか…続行するか" 一瞬迷った。 その時、 “勝負は最後までやってみなければわからない" ということが脳裏をかすめた。 私は後方から猛然と追い込みにかかった。 残り2台という時に他の選手と並んだ。 最後の障害を越す時にガチャガチャと障害を引っかける音がした。 後一息、標的となる先頭の選手を斜横の視野に入れながら、懸命に倒れ込むようにゴールしたが遂に抜き去ることはできなかった。 優勝を奪われ、2位に甘んじた苦い初体験であった。 しかし、スターターの温い厚意は終生忘れ得ないものとなった。 そして、この大会での体験が私の人生を歩む糧となった。 (注)詳細は『教科教育学への道程』(新体育社)を参照してください。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 著 者 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
04283 | 佐藤裕 著 | 『スポーツにおける競争−協同 集団場面の類型化と場面構成』 | 新体育社 | 昭和57年 |
04284 | 佐藤裕 著 | 『教科教育学(保健体育科教育)への道程 私の歩んで来た道』 | 新体育社 | 平成8年 |
探しています | |||
著 者 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
佐藤裕 著 | 『体育の授業計画と授業〜学習プログラム〜』(共著) | − | 昭和60年 |
出典1:『福山誠之館同窓会定時総会(平成9年度)』、福山誠之館同窓会編刊、平成9年5月11日 |
2004年10月6日更新:本文●2005年1月11日更新:誤記を訂正●2005年1月28日更新:肩書・経歴●2005年4月27日更新:経歴・出典●2006年1月16日更新:所蔵品●2006年6月26日更新:タイトル・所蔵品●2008年4月23日更新:経歴●2010年2月9日更新:写真●2010年4月22日更新:誠之館所蔵品・探しています●2012年3月2日更新:経歴● |