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医師(心臓外科)、岡山大学附属病院副院長 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和27年(1952年)、広島県芦品郡駅家町(現福山市駅家町)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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誠之館創立150年大変おめでとうございます。 私は昭和45年卒業ですから、誠之館を卒業して早や30年以上になります。 私が在籍した丁度3年生の秋(昭和44年)に三吉町の校舎から現在の木之庄の校舎に移転しました。 ですから私は現在の校舎の1期生(わずか数ヶ月でしたが)になりますが、高校生時代の多くの思い出は旧校舎(三吉町)にあります。 私が在籍した3年間は良き先生、良き級友に恵まれ、今から思えば本当に楽しい高校生活を過ごすことが出来ました。 当時の三吉町の校舎は歩けばきしむ木作りの古い校舎で歴史と伝統ある誠之館高校そのものであったように思います。 高校を卒業して岡山大学医学部に進みました。 医学部には誠之館の同級生の青景和英君がいましたし、金尾君、伊吹君等多くの誠之館の同級生が岡山大学にいて皆でよく遊んでいました。 当時の岡山大学医学部には毎年のように誠之館出身者が入学していましたから、毎年誠之館出身者の歓迎会が開かれていました。 大学卒業後岡山大学外科学第2講座に入りました。 その後大学院に進学し、心臓外科を自分の専門に選びました。 大学院を卒業した後、ニュージーランドに Sir Brian Barratt-Boyes という有名な先生がいるとのことで台湾で行われた国際学会に演題を出しお会いしに行きました。 Sir Brian は長年の著名な功績によりイギリスのエリザベス女王から騎士(Knight)の称号をもらっている世界で唯一の心臓外科医でした。 行く前に海外留学して研修したいことをお手紙に書き、台北で初めて Sir Brian 卿にお会いしたわけですが、私の今までの日本での研修をお聞きになり、 「貴方に必要なのは心臓移植や複雑心奇形などの高度な治療の研修ではなく、心臓外科医として基本をちゃんと教えてくれる所だ。貴方は未だ基本を十分には習っていない」 と言われたのです。 つたない英語で応対する私は3日間の学会中毎日 Sir Brian にお会いし自分が良い研修を受けたいこと、できれば Sir Brian に教えてほしいと思っている事を訴えました。 日本では国立大学の心臓手術数は年間90〜100例ですが、Sir Brian がいるオークランド大学 Green Lane Hospital(GLH)では年間1000〜1500例の心臓手術をしていました。 日本では7〜8時間かかる手術を3〜4時間でこなし、日本では大学院生や研修医が年間20〜30例しか関与しなかった手術に年間300〜400例関与するのです。 これでは比較になりません。 私はそれまで海外研修がしたくてアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの有名施設を訪れ、有名な先生にお会いしてお話しをうかがっていました。 ほとんどのところからOKのご返事をいただきましたが、今回の Sir Brian のように自分の今までの研修を詳しく聞かれたのは初めてでしたし、基本が大切だよと言われたのも初めてでしたので私は即座に Sir Brian のような先生の下で研修したいと思ったわけです。 ところが今でもそうですが日本から海外研修をする場合は自分の所属する教授の推薦状や、有名な教授の推薦状が必要で、それがあってもなかなか留学の機会は巡ってこないのが現実でした。 私は自分のために推薦状を書いていただける教授も有名な先生も知りませんでした。 岡山という日本の一地方で研修している若い心臓外科医(まだそう呼べないかもしれませんが)ですし、世界に有名なGLHでの研修の申し出を断られても自分には失うものはありませんから、思い切ってアタックしたわけです。 ほとんどあきらめていた私は3日目の最後の日にホテルで Sir Brian の奥様に 「彼は来年GLHに来る Dr. Sano だよ」 と紹介されました。 そしてニュージーランドに研修に来るまでにもっと英語の勉強をしなさいとも言われました。 1985年から憧れのGLHでの私の研修が始まりましたが毎日4例の心臓手術を3〜4時間で次々とこなして行きます。 日本では心臓手術が終わった後は徹夜をして集中治療室(ICU)で術後管理をしていましたが、ここでは手術が終われば夕方6〜7時には仕事が終わり、その後は当直医が術後管理をしますので、遅くまで病院にいるとどうして病院にいるんだ、どうして家に帰らないんだと言われる始末です。 そして朝は8時から毎日ICUの回診を皆でして患者さんたちの治療法を話し合っていました。 日本とあまりにも違うシステムに最初は戸惑いましたが、そのうちこのシステムが非常に心地よいものになっていく自分を感じました。 日本の、自分の主治医しか自分のことを知らないシステムより、チームの皆が知っていて、なおかつ自分の手術をしてくれた先生だけでなく経験豊富な先生方が皆で治療方針を検討してくれている。 そのようなすばらしいシステムのほうがいいに決まっています。 また Sir Brian 先生の教えは手術するだけが心臓外科医ではない。 手術前に患者さんや家族に手術の話をして、術後にも経過を話し、紹介してくれた先生にも報告する。 それが出来なければ手術をする資格は無いというものでした。 ですから英語のできない私には6ヶ月以上執刀の機会は巡ってきませんでした。 半年以上たってペースメーカーや末梢血管などの簡単な手術が回ってくるようになり、9ヶ月ぐらい経って心臓の手術をさせてもらえるようになりました。 それは私の英語力の進歩と比例していましたし、それによって私の腕が向上していることを感じることが出来ました。 そして2年目には何と日本人では初のチーフレジデント(研修医のトップ)に抜擢されました。 そして2年目には70〜80例の心臓手術と、小さな手術も含めば1000例以上の手術の執刀をさせてもらいました。 2年の研修が終わりその送別会で妻が 「17人も世界中から応募があったのにどうして紹介状も、伝も無い私が研修医として採用されたのか聞いてみたら」 と言うので、思い切って Sir Brian 先生に聞きました。 先生の答えは紹介状も持たない若い医師が自分に直接頼みにくることが珍しいこと、また私と話していて熱意が伝わり鍛えればよい心臓外科医になるのではないかと感じた、そして自分の直感は当たっただろうと笑ってくれました。 GLHでの2年の研修後、私は当時若手のバリバリで新しい手術に敢然と立ち向かっていた Dr.Mee のいるオーストラリア、メルボルン大学の小児病院である王立小児病院 Royal Children's Hospital (RCH) にあこがれ、6ヶ月のポストをもらい研修に行きました。 Dr.Mee は37歳でRCHのDirector に大抜擢された若手の有望株で、当時44歳の脂の乗り切った人でした。 彼はハーバード大学の基幹小児病院であるBoston 小児病院でアメリカ人以外で初めてチーフレジデントになったエリートで、スタッフの1人として働いていたときにRCHのトップとしてメルボルン大学に引き抜かれたのです。 6ヶ月の研修はとても充実していました。 彼には難しい手術にも果敢にチャレンジする勇気と確かな技術がありました。 でもそれはSir Brian の言う基本に忠実な手術でした。 Dr. Mee も Sir Brian の弟子だったのです。 6ヶ月の研修が終わろうとしているとき Dr. Mee から突然呼ばれました。 給料を出すのでもう6ヶ月いないかというものでした。 私は面白かったので即座にOKしました。 それから3ヶ月、1998年3月、夏の休暇(オーストラリアの四季は日本と反対です)を取って帰ってきた私は Dr. Mee から呼び出され突然、お前はどうしても日本に帰りたいか?ここにスタッフとして残らないか?と言われました。 岡山大学からスタッフのポストを用意されていた私にとって、それは岡山大学のポストを捨て家族でオーストラリアに永住するかもしれないという選択でした。 どうしようかと考えている私に、その時の妻の一言 「貴方がここに居たいなら私たちはそれでもいいわよ。」 で私の答えは決まりました。 妻や家族は私の仕事、私のわがままを全面的に聞いてくれたのです。 日本で将来職は見つけられないかもしれないが、その代わりに私は36歳でメルボルン大学の小児心臓外科の助教授に抜擢され、そのポストを手に入れたのです。 それから1990年までRCHで働きましたが、外から見る日本の心臓外科は旧態依然としてRCHに比べると成績は比較になりませんでした。 岡山大学で心臓外科を独立させ新たにスタートさせるということで、帰ってこないかと言われた私は Dr. Mee に相談しました。 彼は 「日本でよい治療を受けられずに多くの子供たちが死んでいる今、お前が帰って日本の研修システムや医療を変えれるのならそれも良いのではないか。日本のためにはそのほうが良いかもしれないし、自分はこれ以上お前に教えるものは無い」 と言ったのです。 岡山には1990年の終わりに帰ってきましたが、その当時岡山大学医学部には森昭胤教授、村上宅郎教授、田辺剛造名誉教授、また川崎医科大学学長には勝村達喜先生らそうそうたる誠之館の先輩たちがおられ、後輩の私を応援してくださり、私は2年後には41歳という異例の若さで心臓血管外科教授になりました。 日本で一番若い臨床医学の教授でした。 その時ほど誠之館高校の先輩、後輩の絆を感じたことはありませんでした。 それからもいろんな所で誠之館高校の先輩、後輩のお世話になっています。 41歳で岡山大学心臓血管外科の教授にしていただき早10年が経ちました。 昨年はTBSテレビにも2時間特番で取り上げていただき、日本の多くの施設と違う外国式のシステムと医療に取り組む姿勢、また成績の良さを誉めていただきました。 また今年は山陽新聞社賞もいただきました。 多くの先輩、後輩に恵まれ、Sir Brian Barett-Boyes、Dr. Roger Mee という世界有数の先生方の教えを受けることが出来たことは大変な好運であった訳ですが、私が受けた教えの半分でも今の若い人たちに教えて上げられたらなと思います。 またそういうチャンスを若い人の1人でも多くに与えてあげたいと思います。 テレビで世界中の出来事をライブで見ることができ、インターネットで世界中の情報を刻々と知ることができ、今や世界はどんどん身近になっています。 これからの若い人たちはインターナショナルな考えを持ち、世界に出て大いに活躍してほしいと思います。 誠之館高校の後輩諸君が岡山大学医学部に入られ、私が受けた教えをそのまま伝えることが出来ればそれ以上の喜びはありません。 最後に、誠之館高校の益々の発展を祈念しております。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 編 著 | 名 称 | 放送/発行 | 日 付 |
03763 | TBS | ビデオ「巨大病院救命の最前線 母と子の命を救え! 愛と感動の180日完全密着」 | TBS | 平成15年 |
03764 | TBS | DVD「巨大病院救命の最前線 母と子の命を救え! 愛と感動の180日完全密着」 | TBS | 平成15年 |
03765 | ドクターズマガジン 編 | 『日本の名医 30人の肖像』 | 株式会社 阪急コミュニケーション |
平成15年 |
04667 | 茂木健一郎&NHK「プロフェッショナル」制作班 | 『プロフェッショナル「仕事の流儀1」』 | 日本放送出版協会 | 平成18年 |
出典1:『誠之館創立百五十周年』、119頁、福山誠之館同窓会編刊、平成17年2月 |
2005年1月14日更新●2005年4月15日更新:本文●2005年7月11日更新:本文・出典●2005年7月14日更新:経歴●2005年11月25日更新:所蔵品●2006年4月13日更新:タイトル・所蔵品●2006年12月14日更新:所蔵品●2008年4月23日更新:経歴●2009年7月22日更新:誠之館所蔵品●2009年9月27日更新:経歴・関係学会・役職●2011年6月8日更新:本文● |