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広島藩儒、頼山陽の父 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
生:延享3年(1746年)6月30日、安芸国竹原(現広島県竹原市)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
没:文化13年(1816年)2月19日、享年71歳、比治山安養院に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
江戸時代後期の儒学者。諱は惟寛、のち惟完(ただひろ)。字は千秋(せんしゅう)・伯栗、号は春水・霞崖・拙巣・拙巣子・和亭。通称は弥太郎。はじめの名は青圭。安芸国竹原(現広島県竹原市)出身。延享3年(1746年)6月30日生まれ。 父、亨翁(こうおう)(又十郎)は、頼兼屋(よりかねや)という紺屋(こうや)を営む旁ら、京師の馬杉亨庵・小沢蘆庵に和歌を学んだ。母は仲子、道工氏の出身。 はじめ平賀中南に就いて学び、大坂に出て趙陶斎に認められ、片山北海の混沌詩社において名を挙げ、懐徳堂の中井竹山兄弟と親交を結んだ。当時、大坂に尾藤二洲・古賀精里が在り、ともに程朱学を考究した。 天明元年(1781年)、広島藩儒に登用され、江戸勤番を並行して、藩の学制を程朱学によって一新した。江戸においては白河入部直前の松平定信に献策するなど、後年の寛政の学制改革(寛政異学の禁)への布石を打った。 晩年は広島に在り、隣国備後の菅茶山と詩文の交わりを重ねた。文化13年(1816年)2月19日、71歳で没。城南、比治山の安養院(現広島市南区比治山町の多聞院)に葬る。 『春水遺稿』12巻(『詩集日本漢詩』1期10、影印)、『春水遺響』(『広島県史』近世資料編6)、『春水掌録』(『随筆百花苑』4、うち『霞関掌録』は『影印日本随筆集成』7・11にも収める)、『東遊雑記』(『広島県史』近世資料6)などの著がある。 また頼祺一編「頼春水在坂期書簡」)(『近世後期朱子学派の研究』所収)がある。 頼春風・頼杏坪は弟、頼山陽は子である。 (出典1)〜(出典3) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
03864 | 頼春水 書 | 七言二行詩「幽溪鹿過」(書幅) | − | − |
07276 | 頼春水 書 | 七言二行詩「幽溪鹿過」(色紙) | − | − |
t1170 | 頼春水 書 | 五言絶句「植杖」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
07291 | 西原千代 著 | 『菅茶山』 | 白帝社 | 平成22年 |
00027 | 頼春風 差出 | 「頼春風差出書状」 | − | − |
出典1:『頼山陽と芸備の文化』、19頁、財団法人頼山陽記念文化財団編刊、平成7年11月3日 出典2:『国史大辞典14』、485頁、吉川弘文館刊、平成5年4月1日 出典3:『菅茶山 自然へのまなざし』、28頁、菅茶山記念館編刊、2007年10月 |
2005年12月2日追加●2005年12月6日更新:写真・出典●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月8日更新:経歴・本文●2008年1月9日更新:経歴・本文●2014年10月10日更新:誠之館所蔵品●2014年11月14日更新:誠之館所蔵品●2016年1月18日更新:レイアウト●2016年1月22日更新:誠之館所蔵品●2016年3月9日更新:誠之館所蔵品● |