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頼山陽の第三子 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:文政8年(1825年)5月26日、京都三本木生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:安政6年(1859年)10月7日刑死、享年35歳、荒川区回向院、世田谷区松陰神社境内に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
七頼の第七。文政8年(1825年)、頼山陽の第三子として京都三本木に生まれた。母は兄復(あつし)と同じく梨影。名は惟醇・醇、字は叔厚・子厚・小春・士春、通称は三木八・三木三郎・三樹三郎・三木八郎・三樹八郎あるいは三樹、号は鴨香E百城・古狂生である。 父の死後、しばらく山陽の弟子、児玉旗山の塾に通ったが、旗山の没後、天保11年(1840年)、大坂に下って後藤松陰の塾に寄寓し、かたわら篠崎小竹に学んだ。天保14年(1843年)、幕府高官(納戸頭)羽倉簡堂が政務のため、大坂滞在中、小竹を通じて三樹三郎を知り、江戸に伴い帰った後、保証人となって昌平黌に入学させた。天保15年(1844年)、鴨高ヘ20歳になっていた。 ここから彼の強躁な生涯がはじまる。 その第一は寛永寺石燈事件である。朝廷を蔑視する幕政に反対して、上野寛永寺の葵の紋のついた石燈を倒したかどで、書生寮からの退去処分を受けた。 第二は蝦夷渡航である。弘化3年(1846年)、江差に赴いて、蝦夷探検第一人者の松浦武四郎と遇い、「一日百詩(鴨香j・百印(武四郎)」の雅興をたのしんでいる。 第三は、安政6年10月の刑死にいたるまでの政治活動である。嘉永2年(1849年)京都に戻り家塾を守りながら、四方の志士と交わり、尊王の大儀を唱えて幕政の非を鳴らした。安政2年(1855年)母を喪って以来、家を忘れて国事に奔走、父の旧友梁川星厳および梅田雲浜らと有志公卿の間に入説していたが、安政5年(1858年)の将軍継嗣問題について、一橋派と結んではげしく幕政を攻撃した。 そのため、安政5年(1858年)9月から、井伊大老による安政の大獄がはじまると、12月鴨高轤R名は京都で捕らえられ、翌年1月江戸へ送られ、1月9日から2月6日まで、神田淡路町の福山藩邸に幽閉された(この時の阿部家の取り扱いが丁重であったため、当人達に感謝されている)。その後、種々取り調べの末、同年10月7日、小塚原において死罪斬首された。享年35歳。東京都荒川区回向院、世田谷区松陰神社境内に葬る。 この間、旧山陽門下の江木鰐水・関藤藤陰・門田朴斎などの、陰ながらの救済運動が、何の効果もなかったのは、一つには鴨高フ果敢な法廷闘争が幕府当局を強く刺激したためと考えられる。 関連書に木崎好尚『頼三樹傳』がある。 (出典3・4・5) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00038 | 頼三樹三郎 賛 | 「頼山陽肖像画」 | − | 嘉永3年(1850年) |
00335 | 頼三樹三郎 書画 | 山水画「浅絳山水図」 | − | − |
05361 | 頼三樹三郎 書 | 書「岳獨豢雲」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
05586 | 木崎好尚 著 | 『頼三樹傳』 | 今日の問題社 | 昭和18年 |
04895 | 永田富智 編 | 『江差齊藤家の歴史』 | 齋藤裕志 | 平成19年 |
06906 | 見延典子 著 | 『敗れざる幕末(小説:福山藩儒者・関藤藤陰)』 | 徳間書店 | 平成24年 |
出典1:HP「八郎潟青年者異業種交流会∞メビウス」 出典3:『頼三樹傳』、木崎好尚著、今日の問題社刊、昭和18年10月20日 出典4:『誠之館記念館所蔵品図録』、63頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典5:『明治維新人名辞典』、1078頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日 |
2005年7月4日更新:レイアウト●2005年12月1日更新:所蔵品●2006年3月3日更新:所蔵品・関連情報●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年1月24日更新:経歴・本文・所蔵品・関連情報・出典●2007年11月2日更新:本文・関連情報削除●2008年1月9日更新:経歴・本文●2008年6月11日更新:誠之館所蔵品●2009年6月3日更新:本文・誠之館所蔵品・出典●2012年6月20日更新:誠之館所蔵品●2014年10月14日更新:写真● |