福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
頼杏坪
頼惟柔
らい・きょうへい らい・ただなご
広島藩儒、頼山陽の叔父
頼杏坪 (出典1)


経 歴
生:宝暦6年(1756年)7月、安芸国竹原(現広島県竹原市)生まれ
没:天保5年(1834年)7月23日、享年79歳
安永2年(1773年) 17歳 兄春水・春風に従って大坂に遊学し、片山北海の混沌社に学ぶ
天明元年(1781年) 25歳 広島に移住
天明3年(1783年) 27歳 江戸に下って、闇斎系の程朱の学を学ぶ
天明5年(1785年) 29歳 広島藩儒
寛政9年(1797年) 41歳 江戸に下り、世子の侍講を勤める
文化8年(1811年) 55歳 郡方役所詰
文政11年(1828年) 72歳 三次町奉行
天保元年(1830年) 75歳 隠退


生い立ちと学業、業績
七頼の第三。名は惟柔(ただなご)、通称万四郎、字は千祺(せんき)、号ははじめ春草のち杏坪。

宝暦6年7月、亨翁の第三子として竹原に生まれた。頼春水の季弟である。

安永2年(1773年)、兄
頼春水頼春風に従って大坂に遊学し、片山北海の混沌社に学んだ。

天明元年(1781年)、兄春水が広島藩儒となったので、杏坪も広島に移住したが、天明3年(1783年)春水が藩主の世子に従って出府すると、杏坪もまた江戸に下って、闇斎系の程朱の学を学んだ。

天明5年(1785年)、広島藩儒となり、学問所の職務に精励し、幕府の「寛政異学の禁」に呼応して、宋学の興隆に専念した。

家庭的には
頼山陽の教育に力を注ぎ、寛政9年(1797年)、春水に代わって江戸に下り、世子の侍講を勤めたが、この時、山陽(18歳)を伴って出府、尾藤二洲の門に入れることにした。この旅の途次、3月には二人は神辺の廉塾に立ち寄っている。

さて出府した山陽は、結局江戸の風になじむことができず、いろいろな悪評を立てられ、わずか1年余の在府の後、ふたたび杏坪につれられて帰郷した。

寛政11年(1799年)、芸藩世子浅野斉賢の襲封後、杏坪は藩主のあつい信頼を得て、文化8年(1811年)郡方役所詰を命ぜられた。以後民生面に大きな功績をあげ、文政11年(1828年)、三次町奉行専任となって、天保元年(1830年)隠退まで吏務に精励した。

一方詩文の方でも、『春草堂詩鈔』など、新しい詩風をもつすぐれた作品を数多く残している。

天保5年(1834年)7月23日、広島において没。享年79歳。
   (出典2)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日  付
00028 頼杏坪 書 七言絶句「海雨霏々」
00029 頼杏坪 書 和歌「安倍仲麻呂」
05358 頼杏坪 書 七言絶句「日々繙經」
00255 頼杏坪 著 『芸備孝義伝』 広島以文社 明治18年(1885年)
03054 村上正名 『備後人物風土記−歴史をつくった人々−』 歴史図書社 昭和52年(1977年)
04978 藤井登美子 著 『孤高の儒官頼杏坪 北僻に立つ』 郁朋社 平成17年(2005年)
00027 頼春風 差出 「頼春風差出書状」


出典1:『「頼山陽と芸備の文化』、19頁、頼山陽記念文化財団編刊、平成7年11月3日
出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、61頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
出典3:『備後人物風土記−歴史をつくった人々−』、231頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和52年12月31日
関連情報1:『福山学生会雑誌(第48号)』、附21頁、「茶山菅先生墓誌銘」、頼杏坪(頼惟柔)、福山学生会事務所編刊、大正5年7月27日
2005年7月4日更新:レイアウト●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月15日更新:経歴・本文●2008年1月8日更新:経歴●2008年7月24日更新:関連情報●2008年8月25日更新:誠之館所蔵品●2008年11月26日更新:誠之館所蔵品・出典●2009年5月29日更新:誠之館所蔵品●2014年10月10日更新:誠之館所蔵品●