福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
頼復
頼支峰
らい・あつし らい・しほう
頼山陽の第二子
頼復(頼支峰) (出典1)


経 歴
生:文政6年(1823年)、京都生まれ
没:明治22年(1889年)7月8日、享年67歳、京都洛東の高台寺に葬る
牧百峰や後藤松陰に学ぶ
江戸へ遊学し、門田朴斎・関藤藤陰の庇護を受け、昌平黌に学ぶ
嘉永6年(1853年)〜
 安政2年(1855年)
30〜
32歳
越後水原の学問所に招かれる
帰洛後、父の後を継いで家塾を開く
明治元年(1868年) 46歳 大学二等教授
明治2年(1869年) 47歳 大学少博士
従五位下


生い立ちと学業、業績
七頼の第六。頼山陽の第二子。母梨影の初生子として京で生まれた。名は復、字は士剛、又二郎と称し、支峯はその号である。

山陽死没のときは10歳。その後、一時広島に預けられ、長兄聿庵に育てられたこともあったが、牧百峰や
後藤松陰に学んだ。やがて江戸へ遊学し、門田朴斎関藤藤陰の庇護を受けながら昌平黌に学んだ。

嘉永6年(1853年)より2年間、越後水原の学問所に招かれた。

そして帰洛後、父の後を継いで家塾を開いて安定した生活を送っており、弟
頼三樹三郎(鴨崖)のような激しい行動には走らなかった。しかし、門田朴斎江木鰐水あて書簡に見られるように、父山陽の尊皇精神は消え去ってはいなかったようである。

明治維新の際、車駕東幸にあたってこれに扈従、上京して大学二等教授に任ぜられ、明治2年(1869年・47歳)には大学少博士・従五位下となったが、間もなく辞職して京都に帰り、悠々自適の老後を送り、明治22年(1889年)、67歳で没した。


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
00036 頼復 書 七言絶句「半簾紅雨」
05359 頼復 書 七言絶句「誰向囲城」
00037 頼復 書 「頼復差出書状(門田堯佐・江木晋戈宛)」
04895 永田富智 編 『江差齊藤家の歴史』 齊藤裕志 平成19年



出典1:『現今英名百首』、谷俊三編、魁盛館刊、明治17年4月
出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、63頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
2005年7月4日更新:レイアウト●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月15日更新:経歴・本文●2008年1月8日更新:経歴・本文●2008年1月21日更新:本文●2008年6月11日更新:誠之館所蔵品●2009年6月2日更新:経歴・誠之館所蔵品●2010年4月23日更新:写真・出典●