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頼山陽の第二子 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||
生:文政6年(1823年)、京都生まれ | |||||||||||||||||||||
没:明治22年(1889年)7月8日、享年67歳、京都洛東の高台寺に葬る | |||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
七頼の第六。頼山陽の第二子。母梨影の初生子として京で生まれた。名は復、字は士剛、又二郎と称し、支峯はその号である。 山陽死没のときは10歳。その後、一時広島に預けられ、長兄聿庵に育てられたこともあったが、牧百峰や後藤松陰に学んだ。やがて江戸へ遊学し、門田朴斎・関藤藤陰の庇護を受けながら昌平黌に学んだ。 嘉永6年(1853年)より2年間、越後水原の学問所に招かれた。 そして帰洛後、父の後を継いで家塾を開いて安定した生活を送っており、弟頼三樹三郎(鴨崖)のような激しい行動には走らなかった。しかし、門田朴斎・江木鰐水あて書簡に見られるように、父山陽の尊皇精神は消え去ってはいなかったようである。 明治維新の際、車駕東幸にあたってこれに扈従、上京して大学二等教授に任ぜられ、明治2年(1869年・47歳)には大学少博士・従五位下となったが、間もなく辞職して京都に帰り、悠々自適の老後を送り、明治22年(1889年)、67歳で没した。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00036 | 頼復 書 | 七言絶句「半簾紅雨」 | − | − |
05359 | 頼復 書 | 七言絶句「誰向囲城」 | − | − |
00037 | 頼復 書 | 「頼復差出書状(門田堯佐・江木晋戈宛)」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
04895 | 永田富智 編 | 『江差齊藤家の歴史』 | 齊藤裕志 | 平成19年 |
出典1:『現今英名百首』、谷俊三編、魁盛館刊、明治17年4月 出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、63頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 |
2005年7月4日更新:レイアウト●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月15日更新:経歴・本文●2008年1月8日更新:経歴・本文●2008年1月21日更新:本文●2008年6月11日更新:誠之館所蔵品●2009年6月2日更新:経歴・誠之館所蔵品●2010年4月23日更新:写真・出典● |