福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
大島久見
おおしま・ひさみ
大島能楽堂・喜多流能楽師範
大島久見
仕舞「実盛」・於沼名前神社能舞台
平成7年10月7日
平成6年10月16日
能「伯母捨」
於喜多流大島能楽堂
能「安宅」


経 歴
生:大正4年(1915年)1月23日
没:平成16年(2004年)2月3日、享年90歳
昭和7年(1932年)3月 17歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和7年(1932年) 17歳 喜多流宗家・喜多六平太師の門に入る
昭和10年(1935年)〜
 昭和11年(1936年)
20〜
21歳
兵隊生活
昭和20年(1945年)9月 30歳 福山に帰る
昭和23年(1948年)10月10日 33歳 14世宗家をお招きして、母校誠之館講堂にて喜多流演能会を開く
昭和25年(1950年)11月19日 35歳 誠之館講堂で井口法太郎氏追善能を催す
昭和33年(1958年)より 43歳 能楽教室を主宰
昭和42年(1967年) 52歳 国総合指定重要無形文化財保持者
昭和46年(1971年)9月 56歳 喜多流能楽堂完成
昭和57年(1982年) 67歳 広島文化賞


生い立ちと学業、業績
昭和4年(1929年)9月21日大島寿太郎師が亡くなられたとき、その3男久見師は誠之館中学校3年在学中であった。
昭和7年(1932年)福山誠之館中学校を卒業。

その後、17歳で上京、家元内弟子として、14世家元喜多六平太・15世喜多実両師の懇切・厳格な指導を受けた。
昭和20年(1945年)8月8日、福山は空襲によって一面の焼土と化し、やがて終戦。久見師はこれを機に、昭和20年(1945年)9月帰郷し、茫々たる焼野原の中から、祖父以来の“大島能”の再建に立ち上られた。

爾来、今日まで50余年、門弟の育成と並行して、家元・高弟を招待しての各種記念能会のほかに、嗣子大島政允
(まさのぶ)師とともに、昭和33年(1958年)以降、能楽教室と名付ける年4回の定例能会を主宰し、今年で160回に垂んとしている。
同様の会は広島でも開催されていて、「能を楽しむ会」という。
別の面から久見師の演能記録を見ると、現行約190にも及ぶ喜多流現行曲の大半を手がけられ、「望月」「伯母捨」などという重
(おも)習いの大曲をも披(ひら)いておられる。

これら諸演能の舞台となっているのが、昭和46年(1971年)9月に完成した3階建の「嘉多流能楽堂」である。
内に建てられた能舞台は、国宝西本願寺北舞台・重文鞆沼名前神社舞台等を手本としたもので、その構成・材質等、個人建設の舞台としては稀有のものといわれる。

この様な功績によって、久見師は、「国総合指定無形文化財(人間国宝)」の指定を受けられたほか、日本能楽会理事にも選出されておられる。
また福山のほかに岡山、尾道、三原、新市に稽古場を持ち、多くの弟子を育てた。

平成6年(1994年)、傘寿を迎えてなお、日々精進される久見師の風姿には、まさに、枯淡無心の境に輝く、不滅の法燈の如き風格が感じられる。

「命には終りあり 能には果てあるべからず」   「世阿弥・花鏡」   
(出典1)(出典2)


「我が道を 備後に能の燈をともし続けて
               能楽師 喜多流シテ方  大島久見(昭和7年卒)

明治維新で藩士を廃業した祖父大島七太郎は師匠の羽田家の跡を引き継ぎ、謡を教授し好きな能を普及することで生計を立て始めました。
又、上京して14世宗家喜多六平太師に最初の内弟子として逸早く師事し、明治期、福山へも宗家に何度か演能にお越しいただいています。


大島寿太郎は幼い頃より祖父に厳しく能の手ほどきを受けて育ちましたが、後に14世宗家に懇望され、樹徳尋常小学校の初代校長の職を辞して、能楽一筋に邁進するため大正3年、新馬場町(現在の霞町)に能舞台を建て、能楽普及活動、演能活動を活発に行っていました。
ですから、大正4年生まれの私が生まれた時には既に自宅に能舞台がありました。
8人兄弟姉妹の6番目で三男の私は厳格な父が苦手でなるべく稽古も兄達の後に隠れるようにしていました。
しかし、長姉君枝が結婚後朝鮮に移住し、そこで1年後亡くなったことが父にはかなり堪えたようで、昭和4年、私がまだ誠之館中学在学中、59歳で亡くなりました。
長兄の厚民もまだ大学生でしたので、8人の子を抱えて母は途方にくれたと思います。
幸い、家屋敷の周りの田畑を売りながら、私達は学校を卒業させてもらいました。

父の死後、父の高弟の方々から大島兄弟のうちだれか家元に師事して父の跡を継ぐよう要請があり、三男の私に白矢がたちました。
私が誠之館中学を卒業して宗家の内弟子修業に上京したのが、昭和7年のことです。
福山でのんびりと過ごし、家でしたことのない雑用をあれこれしなければなりませんでしたので、内弟子生活はなかなか厳しいものでした。
兄弟子に何か聞いてもなかなか教えてもらえず、ただ人の稽古を見て芸を盗めと言われました。
その後、14世宗家六平太師に師事し、大層懇切丁寧な教えを受けました。
有難い事に祖父、父、私と大島家3代にわたって名人14世にお世話になりました。
途中、昭和10年、徴兵検査を受け1年ほど兵隊生活をしましたが、病気をして除隊しました。
福山空襲で生家も能舞台も焼けてしまったことを修業中の疎開先で知り、その年の9月、福山に帰ってまいりました。

祖父と父が残してくれたものは、ほとんど焼失しました。
しかし、焼土化した福山に、もう一度、文化の燈を灯したい。
祖父、父が伝えてきたものを次の時代へ伝える事が私の使命だと強く思い、戦後いち早く簡単な稽古場を建て、橋掛かりも付け、昭和22年11月2日には、14世宗家、15世実先生、16世を招聘して大島家先祖追善能を催しました。
又、昭和23年10月10日には14世宗家をお招きして、母校誠之館講堂にて喜多流演能会を、昭和25年11月19日にも誠之館講堂で井口法太郎氏追善能を催しました。

このように、戦後すぐに演能活動ができましたことは社中の方々や誠之館時代の同窓生、同期生が物心両面で応援して下さったおかげです。
同窓会の度に各地より同期生が集り、福山の町をあちらこちらと飲み歩いた後、最後は私の家でというのが永い間の定番でした。
同窓会だけでは物足りないと寄れる者で寄ろうやあと“よろう会”と称して私方に集まり、寄ると皆、誠之館時代の青年の気持ちに帰り話が弾んだものです。

私達夫婦は子どもに恵まれなかったものですから、夏冬の長期休みに甥や姪を預かり、遊びがてら稽古をつけていました中の1人、長兄厚民の息子・政允を小学校6年生の時、跡取りと決めて養子とし、後に政允の嫁に同期生の吉田重夫氏の三女・泰子を貰い受けました。

質の高い演能を定期的に催すことで能楽をもっと普及したいと思い、昭和33年には能楽教室(定例鑑賞能)を興し、年4,5回のペースで催し始めましたが、私以外の能楽師は東京、京阪神、広島の各地から招聘しなければなりませんので、金銭的な負担はかなりなものでした。
戦後建て増ししながら使っていました能舞台も古くなりましたので、昭和46年、思い切って能舞台を建て替えまして、3階建てのビルの中に能楽堂を造りました。
補助席を入れて380席ほどの客席を有します。
現在ですら一地方での個人の能楽堂を持っているものは稀なことなのに、まだ国立能楽堂も、横浜能楽堂もない時代に、能楽堂を建てるなんて何とも無謀なことをしたものだと思いますが、当時は質の高い演能は良質の能楽堂でという想いだけで無我夢中でした。


その後、この舞台を拠点として数多くの演能を催し、大曲も披かせていただきました。
昭和63年には、16世宗家継承記念能で能「鷺」を弟子家では私が初めて勤めさせて頂きました。
又、平成3年、私の喜寿祝賀能で能「木賊」を、平成6年、傘寿記念能では秘曲の能「伯母捨」も披かせて頂きました。
幸いに現在は政允や孫の輝久、衣恵が引き継いでくれていますので、私の役目は果たしたという充実感とともに、平成9年に能「西行桜」の舞台を勤めましたのを最後に「プロ能楽師 大島久見」を引退し、その後は、社中の会(福山喜多会)で気ままにお弟子達と謡や舞を楽しんでおりました。

私の約90年の歴史の中で母校誠之館の友は心の支えであり、そのおかげで今日この福山の地で能の燈を伝え継ぐことが出来たのだと改めて感謝の念を禁じえません。

残念ながら現在、私は病に伏しておりますが、母校の今後益々の発展を祈念してやみません。
     平成16年1月24日


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02088 大島久見 『大島久見傘寿記念写真集』 喜多流能楽教室 平成6年
04033 大島久見 『弱法師(よろぼし)』(CD) 大島政允 平成16年


出典1:『誠之館同窓会報(第3号)』、16頁、「能楽連鐶 大島家の諸師」、森田雅一、福山誠之館同窓会編刊、1996年5月19日
出典2:『政治産業文化備後綜合名鑑』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月
2005年5月25日更新:本文・出典●2005年5月26日更新:本文・所蔵品●2006年5月23日更新:タイトル・連絡先(削除)●2006年6月13日更新:所蔵品●2007年12月7日更新:経歴・本文●2009年9月24日更新:誠之館所蔵品●