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大島能楽堂・喜多流能楽師範 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正4年(1915年)1月23日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成16年(2004年)2月3日、享年90歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
昭和4年(1929年)9月21日大島寿太郎師が亡くなられたとき、その3男久見師は誠之館中学校3年在学中であった。 昭和7年(1932年)福山誠之館中学校を卒業。 その後、17歳で上京、家元内弟子として、14世家元喜多六平太・15世喜多実両師の懇切・厳格な指導を受けた。 昭和20年(1945年)8月8日、福山は空襲によって一面の焼土と化し、やがて終戦。久見師はこれを機に、昭和20年(1945年)9月帰郷し、茫々たる焼野原の中から、祖父以来の“大島能”の再建に立ち上られた。 爾来、今日まで50余年、門弟の育成と並行して、家元・高弟を招待しての各種記念能会のほかに、嗣子大島政允(まさのぶ)師とともに、昭和33年(1958年)以降、能楽教室と名付ける年4回の定例能会を主宰し、今年で160回に垂んとしている。 同様の会は広島でも開催されていて、「能を楽しむ会」という。 別の面から久見師の演能記録を見ると、現行約190にも及ぶ喜多流現行曲の大半を手がけられ、「望月」「伯母捨」などという重(おも)習いの大曲をも披(ひら)いておられる。 これら諸演能の舞台となっているのが、昭和46年(1971年)9月に完成した3階建の「嘉多流能楽堂」である。 内に建てられた能舞台は、国宝西本願寺北舞台・重文鞆沼名前神社舞台等を手本としたもので、その構成・材質等、個人建設の舞台としては稀有のものといわれる。 この様な功績によって、久見師は、「国総合指定無形文化財(人間国宝)」の指定を受けられたほか、日本能楽会理事にも選出されておられる。 また福山のほかに岡山、尾道、三原、新市に稽古場を持ち、多くの弟子を育てた。 平成6年(1994年)、傘寿を迎えてなお、日々精進される久見師の風姿には、まさに、枯淡無心の境に輝く、不滅の法燈の如き風格が感じられる。 「命には終りあり 能には果てあるべからず」 「世阿弥・花鏡」 (出典1)(出典2) |
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明治維新で藩士を廃業した祖父大島七太郎は師匠の羽田家の跡を引き継ぎ、謡を教授し好きな能を普及することで生計を立て始めました。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02088 | 大島久見 | 『大島久見傘寿記念写真集』 | 喜多流能楽教室 | 平成6年 |
04033 | 大島久見 | 『弱法師(よろぼし)』(CD) | 大島政允 | 平成16年 |
出典1:『誠之館同窓会報(第3号)』、16頁、「能楽連鐶 大島家の諸師」、森田雅一、福山誠之館同窓会編刊、1996年5月19日 出典2:『政治産業文化備後綜合名鑑』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月 |
2005年5月25日更新:本文・出典●2005年5月26日更新:本文・所蔵品●2006年5月23日更新:タイトル・連絡先(削除)●2006年6月13日更新:所蔵品●2007年12月7日更新:経歴・本文●2009年9月24日更新:誠之館所蔵品● |