福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
大村筆雄
旧名
増田筆雄
おおむら・ふでお ますだ・ふでお
会計検査院院長、福山誠之館東京同窓会会長(第2代)
大村筆雄


経 歴
生:大正7年(1918年)4月10日、福山市三之丸町に生れる
没:平成20年(2008年)9月29日、東京都港区の病院において急性心不全で逝去、享年90歳
昭和10年(1935年)3月 16歳 広島県立福山誠之館中学校4年修了
昭和13年(1938年)3月 19歳 第六高等学校(文科乙類)(旧制)卒業
昭和15年(1940年)10月 22歳 高等文官試験行政科及び司法科合格
昭和16年(1941年)3月 22歳 東京帝国大学法学部(法律学科)(旧制)卒業
昭和16年(1941年)4月 22歳 大蔵省に入省、国民貯蓄奨励局に配属
昭和16年(1941年)12月 23歳 徴兵により陸軍二等兵
昭和17年(1942年)1月 23歳 短期現役海軍主計科士官
海軍経理学校の採用試験に合格、海軍に転籍し海軍主計中尉
昭和17年(1942年)1月 23歳 海軍経理学校で訓練を受ける
昭和17年(1942年)5月末 24歳 第一線に配属(巡洋艦球磨乗組、駆逐艦乗込)
昭和18年(1943年)8月 25歳 海上勤務の後、海軍経理学校で見習士官の教官として勤務する
昭和19年(1944年)3月 25歳 第30建設部員としてパラオ諸島に赴任
昭和20年(1945年)8月 27歳 パラオ諸島で終戦を迎える(海軍主計大尉)
昭和21年(1946年)1月 27歳 パラオより帰還、復員
昭和21年(1946年)2月 27歳 大蔵省に復職(物価部、後に内閣物価庁に改編移管)
昭和24年(1949年)6月 31歳 大蔵省主計局(主査、主計官、総務課長)
昭和37年(1962年)5月 44歳 名古屋国税局長
昭和39年(1964年)5月8日〜
 昭和42年(1967年)7月28日
46〜
49歳
防衛庁経理局長
昭和42年(1967年)8月4日〜
 昭和43年(1968年)6月7日
49〜
50歳
大蔵省国有財産局長(第14代)
昭和43年(1968年)6月 50歳 日本開発銀行理事
昭和47年(1972年)6月 54歳 日本住宅公団副総裁
昭和50年(1975年)11月〜
 昭和55年(1980年)12月
57〜
62歳
会計検査院(認証官たる検査官)
昭和55年(1980年)12月2日
 昭和57年(1982年)11月20日
62〜
64歳
会計検査院院長
昭和58年(1983年)2月 64歳 国有財産中央審議会(委員、会長)
昭和60年(1985年)4月1日〜
 昭和61年(1986年)7月5日
64〜
66歳
獨協大学理事長(第2代)
平成2年(1990年)4月29日 72歳 勲一等瑞宝章
平成3年(1991年)6月〜
 平成11年(1999年)3月
73〜
80歳
国有財産管理調査センター(理事長、顧問)
平成6年(1994年)〜
 平成11年(1999年)
76〜
80歳
福山誠之館東京同窓会会長(第2代)
平成11年(1999年) 80歳 福山誠之館東京同窓会名誉会長
平成20年(2008年)9月29日 90歳 従三位


人生こしかた ―戦前戦後を省みて― 大村筆雄

私は大正7年(1918年)福山市に生まれ育った。
今でこそ駅前の広場も街区も整備され、近代都市らしくなっているが、当時人口3万人の城下町福山の鄙びた面影は未だに私の記憶に鮮明であり、大変懐かしい。
これから戦前戦後にわたる私の人生のこしかたを顧みて記述してみたいと思いますが、御参考になれば幸いです。


六高を経て東大へ
昭和6年(1931年)、旧制福山誠之館中学校に入学し、同10年(1935年)、4年修了で終え(当時は旧制高校等は旧制中学4年修了で受験し進学することが出来た)、難関とされた六高(岡山の旧制第六高等学校)の入試に合格し進学した(中学時代の思い出は創立百三十周年記念「懐古」―誠之館時代の思い出―に寄稿)。

六高は運動部活動が極めて盛んで、全寮制で原則として何れかの運動部に入らされた。
中でも全国八連覇を遂げた柔道部の猛訓練は有名で、毎年誠之館出身者が入部していた関係で私も勧誘されて入り、猛訓練の洗礼を受け精進忍苦、堅忍不抜の精神を叩きこまれる(この猛訓練の成果が後のち私の精神的肉体的バックボーンとなって私を支えてくれた)。


昭和12年(1937年)夏、全国柔道高専大会が終り、漸く大学進学の準備を始める。

その頃は満州事変、二・二六事件、支那事変等々、国の内外に血腥い軍隊の出動を伴なった大事件が続発した。
当時陸軍を中心とする軍閥の跋扈に政党も財閥も影薄く、一部革新官僚は軍部少壮幹部将校と気脈を通じ、日本は漸次戦争の危機に近づきつつあった。


私は官僚の道を選ぶべく東大法学部を目指した。
六高進学時と同じく、親に負担をかけたくない思いで必死に勉強した。
お蔭でストレートに東大法学部に合格したが、旧制大学は3年制で、官吏となるためには高等文官試験に合格する必要があり、而も大学卒業後直ちに中央官庁に就職するためには、大学3年で高等文官試験に合格せねばならず、時間的に極めて困難なことであったが、腹を決めて一切の遊びを断ち、日夜勉学に次ぐ勉学、まさに精進忍苦の連続であったが、苦労の甲斐あって昭和15年(1940年)10月、高等試験に行政科も司法科も合格することが出来た。
これも六高柔道部で精神的肉体的に鍛えに鍛えられたお蔭と思う。


就職後軍務へ

昭和16年(1941年)、大蔵省に就職、8ヶ月の勤務の後、徴兵制によりその年12月、広島の部隊に陸軍二等兵として入隊、激しい新兵教育の洗礼を受けるが、入隊前に受験していた海軍経理学校の入学試験に合格して、陸軍より海軍に転籍し一躍海軍主計中尉に任ぜられた。

昭和16年(1941年)12月、支那事変は米英相手の太平洋戦争に拡大して国運を賭する大戦へと展開していく。
昭和17年(1942年)1月より海軍経理学校で訓練を受け、5月末には一斉に第一線に配属になった。
中には早速ミッドウェイ島の攻略作戦に参加し、6月早々戦死という悲運の友もあった。私は比島にて巡洋艦球磨に乗艦、香港――ラバウル間、南大平洋の遠距離を陸軍部隊輸送の護衛に当ったり、駆逐艦に乗組み、東支那海に出没する敵潜水艦の警戒等海上勤務に馴れた頃、昭和18年(1943年)8月、海軍経理学校勤務となり、後輩の大学卒主計科見習士官の教官としてその教育に当る。


翌昭和19年(1944年)2月学生の卒業と共に第三十建設部員(パラオ方面の守備態勢強化のため新編)として3月早々、パラオ諸島の中心コロール島に着任した。
かねて米軍のマッカーサー司令官は「パラオを経て比島へ」とその反攻の経路を天下に声明していたため、パラオは大激戦の場となるやも知れず、万一の場合の戦死も覚悟して赴任した。
既にコロール島を中心とするパラオ諸島の海には、去る2月トラック島基地を米軍に叩かれ、パラオに避退してきていたわが連合艦隊の大和、武蔵以下精鋭の戦艦、巡洋艦等が何十隻と一望され壮観であった。
それも束の間、3月30日には米軍機動部隊の来襲があり(その前夜連合艦隊の主要艦船は比島方面に避退)、米軍空母より数次に渉り飛来した航空機群の猛爆撃で、パラオ基地は甚大な被害を蒙る。
なお、コロール島で指揮していた古賀連合艦隊司令長官以下幕僚は、その夜水上飛行艇二機に分乗してパラオを脱出、古賀長官機は悪天候下、比島近海に不時着し行方不明となり、福留参謀長機は、セブ島近海に不時着し敵ゲリラの捕虜(後に我軍に奪還救助)となる等大惨事となった。


然しその年9月には再び米機動部隊来襲、此度は上陸部隊を帯同していたため、まずパラオ諸島の中のペリリュー島、アンガウル島に上陸、わが守備隊との間に戦史に残る激烈な攻防戦が展開されたが、逐次敵に制圧され玉砕した。
2島を制圧し飛行場を確保した米軍の作戦は比島のレイテ島攻略に向う。
米軍の攻略目標から外れた我々パラオ基幹部隊は、パラオ本島のジャングルの中で持久作戦に入り、補給の途絶した主食の代替として甘藷、タピオカ芋等の増産を図るも土質不良のため目標の何分の1位しか収穫がなく、万余の陸海軍部隊の中から連日栄養失調による死者が出る悲惨な状況下に終戦を迎えた。


戦後復興と経済成長

漸く昭和21年(1946年)1月、パラオより帰還船で浦賀に上陸、復員手続を済ませ、帰った福山は前年8月の空襲で丸焼けの惨状、「国破れて山河あり」つくづく敗戦の悲哀を味わった。
暫く福山で敗戦の痛手を休めた後、2月には大蔵省に復職、早速物価庁において価格統制業務に従事し、狂乱物価の抑制と悪性インフレ対策に頭を悩ます。
昭和24年(1949年)大蔵省主計局に配属され、国鉄運輸、郵政電通、厚生労働、文教、農林等主要予算の大半を順次担当し、戦後復興関連、新しい国造りの基幹となる予算等各省関係予算の編成に関与した。
10年余の主計局勤務の間には、1兆円予算編成の大号令下各省と予算折衝に血の滲むような苦労をしたり、予算査定時に長期間部下と殆ど家にも帰らず、徹夜の作業をしたのも今は懐かしい思い出となっているが、家庭生活も犠牲にし身命を賭しての大仕事であった。
これも六高時代叩きこまれた精進忍苦、堅忍不抜の精神の賜物であるが、戦後特に常時心にしていたことがある。
それは志半ばにして戦野に散った同世代の若者達のことである。
その無念の想いのまま散った志を、我々は常に胸に抱いて日本復興のため努力してきた積もりである。


その後、防衛庁経理局長として防衛費の編成実行を担当し、更に大蔵省国有財産局長として国有財産の適正な管理処分の業務を遂行し、昭和43年(1968年)退官後、日本開発銀行理事として政策金融を担当し、日本経済の高度成長に寄与する。
更に昭和47年(1972年)日本住宅公団副総裁となり、庶民の為の公団住宅の建設、分譲宅地の造成、多摩ニュータウンを始め筑波学園都市の建設等の大事業を推進した。


昭和50年(1975年)会計検査院検査官(認証官)を拝命したが、会計検査院は内閣より独立し、3人の検査官の合議によって運営され、その中の1人が院長として院の対外的活動を代表する。
長年国家予算の編成に携わってきたが、此の度は決算検査の見地から予算執行の適正化、有効性・効率性の確立に努めた。
長期に渉る高度成長に伴ない、財政といわず経済といわず贅肉が各所に見られ、動脈硬化症状も進みつつあり、警告を発し不適正な点を是正させた。
昭和57年(1982年)任期満了により会計検査院長を退任し、長い間の公務員生活を終えた。
   (出典1)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02060 福山誠之館同窓会 編 「あの師あの友」
『懐古−誠之館時代の思い出−』、166頁
福山誠之館同窓会 昭和58年
03284 福山誠之館同窓会 編 「人生こしかた−戦前戦後を顧みて−」
『誠之館同窓会報(第10号)』、5頁
福山誠之館同窓会 平成15年


出典1:『誠之館同窓会報(第10号)』、5頁、「人生こしかた−戦前戦後を顧みて−」、大村筆雄、福山誠之館同窓会編刊、2003年6月1日
2005年4月11日更新:本文・出典●2006年5月23日更新:タイトル・連絡先(削除)●2007年8月23日更新:関係情報●2008年2月5日更新:経歴・本文●2010年4月14日更新:経歴●2011年8月18日更新:経歴・誠之館所蔵品・関係情報(削除)●2011年8月19日更新:経歴●2011年8月23日更新:経歴●