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幕府儒者 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
生:明和4年(1767年)10月3日、江戸生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
没:嘉永3年(1850年)9月23日、享年84歳、四谷・安楽寺に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
明和4年(1767年)10月3日、勘定奉行の属吏であった父・岡本荘蔵政苗の子として生まれた。 母は鈴木平兵衛の女で渡辺与惣兵衛尚の養女。 名は成・正成、字は子省、通称は忠次郎、号は花亭・豊洲(豐洲)・醒翁・詩痴・江州・括嚢道人・括嚢老人。 特に花亭は本来自らの住居の号で、自然と自らも花亭と呼ぶようになった。叙爵して近江守と称した。 南宮大湫に師事。 寛政6年(1794年)父の跡をついで幕臣。 勘定奉行の下役だった文政元年(1818年)3月、貨幣改鋳への建議を行なうも水野忠成(みずの・ただあきら)に疎まれ小普請支配に左遷される。 天保8年(1837年)12月、水野忠邦に取り立てられ信濃中野代官をつとめた。 天保9年(1838年)3月、江戸城西ノ丸が炎上し、普請助成の賦金あるや、8月花亭は領民に諭書を発したところ、たちまち2700両献金を得た。 また同年秋霜害で稲が枯死したが、領民は平年の納税を申し出た。 花亭は任地に赴いてその災害に驚き、幕府に請うて金子を下賜し、50村中30村を賑救し、他は減税した。 花亭の民心を得ることかくのごとく、天保10年(1839年)5月、勘定吟味役に抜擢され、天保12年(1841年)12月、老年までの勤仕の功をもって諸大夫を仰せ付けられ、天保13年(1842年)5月、勘定奉行に昇進、500石加増され勝手方を勤め、天保14年(1843年)5月鑓奉行に転じた。 また近江守に任ぜられた。 漢詩人としても知られた。 矢部定謙・川路聖謨・羽倉用九(簡堂)らと親交があった。 菅茶山肖像画への賛を書いたことでも有名である。 文化11年(1814年)茶山の東遊のとき、江戸で会い親しく交わっている。 茶山は詩集『黄葉夕陽村舎詩』で、その交友を偲んで8首の詩を詠んでいる。 著書に『花亭詩集』などがある。 |
誠之館所蔵品展示品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
06537 | 広島県立歴史博物館 編 | 「菅茶山宛岡本花亭書状−黄葉夕陽文庫の菅茶山宛文人書状(4)」 『広島県立歴史博物館 研究紀要(第9号)』、(14頁) | 広島県立歴史博物館 | 平成19年 |
t0180 | 岡本花亭 書 | 七言絶句二首「形勝・偶自」 | − | − |
出典1:『国史大辞典2』、756頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和55年7月1日 出典2:『近世の学び舎 寺小屋〜私塾〜藩校〜』、32頁、菅茶山記念館編刊、2005年11月2日 出典3:『広島県立歴史博物館 研究紀要(第9号)』、14頁、「菅茶山宛岡本花亭書状」、岡野将士著、広島県立歴史博物館編刊、平成19年3月31日 |
2009年11月10日追加●2010年10月18日更新:経歴・本文・出典●2010年10月19日更新:経歴・本文●2010年10月21日更新:写真・本文・出典●2012年6月25日更新:誠之館所蔵品展示品● |