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福山藩大参事、深津・沼隈・深安郡長、阿部家家令 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:天保13年(1842年)6月18日、東京本郷丸山町阿部家邸内生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和3年(1928年)2月25日 東京西片町で病没、享年87歳、東京小石川蓮華寺に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
天保13年(1842年)東京丸山の阿部家邸内で生まれた。幼名を純次郎又は求馬、諱は次雄、字は創、通称は伊右衛門、号は北窓。安攻4年(1857年)福山藩士岡田伊右衛門吉仲の養子となり俗名を求人、実名を吉顕と改めた。 父は福山藩の重臣山岡秋崖でその次男。安政2年(1855年)父の一家福山に帰住、ことに剣道並砲術の修練に励んだ。その技大いに上達し、また威風堂々たる体躯の持ち主となった。実兄の山岡謙介は、藩校誠之館で英学教師を勤め、後には阿部家家令を勤めた。 安政5年(1858年)藩に出仕、二人扶持12石を給せらる。安政5年(1858年)吉仲の長女ヱイと結婚、文久2年(1862年)養父病死、家禄400石を襲い、俗名を伊右衛門と改めた。 元治元年(1864年)征長の命を受け、藩主阿部正方に随って広島に出陣。慶応2年一旦福山に帰り、慶応2年(1866年)再征石州に向い、慶応3年(1867年)7月福山に帰陣、御用人を仰付けられた。 慶応4年(1868年)1月、突如長兵が福山城を襲ったが、吉顕らの奔走により無事落着した。 慶応4年(1868年)1月末、命を受け、大砲隊を率いて松山に向い使命を果して慶応4年(1868年)2月帰国、大隊司令官心得を仰せ付けられる。 慶応4年(1868年)9月には箱館出兵総督を命ぜられ蝦夷地に向う。福山藩は一番乗りの輝かしい武勲を建て、明治2年(1869年)平定、6月凱旋、8月執政に挙げられた。 明治2年(1869年)11月藩籍奉還となり、阿部正桓が福山藩知事となるや大参事に挙げられた。 明治3年(1870年)政府召集の集議員議員会議に参加、会期中に「藩治本論」と題するきわめて注目すべき意見書を政府に上程している。明治4年(1871年)廃藩置県のため小田県が置かれ大参事を免ぜられたが、引き続き止まって藩の財政整理を命ぜられ、短期間に困難なる整理を完了し、明治7年(1874年)解散となった。 箱館戦争以来知遇を受けていた山田顕義の好意により、時の司法卿であった氏の引き立てで明冶8年(1875年)七等判事に任命され、まず東京裁判所詰、次に栃木裁判所長、さらに大審院判事となった。その後、明治10年(1877年)願い出て退官、福山に帰郷した。 明治11年(1878年)郡役所が新設されると、郷党の懇請により沼隈、深津二郡長に就任、明治15年(1882年)更に深安郡を加え三郡長となった。沼隈郡独立後は深安郡長として明治40年(1907年)退官まで30年間地方行政を担当し、教育・産業を始め地方の発展振興に多大の功績を遺した。その間の功により従五位勲五等に叙せられた。 また誠之館にとって忘れ得ぬこととしては、一県一中学制(「中学校令」)によって、福山中学校が廃校の危機に瀕した時、氏が中心となって明治18年「福山教育義会」が設立され、備南地方全住民の力を結集して、見事にその存続に成功したことである。 退官後、阿部家の懇請により家令となったため、明治42年(1909年)福山を引き上げて上京、西片町に移り住んだ。こうして生涯を阿部家3代に献身的に奉仕された。大正11年(1922年)には高齢のため家令を退き、阿部家協議員となる。 昭和3年(1928年)天寿を全うして、87才で他界せられた。武道の外書道に優れ、刀剣・書画・骨董を愛好し、勝負事には一切手を出さなかった。昭和10年(1935年)刊行の『岡田吉顕伝』(A5版362頁)には、氏の功績並びに面目が躍如としている。 「中村華精墓碑銘」(福山市赤坂町)を書いた。 また明治19年(1886年)2月15日、福山市丸之内1丁目(赤門の内側)にある「捨生取義の碑」を揮毫した。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00063 | 岡田吉顕 書 | 和歌「雲のうへに」 | − | − |
00064 | 岡田吉顕 書 | 和歌「御国人」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
03912 | 岡田純次郎 著 | 『岡田吉顕之傳』 | 岡田純次郎 | 昭和10年 |
出典1:『福山の古写真集』、福山城博物館友の会編刊、2000年10月1日 出典2:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和35年6月 出典3:『誠之館記念館所蔵品図録』、69頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典4:『福山いしぶみ散歩』、98頁、「中村華精」、佐野恒男著、福山文化財協会刊、1993年5月12日 出典5:『福山いしぶみ散歩』、137頁、「捨生取義の碑」、佐野恒男著、福山文化財協会刊、1993年5月12日 |
関連情報1:『誠之館百三十年史(上巻)』、52・177・178・190・192・213・226・242・321・323・347・422・443・447・449・460・461・462・463・466・467・468・469・470・473・476・477・480・490・554・557・581・1009頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 |
2005年3月25日更新:本文・所蔵品・関連情報・出典●2006年2月27日更新:レイアウト●2006年6月21日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月28日更新:経歴・本文●2008年2月5日更新:経歴・本文●2008年8月19日更新:本文●2009年7月23日更新:経歴・誠之館所蔵品●2012年1月10日更新:経歴・本文●2012年2月15日更新:本文・出典●2012年2月15日更新:本文・出典● |