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医師、国立福山病院院長 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正2年(1913年)5月25日、福山市生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:(不明)、福山草戸・明王院墓地に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
大正2年(1913年)福山市生まれ。福山市医師会長の南波宗次郎氏にこわれて養子として南波家に入った。 昭和6年(1931年)福山誠之館中学校を卒業、六高から岡山医科大学にすすみ、昭和13年(1938年)に卒業した。 卒業後、同大学第一外科教室に入り、副手としてさらなる医学の研鑽を目指した。時代はだんだんに戦時色が強まり、昭和14年(1939年)には入隊、そのまま軍医として戦争に巻き込まれていった。昭和20年(1945年)8月の終戦は、満州で迎えたが、ほどなく進駐してきたソ連軍によりシベリアへの抑留を余儀なくされた。そうした厳しい環境下にあっても、医師としての職務を遂行された。 昭和23年(1948年)に復員するや、古巣の岡山医科大学の第一外科教室に戻り、まもなく庄原日赤病院の外科医長となった。その後、昭和26年(1951年)に38歳で福山に戻り、国立福山病院の外科医長、副院長、院長をつとめた。 |
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拝啓、すっかり御無沙汰致しておりますが、先生には益々ご健勝にお過しのことと存じます。 実は先年、先生が福山市医師会「医友」誌にご執筆の「私と柔道」を拝読致しました折、その中に先生の人間形成の原点を垣間見る思いが致し、教えられることの多い一文だと思いました。 以前先生は『虜愁』(瀬戸内海新聞連載、昭40年発刊)並びに『私の思い出』(昭56)の2著を発刊されておりますが、それらはそれぞれ、学生時代(私と柔道)、軍医ソ聯抑留時代(虜愁)および戦後(私の思い出)という各時代における自らの体験を述べられたもので、この3著を通読することにより南波晋という1人の医師が、どのような人生を生きてこられたか、その時々の人との係わりの物語を通じ、理解することがでるように思いました。 この度機会を得てこれらを通読し、ロマンに溢れた男の一貫した人生の姿勢に大きな共感を覚えましたので感想の一端を記してみました。 『虜愁』は昭和20年(1945年)、当時陸軍軍医大尉として満州にあった先生が敗戦によりソ連に抑留され、昭和23年(1948年)9月舞鶴に帰国するまでの捕虜生活の記録です。 私たちは今日まで、数多いソ連抑留者の手記を目にしておりますが、それらの多くはソ連の非人間的待遇、悲惨な抑留生活を語るもので、恨念に満ちたものです。 ここに語られるような、一人の抑留者が医人として、また人間として、勝者と敗者という垣根を越えて互いに気持を通じ会い、支配者であるはずの人々に多くの友人を得、信頼を育てていった『虜愁』の物語は、私たちの知るシベリヤ残酷哀史と全く異なったものでありました。 そこには、シベリヤ、ツンドラ地帯にも木々の芽燃える春や夏の訪れがあること、そこに住むソビエトの人々にも私どもと全く同じような喜怒哀楽に溢れた情感豊かな暮らしのあることが、各地の病院での交歓のエピソードによって語られており、私には大変新鮮でした。 とくに感動的でしたのは、「丘の中腹の病院」という章にある、福山出身兵の死体を埋葬するため、大八車に乗せてイルクーツクの町を見下ろす丘の頂き沿い、白樺の緑樹が林立する坂道を行く途中、ふと出会った老婆が胸に十字架を切り、スターリンの許に行けるように祈ってくれたというくだりでした。 私達が漠然と想像する荒涼たるシベリヤの地にこのような人間的な光景があったということは何と素晴らしいことでしょうか。 読み終えて、イルクーツク収容所の女医大尉、町外れの収容所での軍医大尉女史、ユダヤ系の女医さん、当時国家試験勉強中で、2年もたって医学校を卒業したことを知らせに来てくれた美人の看護婦さん。 そして本命として登場するイルクーツク中央病院の女医ガラビーナ、シションニーナなどなど。 何時かそれらの人が、私までも身近な知人であるかのような錯覚を起こすほど生き生きと、そこはかとないラブロマンの香りをも漂わせながら語られております。 そういえば『虜愁』の序文に、 「できるだけ悲惨さを少なく、相手国の恥部はなるべく掘り起こすことをしないで、彼らの好意を素直に受け入れることに努力した。」 「実際私の接した人たちはその国の小市民であり、善良な人たちばかりであった」 と述べておられます。 ことさらにそうした立場をとろうとするのでなく、それがどのような環境であっても、何時も相手を対等な一人の人間として見ることのできる先生の心の余裕と懐の大ききは、また『私の思い出』において医師としての経験の履歴を語られるなかにも窺うことができます。 先生が医師として成長されてゆく過程での先輩、同輩、後輩たちとの出会いのどれをとっても、相手への温かい思いやりがあります。 戦後復員されてからの厳しい何年かの時代も、恐らく随分御苦労があって当然と思いますが、 「せめてこれだけ毎月いただけたら助かるのにと(母上から)言われた時はほんとうに申し訳なく思った。一家の主に収入の無い寂しさをつくづく味わった」 とあるのが先生の唯一の苦衷の告白でしょうか。 そして庄原時代、国立福山病院時代、今の私たちには想像もできない悪条件のなかで、精一杯新しい戦後の医学にトライしながら、やがて長い年月の経過のなかで沢山の後輩外科医を育ててこられた先生の生きかたは、かつてシベリヤ抑留の時代、極端な辛酸のなかで、辛酸をマイナスとせず、与えられた条件のなかで何時も前向きに、一番良い環境を作りあげてゆこうとされる包容力、人への対応にみた先生と全く同一のものであることを知りました。 また『私の思い出』に出てくるそれぞれの時期における患者への回想の記述は、一面では戦後の臨床医療の移り変わりを思い起こさせる懐かしく、また興味深い一つの医史でもありますが、今日私たちがとかく患者を病気としてしか見ない風潮のなかで、一人一人の患者を病める人間としてとらえ、患者と長い交友を続けられてこられた数多くの事例を拝読し、あるべき医師の原点を教えられる思いが致しました。 先生はいつも温顔で、言葉を荒げ不機嫌を顔に表されたのを見た事がありません。 後輩が安んじて頼れるたのもしさがあります。 『虜愁』、『私の思い出』を拝読し、私は先生の柔和な風貌の底に何か先生を律する精神的な心棒があるのではないかと思い始めていましたが、それがその後、医友のエッセイ「私の柔道」を読み、なるほど南波先生の精神のバックボーンは柔道、特に六高柔道部のそれだったかと合点したことです。 そこには昭和7年(1932年)、選手兼監督として六高柔道部を引き連れて全国インターハイを目ざした猛練習、やがて京都戦で念願の全国制覇を果たし紫紺の大優勝旗を手にしえた感激と練習の苛酷さも述べられていますが、また当時の旧制高校柔道部の独自のしごき、精神的強靭さも見事に読みとれます。 いみじくも文中先生はこう語っておられます。 「柔能制剛。力の強い者が力の弱い者に勝つのは当然の理であるが、力の弱い者が力の強い者に勝つところに武士道の妙味がある筈である。そのためには自然に逆らわないことである」。 まさに武士道の極意でしょう。 しかし、長い人生の遍歴でのそれぞれの土壇の場で、このように心の余裕を残して達観できるためには、よほどの精神の修行と剛腹さが無い限り果たせることではないでしょう。 先生の人間的大きさを垣間見る思いです。 今後とも先生から私共後輩が教えをこわねばならぬことは限りなくあります。 ご自愛下さいますよう願って止みません。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02127 | 南波晋 著 | 『虜愁』 | 南波晋 | 昭和48年 |
02126 | 南波晋 著 | 『足跡』 | 南波晋 | 昭和57年 |
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02060 | 南波晋 著 福山誠之館同窓会 編 | 「中学校時代の思い出」 『懐古−誠之館時代の思い出−』、138頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
出典1:『足跡』、南波晋著刊、昭和57年4月1日 出典2:『虜愁』、南波晋著刊、昭和48年12月 出典3:『福山誠之館同窓会定時総会出席者名簿(昭和61年度)』、4頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和61年5月25日 |
2007年8月21日追加●2007年12月25日更新:経歴・関連情報●2008年2月20日更新:本文・関連情報削除●2008年6月18日更新:経歴●2009年8月17日更新:経歴・誠之館所蔵品●2011年8月17日更新:誠之館所蔵品・関連資料(削除)●2014年8月1日更新:経歴● |