福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
森田雅一
もりた・まさかず
教師、『誠之館百三十年史』編纂委員長
森田雅一


経 歴
生:大正6年(1917年)10月14日、福山市三之丸町生まれ
没:平成17年(2005年)11月13日、享年89歳
昭和5年(1930年)3月27日 12歳 福山市立西尋常小学校卒業
昭和10年(1935年)3月3日 17歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和15年(1940年)3月9日 22歳 広島高等師範学校文科第三部乙(地歴科)卒業
昭和17年(1942年)9月23日 24歳 広島文理科大学史学科(国史学専攻)卒業
昭和17年(1942年)9月30日 24歳 広島県立呉第一中学校教諭
昭和17年(1942年)10月1日 24歳 休職、広島歩兵第11連隊補充隊(幹部候補生)入隊のため
昭和18年(1943年)4月1日 25歳 久留米第一陸軍予備士官学校に分遣される
昭和18年(1943年)12月26日 26歳 見習士官
昭和18年(1943年)12月28日 26歳 第二航空満州第800部隊(福岡へ集結)
昭和18年(1943年)12月28日 26歳 第二航空満州第800部隊(釜山)
気象連隊附通信将校(仙台飛行学校)
昭和19年(1944年)7月1日 26歳 陸軍少尉(予備役)
昭和19年(1944年)12月24日 27歳 仙台陸軍飛行学校通信科卒業
昭和19年(1944年)12月24日 27歳 中央航空路部隊八戸飛行場展開隊隊長
昭和20年(1945年)8月20日 27歳 陸軍中尉
昭和20年(1945年)9月24日 27歳 復員(召集解除)
昭和20年(1945年)11月20日 28歳 広島県立福山誠之館中学校担当教諭(社会)
昭和24年(1949年)4月30日 31歳 広島市基町高等学校教諭
昭和40年(1965年)4月1日 47歳 広島県立尾道東高等学校
昭和45年(1970年)4月1日 52歳 広島県立海田高等学校
昭和46年(1971年)4月1日 53歳 広島県立白木高等学校校長
昭和49年(1974年)1月1日〜
 昭和53年(1978年)3月31日
56〜
60歳
広島県立安芸高等学校校長
昭和52年(1977年) 60歳 教育功労者文部大臣表彰
昭和53年(1978年)3月31日 60歳 退職
福山市教育史編纂
昭和58年(1983年)〜
 昭和60年(1985年)3月
65〜
67歳
『誠之館百三十年史』編纂委員長
昭和60年(1985年)3月〜
 昭和63年(1988年)
67〜
70歳
『誠之館百三十年史』編纂委員長
昭和63年(1988年)〜
 平成17年(2005年)11月13日
70〜
88歳
福山誠之館同窓会顧問


『誠之館百三十年史』編纂委員会の経過     岩崎博(昭和19年卒)

永年の念願であった『福山誠之館百三十年史』発刊事業が具体化したのは昭和57年(1982年)である。猪原会長を委員長とする刊行委員会が発足、更に編纂委員会を組織するに際し慎重に人選の末当時安芸高等学校校長をご退職の森田雅一氏を主執筆者と目して依嘱することに決まった。同窓会、学校側それぞれの編纂委員を委嘱して発足したが、当初予定4年より大幅に遅れ完成まで実に6年を要した。それまで徒に記念館の戸棚などに集積されていた古資料の整理は困難を極め、更に当時広島県公教育は総合選抜制が施行され、誠之館の伝統を語ることすらタブーとされる時代であった。校舎内においては編集室さえ持つことがかなわず、ついに庭の一隅にフレハブ一棟を建てて之に当てた。何処から手をつけてよいかも分からない状況のなかで使命感に燃える委員達は激しい議論を繰り返しながら、やがて構想が煮詰まり方向が見えてきた。

森田雅一委員長により巻末「後記」に経過の概要が記載される。

昭和58年成立の編纂委員会は委員長として掛江正之元校長、同窓会側委員として森田雅一、松岡正三岩崎博が、学校側委員として13人が委嘱された。その後掛江委員長の辞職により森田委員長となり、6年後の昭和63年(1988年)、第42回編集会議において完結する。上巻は森田委員長が執筆し、うち第8章は小土井薫計委員が担当した。下巻は小林達治委員が中心になり野宗睦夫、土岡博、藤井忠夫教諭が分担して執筆し、全篇の監修は松岡正三岩崎博・松岡義晃が受け持った。

かくて厳しい環境の中、多くの困難を克服して名著『福山誠之館百三十史』上下2巻の出版を果たせたことは私共同窓の誇りであり本校の栄光ある歴史の結実である。

とくに此の間膨大な誠之館前史の追及に全生活をささげ、昼夜を分かたず座辺にうずたかく積まれた古資料と挌闘されていた森田委員長の姿、またこれに続いた各執筆者の長い年月のご苦労は今も鮮明に目に浮かぶ。あの教育の荒廃の時代、自己資金ゼロの同窓会(猪原修三会長・鈴木幹事長時代)が全額借り入れで始めた刊行委員会の使命感の見事さもさる事ながら、6年の長丁場を我武者羅に突き進んだ編纂委員チームの情熱こそ「百三十年史」完成を齎した原動力であったと思う。

あの時「百三十年史」を我々が仕上げ得なかったならば、今日の歴史資料室の実現もなく、更にいえば、本著をかざし県当局に迫ることにより伝統校誠之館が復活し、それが今日の広島県公教育正常化成就につながる起爆剤になったと私共が信ずるほど、本著発刊に託された意義は大きい。


また森田百三十年史には誠之館につながる多くの人物像が共感を持って語られる。暫し机を並べた同窓の縁が生涯の結縁につながった多くの交友が情熱をもって語られ、誠之館百五十年は連綿とつながる人間の歴史であることを改めて教えられる。

この欄を借り、始め掛江委員会、後に森田委員会として苦闘六年に及んだ編纂委員諸氏の業績を記録に留めることにした。




「ひとめぐり」して   森田雅一 (昭和59年9月15日記)
○近況
昭和53年(1978年)3月、35年間の教職を退いた。よくまあここまで勤めさせてもらったものだという思いが一入であった。本当は、ここで万事終了悠々自適ということになれば一番いいのであるが、実情はそうもゆかず、ある先輩のお世話で、福山市教育史編纂の仕事にたずさわることになった。

よくいわれるように、現在の福山は、たしかにむかしの福山ではない。人口3〜4万の静かな城下町から、一きょに人口35〜6万の大企業城下町へ変身するとともに、人々の心も、他所者のつどう町らしく、よくいえば近代的、悪くいえば一握の砂のように、ガサツで情趣のないものになってしまった。だがこの福山が、どんなに味けない町に変貌しようとも、やはりかけがえのないわがふるさとでありその歴史を記録しておく仕事に参加させてもらうことは、余生の自分にとっては大変ありがたいことである。ただこの仕事も、内へ入ってみれば、傍目とはちがい相当困難なものであることはわかったが、時間の経過とともに、ほぼ形をととのえつつあるというのが現況である。

ところがこれにややおくれて、同じような企画が母校の方でもおこってきた。昭和58年(1983年)が、誠之館創立130周年にあたるところから、これを記念して、本格的な校史、すなわち『誠之館百三十年史』を作ろうという計画が、学校と同窓会の双方からおこったのである。これについては、両者の間でいろいろなやりとりがあったようであるが、最初は、昭和57年(1982年)の12月ころ、猪原同窓会長さんから、私に、校史編纂事業に参加してほしいというお話があった。恐らく
石井淳副会長の強いご推輓の結果にちがいないと思ったが、私はよろこんでおひきうけすることにした。もちろん、自分の非才はじゆうぶん(ママ)承知の上のことである。

誠之館のルーツ「弘道館」の創設が天明6年(1786年)、「福山誠之館」の開校が、安政2年(1855年)である。これ程の由緒ある歴史をもちながら、今までわが誠之館に、本格的な校史や史料集が作られていなかったということは、信じがたいことである。原爆の惨禍をうけたかの広島一中(現国泰寺高校)でさえ、史料湮滅の障害をのりこえて、先年立派な百年史を完成されている。わが誠之館においても、この際、本格的な校史を作り上げ、永く後世に伝える必要があるであろう。その意味でこの企画は、まことに時宜を得たものといえる。

私にとってみれば、卒業生の一人として、また現在教育史編纂にたずさわっている者として、この事業に参加させて頂くことは、この上もない名誉なことである。微力をもかえりみず、編纂委員をお受けした理由である。編纂事業は、昭和62年(1887年)の完成をめざして、学校側委員と同窓会側委員協カのもとに、目下進行しつつある。


○ある生涯---井出猪之助という人
校史編纂の仕事として、校内の諸史料を見せてもらっているうちに、大変興味をそそられるものにぶつかった、それは、明治12年(1879年)7月7日の福山中学校の開校以来、今日にいたるまでの、全職員の履歴書443通である。それぞれ、出身府県.族籍(士族、平民)・年齢・学業・職務の各欄について、丁寧な楷書の自筆でしたためてある。大体履歴書というものは、年月日・任免事項などを、せいぜい1〜2行づつ簡略に書いてあるのが普通で、とうていまとまった文章とはいいがたい。しかしこの簡潔な文字の中に、その人特有の、人生の軌跡が明らかに誌されており、とくに動乱の時代をのりきった人の履歴書を見ると、履歴事項の文字の奥に、当時の世相さえなまなましく感じ取ることができるのである。

ここに、その名を
井出猪之助とよぶ1人の人物がおられた。この先生は、明治29年(1896年)、岐阜県尋常中学校から福山尋常中学校へ帰任され、明治37年(1904年)まで教諭として在任されたのであるが、教諭退官後も嘱託として福山中学校に勤務され、大正元年(1912年)8月(67才)の解任まで、立派にそのつとめを果された人である。

さてこの人の若き日の経歴は、まことに劇的である。弘化3年(1846年)、江戸本郷西片町十番地の阿部藩邸内に生まれた氏は、まず江戸誠之館に学び、19才にして誠之館助教にあげられ、無極無辺流槍術の印可を受けたほどの俊才であった。ところが明治元年(1868年)、徳川慶喜が上野寛永寺において恭順謹慎ということになると、藩内の同志24人とともに脱藩して上野にこもり、あくまでも慶喜を守ろうとした。しかし慶喜の水戸退去とともに彼等は朝命によって藩邸に帰されることになったが、藩主
阿部正桓(あべ・まさたけ)<実際は藩の重役>は、彼等を福山に帰し、死一等を減じはしたが、蟄居閉門を命じた。さらに彼らは、明治元年(1868年)9月、福山藩の函館出兵に従軍して、その罪をつぐなうよう申し付けられた。このあたりの藩当局の処置は、まことに冷酷であり、新政府に対して阿諛(あゆ)的であったとさえいえる。さいわい井出氏は命永らえて、明治2年(1869年)6月無事凱旋することができ、同僚は皆福山に帰った中で、一人東京に止まって英学修行を志した。この時井出氏はすでに24才になっていたが、ここから新時代に則した生き方を求めてゆくのである。彼は藩の庇護のもとに、大学南校(のちの東大文学部)、つづいて東京師範学校に入学して、当時のもっとも進んだ英学および教育法を身につけた後、近畿・中部地方の師範学校長・中学校長などを歴任。その後51才のとき、母校誠之館(福山尋常中学校)の教諭として帰郷、大正4年(1915年)、本籍地福山東町250番地の自宅において、静かにその一生を終えられた。享年70才であった。

井出氏の一生を見ると、まず若き日のひたむきな漢学・武術の修行があり、その結果としての、徳川氏に対する忠節と暴走があった。これらが新時代の到来によって全く無価値になったと覚った時、一転して新知識を求めての精進努力と、中年における教育指導者としての充実した勤務があった。そして老後は、郷里に帰住して静かな余生をおくったのである。この一連の生涯は、幕末維新期から明治時代を生きぬいた平均的知識人の典型のように思えるのである。その他の諸氏の履歴書も、井出氏ほどの転変はないが、それぞれの生き方を、後人に物語っているといえよう。

要するに、人の履歴というのは、本人の資質の有無とか、平凡非凡・成功失敗という他人の評価を越えて、ある時代の人間の生き方を客観的に物語る貴重な資料である。今からさらに何十年かたった時、残るのはAとかBとかいう個人名ではなく、時代とのかかわりにおける人間の生き方が、一つの典型として残るのである。現在無名の人であるからといって、その人のあゆんだ過去がすべて無意味だと思うべきではないであろう。


○軍用列車の中で
誠之館高校に残されている履歴書の第290号は、森田雅一の差出したものであるが、そのはじめの、小学校卒業から、終戦による召集解除までの履歴事項は、つぎの通りである。
生年月日大正6年(1917年)10月14日生
本籍福山市三之丸町乙1、201番地ノ1
現住所福山市草戸町2,225番地
昭和5・3・27 福山市立西尋常高等小学校卒業
昭和10・3・3 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和15・3・9 広島高等師範学校地歴科卒業
昭和17・9・23 広島文理科大学史学科卒業
昭和17・9・30 広島県立呉第一中学校教諭二任ズ
昭和17・10・1 幹部候補生トシテ広島歩兵第十一連隊補充隊二入営ノ為休職ヲ命ズ
昭和19・7・1 陸軍少尉二任ズ予備役編入
昭和20・8・20 陸軍中尉二任ズ
昭和20・9・24 復員ニヨリ召集解除

小学校の同期卒業生は、男子52名、女子56名、計108名であったが、その中誠之館へ進学した学友はつぎの7君である。

河村芳樹・久良太郎・上元(和田)又一郎・加賀美義博・勝部赳・小林康人・森田雅一

この中、勝部・加賀美両君は、入学後間もなく、一家転住で転校し、加賀美君は今、甲府市寿町に健在である。

久良太郎君の戦死≪ニューギニアにて、昭和17年(1942年)12月25日≫の状況は、この文集中、小林康人君の筆になる「南溟の地に眠る友に捧げる」に詳細に語られている。

河村芳樹君は、早稲田卒業後、私より1期前の幹部候補生として、久留米戦車連隊に勤務していたが、昭和17年(1942年)の秋、胸膜炎を発して、福岡陸軍病院に入院した。その後、病状は一進一退、予備役に編入され、岡山県早島町の傷痍軍人療養所に移った。私とは絶えず手紙のやりとりがあったが、その中から彼の句を2,3ぬき出してみる。

   藺刈女の笠重たげに半夏生
(はんげしょう)
   キャタビラはいささか錆びて秋澄めり
   (19年8月末、病状やや重く個室に移る)
   転室に鉢の朝顔抱いて行く
   幾年の病なるらん柿みのる

このころ彼は、ついに立つことが出来ぬのを覚ったのか、自分が使うつもりで立派な軍刀仕立てにしてあった伝家の日本刀を、母堂に托して私に贈ってくれた。それ以来終戦にいたるまで、私は常にこの刀を腰に帯びて勤務した。いつも芳樹と一しょにいるつもりであった。昭和20年(1945年)2月20日、『雪国の民俗』という本を、当時八戸にいた私に送ってくれたのを最後に交信はとだえた。病状の悪化はわかっていたが、内地もほとんど戦場のようになり、どうすることもできなかった。それでも彼は頑張りつづけ、終戦の日も越えて、昭和20年(1945年)11月11日、早島療養所で息をひきとった。私にとっては、5歳の時からなれ親しんだ無二の友との永別であった。

        ×     ×     X

われわれの小・中学校時代は、明治以来の、天皇中心の国家主義教育が完成に近づいていた時期である。国定教科書にのせられた愛国的教材は、どれ程深くわれわれの頭脳にしみこんで行ったことであろう。例えば「テンノウヘイカバンザイ」(修身巻1)、「キグチコヘイハテキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」(修身巻1)、一太郎やあい(国語巻7)、「広瀬中佐」(国語巻8)、「水師営の会見」(国語巻9)などであるが、最後の仕上げが教育勅語である。校長先生の白い手袋、おごそかな口調、そして「御名御璽」の声とともに頭をあげたわれわれ小学生が、一せいにすすりあげる鼻水の音を今でも思い出す。こうした教育によって、神州不滅の神話が抵抗なく信じられるようになったのも当然である。しかし中学以上の生徒たちが、すべて滅私奉公尽忠報国の精神に徹していたかどうかはいささかうたがわしい。無論愛国の信念に燃えた人もいたにちがいないが、大部分の者が、いたし方なく国策に従っていった、いわばノンポリ的精神の者だったというのが実情ではなかったろうか(こういういい方には反対の人もおられるであろうが)。私自身も同様で、陸海軍の学校へ行く気はいっさいなく、軍事教練も、必須科目であったから、一応真面目にやったにすぎない。

昭和12年(1937年)7月7日日支事変勃発、昭和13年(1938年)4月国家総動員法公布、昭和14(1939年)年9月第二次世界大戦開始、昭和15年(1940年)紀元二六〇〇年祝賀、同年9月北部仏印に進駐と、時局はもうぬきさしならぬところへはまりこんで行った。私は学生に認められていた徴兵延期を、最大限に利用するつもりでいたが、丁度大学2年の冬にあたる昭和16年(1941年)12月8日、とうとう太平洋戦争がおこった。すでに私達の1期前の学生達から、3カ月の繰上げ卒業が実施されたが、われわれの時はその第2回目として、さらに3カ月繰り上げて、昭和17年(1942年)9月卒業ということになった。<ただしまだ徴兵延期停止ではない。「延期停止学徒出陣」は昭和18年(1943年)10月からである。>
 ほとんどの者が卒業と同時に入営である。昭和17年(1942年)10月1日、広島の西部二部隊(歩兵第11連隊補充隊)へ入営した私たちは、内務班の古兵達から、「おい、10月初年生。ここは“地方”の学校たぁちがうんで。メンコ(食器)の数だけが物をいうんじゃ。」とどなられながら、容赦なく皮スリッパのビンタをくらった。不寝番に立って、寒天の星を見上げながら、こんな生活がいつまで続くのかという感慨にかられた。要するに、今は仮のくらしである。1日も早く本当の生活に帰りたいというのが毎日の願いであった。

入営後半年すぎて、ようやく甲種幹部候補生に合格し、昭和18年(1943年)4月1日、久留米第1陸軍予備士官学校に分遣された。久留米高良台でのはげしい訓練は8カ月つづいて、その年の12月26日、予備士校卒業と同時に見習士官を命ぜられた。さあこれから将校として原隊復帰だなと思っていたら、卒業生の半分以上は航空軍へ転科だという。私もその1人であったが、一体今まで何の為に歩兵の戦闘訓練をしてきたのかと腹をたてながらも、こんな無駄なことをするところを見ると、日本の旗色も大分悪くなったのだなとさとるところがあった。転属命令によって、行く先は、第2航空軍満州第800部隊ときまった。年の瀬もせまった昭和18年(1943年)12月28日、福岡へ集結してみると、新品見習士官ばかりで約800人ほどの大部隊となっていた。タ刻、関釜連絡船昌慶丸にのりこみ、そのまま船中で夜をあかした。翌29日、日中に対馬海峡をわたって夕刻釜山につき、直ちに10輌編成の軍用列車にのりこんだ。この大集団に、指揮官がいるのかいないのかよくわからなかったが、夜11時ごろ、ようやく列車は動き出した。どこで、どれだけ停車するのかさっばりわからぬ不定期運行であったが、大邸・大田・天安といった駅で弁当がつみこまれるので、飢える心配はない上に、学生出身の見習士官ばかりなので、車中はまるで修学旅行のようなにぎやかな雰囲気であった。

京城駅で1人の准尉がのりこんできた。私はたまたま彼の車中での作業をそばで見ていたが、その左手には、全満に展開している第2航空軍隷下の全部隊編成表を、また右手には、この列車にのっている全見習士官の連名簿をもっていた。左の表を見ては、右の連名簿の人数を数え、何人目かのところを赤線で区切る。また左の表を見ては、右の名簿に赤線を引く。この作業をえんえんとして続け、全員をどこかの部隊に割り当てた。個人個人の経歴、能力、適性、希望などの要素は、露ほども考慮されない全くの器械的作業であった。1部隊あたり多くて20名、少くて5〜6名ぐらいであったと思うが、彼はこれを第1車輌から順次発表して歩いた。「おや、また一しょか」とか、「とうとうお別れだな」と友達同志笑いあったが、これが1年半後に思いもよらぬ結果となってあらわれたのである。ソ満国境の飛行場大隊附となった者は、昭和20年(1945年)8月8日以降のソ連侵入によって、ある者は戦死し、ある者は捕虜となってシベリアへ連れ去られるという悲惨な運命をたどる一方、私などのように、気象連隊附通信将校となった者は、こんな者はとても使いものにならぬというので、ふたたび内地へ送り返され、再教育を受けた。私たち数10名は、仙台飛行学校へ送還され、そのまま内地に残って、命を永らえることができた。

戦争とか軍隊とかというものは、みなこんなものかも知れないが、みずからの意志をもって行路を打通し得ない他律的な強制力を「運命」というのであれば、この軍用列車中の部隊割り当て作業こそ、まさに非情な「運命」の触手であったといえよう。

昭和19年(1944年)12月24日、仙台陸軍飛行学校通信科を卒業して、中央航空路部隊に転属を命ぜられ、八戸飛行場展開部隊の隊長として赴任した。下士官以下部下50名ほどの、おもちゃのような部隊であったが、バス1台・トラック5台・給油車5台をもち、立派な送信所をそなえた独立部隊である。来る日も来る日も雪空をにらんでは滑走路の雪かき作業の援助を頼んでまわり、自分でも汗を流した。そして最終的には、8ヶ月の生活を共にしたこの隊の諸君とともに、帝国陸軍の解散式をあげることになったのである。

忘れられぬのは、わが隊で独自に養成した少年通信士5名のことである。能代市などで募集した高等小学校卒業前の、まだ声がわりもしていないかわいい少年たちが、昭和20年(1945年)1月、八戸隊へ送ってこられた。この隊で自由に教育して一人前の通信士にし、引続きこの隊で勤務させよという指示で、身分は軍属であった。私はまず3ヶ月位のカリキュラムを作った。通信実技・暗号・気象などは、それぞれ専門の兵をつけて指導させ、私は精神訓話や生活指導をうけもった。訓話といっても、お定まりの軍人勅諭などではなく、高村光太郎の詩や、茂吉の短歌などを読んでやったように思う。勉強の合間には、子供達にスキーをはかせ、近くの山へつれ出した、さすがに北国の子供である。実にうれしそうに、あざやかに、夢中になってすべりまくった。2カ月ほどで、本ものの通信兵のそばにすわらせ、定時通信を交信させたが、もう立派に役に立った。終戦の放送があってから数日後、子供達に毛布や米をもたせて、一人一人の家まで准尉に送りとどけさせた。それから今日まで38年、彼等とのつき合いはずっとつづいている。彼らは今でも、私のことを「隊長どの」と呼び、毎年かかさずリンゴ一箱を送ってくれる。索莫とした私の軍隊生活の中で、たった一つのあたたかくたのしい思い出である。


○教員生活
復員後1カ月位して、母校誠之館をたずねた。石井教頭先生、岡田・和田・鍬本・花田など恩師諸先生はみなご健在であった。「今どうしとるか。」「何もせず百姓の手伝いをしております。」「そんなら誠之館へ来てみんか。」「そんな簡単にいくもんでしょうか。」「大丈夫だと思う。福間典海校長先生に話してみてやろう。」石井先生はこういわれた。校長先生はさいわい私を覚えていて下さって、気持よく母校への転勤の手続きをして下さった。本当に有難い思師の先生方であった。私の実質的な教員生活はここからはじまった。それから昭和53年(1978年)3月31日までの合計35年6カ月間はすべて県内勤務で、つぎの7校のお世話になった。
県立呉一中 <昭和17年(1942年)9月30日〜>
福山誠之館中(高)校 <昭和20年(1945年)11月20日〜>
広島基町高校 <昭和24年(1949年)4月30日〜>
尾道東高校 <昭和40年(1965年)4月1日〜>
海田高校 <昭和45年(1970年)4月1日〜>
白木高校 <昭和46年(1971年)4月1日〜>
安芸高校 <昭和49年1974年)1月1日〜昭和53年(1978年)3月31日>

白木高・安芸高では、校長であったので授業をさせてもらえなかったが、その他の学校では、日本史だけでなく、社会科すべての授業を受持った。最近は、授業時間週18時間以上というのは絶無らしいが、私の若い頃は、週20時間以上というのは普通のことであった。クラス生徒数も55名の時代が相当長くつづいた。私は、授業時間数が多いのは少しも苦にならなかった。それだけ多くの生徒諸君に話しかけられると思ったからである。

永く教師を続けたといっても、とくに生徒諸君に伝えたい人生観や信念があったわけでは決してない。私自身は、平凡に歴史を学び、かつ書物を読んできた一学徒にすぎず、その知識をできるだけわかりやすく生徒に伝えたい、それによって生徒に知的好奇心をおこさせたい、教養獲得の習憤をつけさせたい、そんなことを思いつつ、大声をはりあげ授業をしてきたまでのことである。恐らく生徒諸君にとっては大変迷惑なことであったにちがいない。

教員生活も終りに近づいたころ、私はつぎのよう感想を抱くようになった。

その一つは、生徒諸君の学習態度が年とともに甘くなってきたことである。受験戦争の圧力も、放棄してしまえば、いっそサバサバして気楽である。生活はゆたかで、遊んでいても結構生きてゆけそうである。こんな時代が学習のきびしさを奪ってしまったといえるのかも知れない。教育というものの目的の一つが、民族の文化遺産を次代に伝え、さらに発展させて行くことにあるとすれば、学習には本来きびしさがつきものである。このきびしさが失われた日本の教育は、湯の中の砂糖の如く、あとかたもなく融け去って、民族の将来はまことに悲観的である。しからばそのきびしさを、むかしにかえすには、一体どんな方策があるだろうか。私にはその処方箋を作ることなど到底できない。ただ思いつきの一つをいえば、迂遠のようだが、真剣に文化財としての教材にとりくみ、身体を通してこれを理解さすことではあるまいか。そこから学ぶことのきびしさとたのしさが生まれて来るであろう。その産婆役を果すのは、何といっても教師の捨身の努力と指導力である。

その二つは、もっと根本的本源的な問題である。それは生徒のみならず、勿論私をも含めて、ほとんどの日本人が精神的なよりどころを持っていないということである。われわれは、最終的に何を目ざして生きるのか。教育面でみるならば、荒れる学校と非行生徒、価値の多様化と称する放縦な文化現象、これらはみな、たよるべき支柱を本来持っていない日本人の精神的欠陥によるものと思う。この「よるべなき精神」に、何か確固たる「よりどころ」を与えるには一体どうしたらいいのか。ストレイ=シープの1匹にすぎぬ私に、その答えがあろうはずがない。ただ、無責任な予想としては、いつの日かはわからぬが、恐らくは、物質的豊饒さのはてにおこってくる、とめどない混乱と破滅のなかから、何か宗教ともいえる統一理念が、自然に生れてくるのではなかろうかと思うだけである。
        ×     ×     X
卒業後茫々50年。今思えば、「上り」もない「人生すごろく」を一めぐりして、ふたたびふり出しへもどって来たような心境である。今日までよく生きて来れたと思うが、その大きなささえとなったのは、同期のきずな「抱十会」であり、母校誠之館であった。老兵は死なずというが、先に逝ったあの君この君と来世で再会する日まで、十方諸友への感謝をこめて、一日一日を心安らかにすごしたいと思っている。   
(出典1)


森 田 文 庫   森田雅一氏からの寄贈です
管理 書   籍   名 編  著  者
02916 『大日本古文書(全41巻)≪復刻版≫』 東京大学資料編纂所
02915 『国史大辞典(全17巻)』 国史大辞典編集委員会
02938 『大日本近世資料柳営補任(全8巻)≪復刻版≫』 東京大学資料編纂所
02939 『大日本近世資料 近藤重蔵 蝦夷地関連資料1〜3』 東京大学資料編纂所
02940 『シーボルト日本1〜5、図1〜3』 シーボルト(中井晶夫訳)
02914 『アジア歴史事典(全12巻)』 下中邦彦編
02917 『水野忠精幕末老中日記(全9巻)』 水野忠精著
02924 『江戸幕府役職武鑑編年集成 25〜36』 深井雅海・藤實久美子編
02919 『通航一覧 第七〜第八』 早川純三郎編
02919 『通航一覧續輯 第一〜第五』 早川純三郎編
02925 『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』 河内八郎編
02928 『江戸武家名鑑集成 文化武鑑1〜2、索引上下』 石井良助監修
02926 『北槎聞略(亀井高孝校訂)』 桂川甫周編著
02927 『福山五百年史(北海道福山町)』 福山教育会
02922 『文政武鑑1〜4』 石井良助監修
02920 『北方史のなかの近世日本』 菊池勇夫著
02921 『日本災異志』 小鹿島果編
02918 『アイヌ史 資料編1〜4』 北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会
02931 『北海道史第3巻、4、6、7』 北海道庁
02932 『北海道農業発達史(上・下)』 北海道立総合経済研究所編
02933 『小樽市史第一巻〜第六巻』 小樽市編
02934 『松前町史(全4巻)』 松前町史編集室
02935 『江差町史第二巻 資料二』 江差町史編集室
02935 『江差町史第五巻 通説一』 江差町史編集室
02923 『白糠町史(上・下)』 白糠町史編集委員会
02936 『増補 千歳市史』 千歳市史編さん委員会
02937 『日本教育史資料(全九巻)』 文部省編
02930 『明治維新人名辞典』 日本歴史学会


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02158 森田雅一 著 『福山市引野町学校教育史』 昭和61年
04583 森田雅一 著 『関藤藤陰小傳』(高梁川第48号・コピー) 平成2年
02060 森田雅一 著
福山誠之館同窓会 編
「学校教練の思い出」
『懐古−誠之館時代の思い出−』、160頁
福山誠之館同窓会 昭和58年
02042 福山誠之館抱十会 編 「“ひとめぐり”して」
『回想五十年(福山誠之館昭和十年卒業生記念誌) 』、175頁
福山誠之館抱十会 昭和60年
04519 福山誠之館同窓会 編 『誠之館百三十年史』 福山誠之館同窓会 昭和63年
平成元年
03363 福山医師会 編 アルバム「福山医学黎明の時代 福山市医師会の淵源と発展」 福山医師会 平成元年
03364 福山医師会 編 ビデオ「福山医学黎明の時代 福山市医師会の淵源と発展」 福山医師会 平成元年
05226 広島県教育委員会編 『広島県教育委員会六十年の歩み』、459頁 (株)ぎょうせい 平成20年


出典1:『回想五十年(福山誠之館昭和十年卒業生記念誌) 』、175頁、「“ひとめぐり”して」、森田雅一、福山誠之館抱十会編刊、昭和60年10月26日
出典2:『懐古−誠之館時代の思い出−』、160頁、「学校教練の思い出」、森田雅一、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日
出典3:『広島県教育委員会六十年の歩み』、459頁、広島県教育委員会編、(株)ぎょうせい刊、平成20年11月1日
2004年11月1日更新:経歴●2005年4月11日更新:本文●2005年6月27日更新:肩書●2005年11月22日更新:経歴●2006年4月6日更新:タイトル●2006年4月10日更新:写真●2006年6月29日更新:所蔵本(森田文庫)●2007年1月11日更新:所蔵品●2007年8月22日更新:本文・関連情報・関係資料●2008年8月14日更新:経歴・本文・関連情報削除●2008年12月12日更新:経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●2011年8月18日更新:本文・誠之館所蔵品●