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守田寶丹薬舗の経営者 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
生:天保12年(1841年)7月31日(6月説もある)、江戸生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
没:大正元年(1912年)10月18日、享年72歳、浅草幡随院に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
守田治兵衛(9代目)は、諱を祐孝(すけたか)、隠居後は静松園・長禄翁と号した。また守田宝丹とも自称している。つまり宝丹というのは、治兵衛の別号であり、また上野池之端仲町の「守田寶丹」という薬舗の屋号であり、また扱っていた商品名でもあった。 祖先は甲斐国で武田信玄の勇将であった山本晴幸から出たと言われているが、初代守田治兵衛は、摂津国(現大阪市住吉区我孫子)より、延宝8年(1680年)に江戸に出て、江戸最古の薬舗を開いたもので、13代目(守田敬太郎氏)が現在も営業を続けている。 商品としての宝丹(寶丹)は、9代目が文久2年(1862年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようだ。9代目治兵衛は、商品としての「宝丹」を明治新政府に申請し、第1号公認薬として認可された。また9代目治兵衛は、宝丹の販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・引札(ちらし)などを活用した。また歌舞伎の役者や落語家に「宝丹」のセリフを言わせたり、売上の一部を奉公人にまで配ったり、そのユニークな言動は広く知られていた。 誠之館同窓会に守田治兵衛から江木写真館宛の2通の手紙がある(明治41年、明治43年)。江木写真館との関係はよく分からないが、やり取りの書簡の日付(明治41年)や内容などから、江木鰐水の孫になる江木定男(当時24歳)との交流と思われる。 古泉(古銭)の蒐集家でも高名であり、同好の士として成島柳北との付き合いがあった。成島柳北の死後、柳北の古泉はすべて治兵衛のものとなったという。古銭関連の書籍(3冊)も同窓会で所蔵している。 また守田治兵衛は、当時流行の鼓笛入りオルゴールを秘蔵していたという。 大正元年(1912年)10月18日に没、享年72歳。浅草幡随院に葬る。 三村敏征(昭和38年卒) |
誠之館所蔵品 | |||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 発行所 | 日付 | コ メ ン ト |
00235 | 守田治兵衛 差出 | 江木写真館宛書簡−1 | − | 明治41年 | − |
03522 | 守田治兵衛 差出 | 江木写真館宛書簡−2 | − | 明治43年 | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
00820 | 成島柳北 著 | 『明治新撰泉譜第一集』 | − | 明治15年 | 古泉蒐集家盛田治兵衛の名が見える |
00821 | 成島柳北 著 | 『明治新撰泉譜第二集』 | − | 明治18年 | 古泉蒐集家盛田治兵衛の名が見える |
00822 | 守田宝丹(守田治兵衛) 著 | 『明治新撰泉譜第三集』 | − | 明治22年 | − |
出典1:『2010年特別展 瀬戸内の港町ゆかりの看板・引札展〜ユニークで滑稽な広告文化〜』、64頁、福山市鞆の浦歴史民俗資料館編刊、2010年10月15日 出典2:『日本電報』、31頁、「日本広告史前期の巨人 守田治兵衛小傳 広告界巨人傳の四」、奥山儀八郎、日本電報通信社刊、昭和16年5月15日号 出典3:『明治東京畸人傳』、24頁、「池之端仲町二十七番地守田宝丹翁事跡」、森まゆみ著、新潮社刊、平成8年1月25日 |
2005年6月27日更新:レイアウト●2005年11月8日更新:インデックス●2005年11月10日更新:自画像・所蔵品へのリンク●2005年12月14日更新:所蔵品●2006年4月4日更新:タイトル・経歴・本文・出典●2006年12月18日更新:本文・出典●2008年1月18日更新:氏名・経歴・本文●2008年7月7日更新:誠之館所蔵品●2009年3月16日更新:誠之館所蔵品●2010年4月20日更新:写真コメント●2010年10月25日更新:写真・経歴・本文・出典● |