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藩校誠之館教授、福山師範学校教員、福山誠之館教師、門田朴斎の二男 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:天保2年(1831年)6月11日、東京本郷丸山邸生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:大正4年(1915年)9月20日、享年85歳、木之庄墓地に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
生い立ちと学業 門田重長氏は、天保2年(1831年)6月11日、門田朴斎(堯佐)の二男として、江戸本郷丸山邸で生まれ、保二、幼名を二郎太、諱は重長、号を温斎、のち杉東(さんとう)といった。幼時から、父および斎藤竹堂・藤森弘庵・安積艮斎(あさか・ごんさい)などに漢学および詩文を、江木鰐水に兵学を、鈴木重胤・松本良遠に皇学を学び、書道は、名手のきこえ高かった小島五一(成斎)についた。 業績 嘉永元年(1848年)≪18歳≫、江戸学問所文学助教として初出仕したが、安政元年(1854年)、父に随って福山に帰り、安政5年(1858年)儒者見習、文久2年(1862年)父のあとをついで誠之館文学教授となった(32歳)。明治に入り、福山藩、続いて福山県の少属などをつとめたが、廃藩置県が実施されるに及んで、明治5年(1872年)3月、自然退官となった。その後、鞆町沼名前神社宮司・備中吉備津神社禰宜などをつとめたが、無論これは本来の志ではなかった。明治9年(1876年)6月、旧誠之館校舎を転用して公立師範学校分校が設立されることとなった時、氏は明治10年(1877年)2月、その教員となることができた。さらに明治12年(1879年)7月、福山中学校の創設とともに引き続きその教師となり、以後、明治14年(1881年)、福山中学校三等教諭、明治18年(1885年)漢文科教員免許状授与、明治20年(1887年)からの尋常中学時代、明治32年(1899年)からの県立中学校時代を通じ、あるいは漢文・修身・習字の授業によって、あるいは学校諸行事の間のふれあいによって、ただ一筋に郷土の子弟教育に献身した。 明治40年(1907年)は、嘉永元年(1848年)の文学助教就任以来60年目にあたり、その間明治初年の非教職時代10年を除いて教職にあること正に50年である。そこで、氏の喜寿の祝いとともに、「門田先生五十年勤続祝賀会」が、氏の弟子達によって挙行されたのである。記念品は金側懐中時計(代価290円73銭)と先生の肖像画2面(内1面は学校へ寄贈)であった。明治44年(1911年)4月29日、教諭を退職した後も、なお嘱託教師として教壇にあったが、大正元年(1812年)8月24日、82歳をもってすべての教職を退いた。公立師範(福山)分校奉職から数えれば35年7カ月の教職生活であった。 漢学者「門田杉東」 門田教諭は、漢学においては、父朴斎の奉じた朱子学の道をはずれることなく祖述するという途をあゆみ、また漢詩や和歌をよくして多くの作品をものし、その一端は、校友会誌「誠之」寄稿作品欄に残されている。書道ははじめ唐の顔真卿の書風下にあったが、のち同じ唐の柳公権の筆法に傾倒するに至った。しかしそれは揮毫の場合で、生徒の指導は、もっばら三体千字文の楷行草書を半紙に書かせて筆法を直された。ただ3年のときのみ、和歌のかな文字であった。習字の清書へは点数をつけず、1枚1枚生徒の前へ行って手渡される。最初にもらったものが不可、最後にもらったものが最優秀らしいということは次第にわかるが、心やさしい採点法であった(鳥山進「温故知新」、『懐古』所載)。 大正時代初期までの卒業生は、全員先生の教えをうけていたため、その回想の中には、かならず先生の正に古武士の如き風貌がいきいきと語られている。先生は年中、羊羹色の紋付羽織によれよれの袴という姿で、首には懐中時計(当時金側の懐中時計を持っていたのは、校長と門田教諭の2人のみ)の長い紐をかけて出勤される。教壇に立たれると必ず、「サアおじぎじゃ、おじぎじゃ。ヘーアー」といって生徒と礼を交される。この紋付については明治末年、有名な事件がおこった。2年生のあるいたずらな生徒が習字の時間中、先生の背中の定紋に墨を塗った為、先生のはげしい怒りを買った。この生徒を退学させるかさもなくば自分が辞職するという所まで問題が発展してゆき、遂にその生徒は退学処分を受けた(渡辺勝美「明治末期の福中懐古」、『懐古』所載)。これらは一面飄逸、一面厳格なその人柄をよく物語っている。 先生の授業では、修身科としては論語を、漢文科としては『日本外史』・『文章軌範』・『皇朝史略』・『十八史略』・『通鑑綱目』等を教えられた。生徒の感想の中には、教え方が藩校時代のような素読式でふるくさい、入学試験には役立たぬというものもあったが、後の文部大臣森戸辰男氏(明治40年卒)が、その回想の中で、「門田重長という方は、当時すでに高齢であったが、その気骨のある風貌は今も忘れられない。・・・門田先生やその他の先生方から、私は、東洋的な、人間世界を広く把握する発想を教えられた。」(森戸辰男「誠之館の思い出」、『懐古』所収)と述べているのは、まさに、「藩校誠之館文学教授門田先生」の真髄を伝えるにふさわしいことばである。 退職後3年目の大正4年(1915年)9月20日、脳溢血によって永眠、享年85歳であった。一生を誠之館にささげ、誠之の精神を後進に伝えることを生涯の使命とされた碩儒の最期であった。城北木之庄墓地に葬る。なお「杉東」(さんとう)という先生の雅号は、その住いが、西霞町から鞆街道へまがる四つ辻にそびえていた「大杉」の東にあったためにつけられたものである。「大杉」の梢を吹き抜ける薫風にも似た、先生の清冽な気性にふさわしい号である。(自筆履歴書、「福山文学」所載門田新六撰「杉東重長大兄行状」等による)。 撰文と揮毫 明治17年(1884年)4月、福山市神島町に建つ「胡橋碑」に撰文し、揮毫した。 明治31年(1898年)、福山草戸町半坂に応来者(おっしょきたり、本名:小林文四郎)の「応来者句碑」を揮毫した。 明治33年(1900年)9月、福山市曙町塩崎神社に建つ「新涯村墾田紀功碑」を揮毫した。合わせて塩崎神社注連柱に揮毫した。 また、明治42年(1909年)4月、福山市草戸町の八幡神社に建つ「六平子彰功碑」に撰文し揮毫した。 |
誠之館所蔵品 | |||||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 | |||
00003 | 門田重長 函書 | 「孔子銅像」 | − | 明治16年 | |||
00065 | 門田重長 書 | 七言律詩「紅袖幾多」 | − | 明治29年 | |||
00099 | 門田重長 書 | 書「草書千字文」 | − | 明治40年 | |||
00237 | 門田重長 書 | 書「荘継箕裘在家園」 | − | 明治40年 | |||
00238 | 門田重長 書 | 書「三十有余年」 | − | 明治44年 | |||
00066 | 門田重長 書 | 感懐「靜者安」 | − | 明治44年 | |||
05352 | 門田重長 書 | 七言絶句「馬歯今年」 | − | 明治44年 | |||
05351 | 門田重長 書 | 書「流水不腐戸樞不蠹」 | − | 明治44年ごろ | |||
05118 | 門田重長 書 | 扇面「蟹図 無腸能郭索」 | − | − | |||
07104 | 門田重長 書 | 「藤陰先生軸箱書表蓋」 | − | − | |||
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00258 | 門田重長 編 | 『朴斎先生詩鈔(初編)』 | 西備蘭交社 | 慶応3年 | |||
00259 | 門田重長 編 | 『朴斎先生詩鈔(二編)』 | 西備鶴亭 | 明治元年 | |||
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | |||
05236 |
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『千字文』 | 岩波書店 | 平成9年 | |||
06736 | 門田誠一郎 編 | 『門田朴齋「朴齋先生詩鈔」詳解初編』 | 吉備人出版 | 平成23年 | |||
06737 | 門田誠一郎 編 | 『門田朴齋「朴齋先生詩鈔」詳解二編』 | 吉備人出版 | 平成23年 |
出典1:『誠之館百三十年史(上巻)』、740・741頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典2:『福山藩の教育と沿革史』、164頁、清水久人著、鷹の羽会本部阿部正弘公顕彰会編刊、1999年8月20日 出典3:『懐古 誠之館時代の思い出』、20頁、「温故知新」、鳥山進、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典4:『近世後期の福山藩の学問と文芸』、93頁、福山市立福山城博物館編刊、1996年4月6日 出典5:『誠之館記念館所蔵品図録』、69頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典6:『福山の今昔』、178頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日 出典7:『福山文化財シリーズ 福山の碑』、21頁、「応来者句碑」、三上勝康著、福山市文化財協会編刊、昭和50年11月10日 出典8:『福山の碑』、106頁、「胡橋の碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日 出典9:『福山の碑』、109頁、「墾田紀功碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日 出典10:『福山いしぶみ散歩』、28頁、「半坂の道しるべ」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1993年5月12日 出典11:『新編「福山いしぶみ散歩」』、88頁、「小林六平」、佐野恒男著、福山市文化財協会編、1996年9月1日 出典12:『新涯開発百年史』、190頁、藤井正夫著、門田武雄刊、昭和42年11月20日 |
2004年10月20日更新:経歴●2004年10月21日更新:同窓会所蔵品●2005年2月28日更新:所蔵品●2005年3月14日更新:出典・関連情報●2005年3月15日更新:本文●2005年4月8日更新:本文、出典●2006年6月29日更新:タイトル、所蔵品●2007年10月4日更新:関連情報●2007年11月21日更新:本文、関連情報削除●2008年8月14日更新:経歴、本文、誠之館所蔵品●2008年9月29日更新:誠之館所蔵品●2009年2月3日更新:本文●2009年2月3日更新:誠之館所蔵品●2009年6月5日更新:誠之館所蔵品●2009年12月6日更新:誠之館所蔵品●2010年4月2日更新:出典●2011年8月5日更新:誠之館所蔵品●2012年2月27日更新:本文・出典●2012年2月29日更新:本文●2012年3月8日更新:本文・出典●2012年3月9日更新:本文・出典●2012年3月27日更新:本文・出典●2014年7月19日更新:誠之館所蔵品●2015年4月11日更新:誠之館所蔵品●2015年7月8日更新:誠之館所蔵品● |