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福山誠之館同窓会副会長、三吉酒造場社長 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治41年(1908年)8月11日、広島県深安郡神辺町大字下竹田(現福山市神辺町大字下竹田)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成12年(2000年)11月18日、享年93歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
明治41年(1908年)、三吉直右衛門(第2代)の長男として、広島県深安郡神辺町大字下竹田(現福山市神辺町大字下竹田)に生れる。幼名は學。 昭和2年(1927年)福山中学校(誠之館)を卒業後、大阪高等工業学校専門部醸造科(昭和4年大阪工業大学専門部醸造科に昇格、現大阪大学工学部)に入学、昭和5年(1930年)同校を卒業した。 卒業直後の昭和5年(1930年)5月、父親の三吉直右衛門(第2代)の死亡により三吉直右衛門を襲名すると同時に、銘酒ミヨシ正宗をつくる株式会社三吉酒造場社長に就任した。 当時三吉酒造場には神辺町下竹田に竹田工場があったが、交通が不便なために、昭和8年(1933年)竹田工場を福山工場へ統合し、本社も福山工場のある福山市三吉町に移した。 追って昭和8年(1933年)、弟の三吉誠も広島高等工業学校醸造科を卒業し、直ちに三吉酒造場に入社、副社長として社長と共に手を取り合って社業発展に力を尽くした。 その後日本は第二次世界大戦へとのめり込んでいく。 三吉酒造場も政府の大陸政策に合わせて、中支の江蘇省常州で清酒製造の新会社を起こしたが、敗戦と共に消滅した。 昭和20年(1945年)8月8日福山市の空襲により、三吉町の本社工場は灰燼に帰した。 当時社長の三代目直右衛門は、応召して比島より中支に転戦のため不在で、副社長を中心に神辺町の休止蔵を借り受け、その蔵を急遽整備して操業を続けた。 同時に福山工場の復旧を急ぎ、昭和22年(1947年)の秋に操業を再開した。 社長は、昭和21年(1946年)春に復員して社業に復帰したが、以後特に工学研究に力を注ぎ、酒造米の蒸きょう装置の発明、酒の濾過装置の改良など酒造業界に大きな貢献をした。 その他に共栄運輸倉庫株式会社、福山メールサービス株式会社各社長を歴任し、また業界活動として、県酒造組合支部長、福山種類販売協同組合理事長等の要職を歴任した。 本業の他には、昭和8年(1933年)に竹尋郵便局を創設し初代局長に就任、また昭和37年(1962年)発足した福山葦陽ライオンズクラブでは初代会長を務め、昭和41年(1966年)4月からは、福山誠之館同窓会副会長も務めた。 昭和49年(1974年)には、社長長男和重が専務として入社、酒の醸造に最適な水と空気を求めて工場の移転を計画し、昭和58年(1983年)11月、福山市箕島町茶山に工場を建設、移転した。 昭和59年(1984年)11月には、社長業を長男に譲り会長に就任した。 昭和15年(1940年)勲六等瑞宝章。昭和38年(1963年)紺綬褒章。 (鍋島喜八郎、昭和28年卒) |
出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』備後文化出版社、昭和34年9月 出典2:『輝く生命(bP)』昭和2年卒業福山誠之館同窓会、昭和43年5月19日 出典3:『皇紀二千六百年記念誌 興亜日本建国史』、361頁、日本同盟通信社編刊、昭和15年11月20日 |
2004年10月29日更新:経歴●2006年3月2日更新:経歴・本文(深安郡→福山市)●2006年5月30日更新:タイトル・連絡先(削除)●2008年9月18日更新:経歴・出典● |