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書 家 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正元年(1912年)9月25日、広島県沼隈郡赤坂村(現福山市赤坂町赤坂)生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成14年(2002年)10月7日、享年91歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
宮本竹逕は現代のかなの発展に大きな業績を残し、ドラマチックな生涯を送って、平成14年10月7日に90歳で亡くなった。書壇へのデビューは、戦前に文検に合格してかな作家の道を歩みだし、昭和25年にそれまで誰も注目しなかった関戸本古今集を研究し、この倣書風の小字がなで日展の特選を受賞したことに始まる。当時は尾上柴舟の推す和漢朗詠集風の全盛期であり、竹逕のこの斬新さが注目された。 ふくやま書道美術館に多くの作品が収蔵されている。 |
「只一筋に」 宮本顕一(雅号竹逕) |
赤坂小学校を卒業して、三ヶ村立の済美高等小学校に入学した。他は二年制であるのに、これは珍らしく三年制であった。 校長先生は、北村最という気骨のある先生であった。朝礼の時「君等はこれから多難な人生を歩むことになるが、よいことがあると馬鹿みたいによろこび、反対に、悪いことがあると、不平をこぼして落胆してしまうのが多いが、それは人間の屑だ。人間は常に希望をもち、只一つでよいから、誰にも負けないものを、努力して掴むことだ。迷ってはいけない。只一筋に進まねばならない。」と、言葉は違うが、同じ意味のことを常に聞かされていた。 高等小学校が三年制であったので、皆より一年おくれて、師範学校の一部へ入学した。当時の師範学校は、全員寄宿舎に入れ、月謝は勿論とらないし、小遣いまでくれる制度になっており、貧乏人の子供にとっては、正しく楽園という所である。 福山師範学校の校長は、片山昇という先生であり、前述の北村先生と同じ様なことを言われた。「君等は卒業して、子供の教育をするのだ。人を導くということはむづかしいことで、在学中、勉学のことは勿論であるが、精神の支えになるものをしっかり身につけておかねばならない。そのためには何でもよいから、人に負けないものを一つ持て。その為には大きな努力が為されねばならない。この大きなものを一つ得れば、精神の支えにもなり、人生を歩む大きな自信となる。それがないと教員になってから子供を導いて行けない。教育は人を育てることだ。」と。 今七十歳になって、自分の歩んで来た道をふり返って見ると、この両先生の教訓が、大きな柱となっていたことに気付く。 人間というもの兎角弱いものである。「三日坊主」ということがある様に、大決心をして事をはじめても、すぐに挫折する。続かないのである。この挫折しそうになった時に、支えてくれるのが受けた教訓であり、人間の意志である。 永い人生の間には、逆境に立たされることもあるだろう。その様な時には、弱い人間は沈んでしまう。反対に一つを貫こうとする強固な意志力のある以上、その人は沈まない。どの様にしてでも、初志を貫徹すべく努力する。その努力は必ず効を奏して、以前にも増して意義のある生き方が出来る様になる。 私は、今、改めて、この大きな指針を与えて下さった北村、片山両先生に感謝するものである。 師範学校を卒業して隣村の学校に奉職した。その二年間に考えたことは、都会に出て行っての仕事がして見たいということであった。確たる自信があった訳ではないが、何かやろうと考えている者にとっては、田舎は余りにも刺激がなさ過ぎた。 そして、大阪に出て、昭和十四年に、文検に合格して、愈々「書」の本格的な勉強をはじめた。 私は日本人のつくった「かな」を勉強しようとし、平安朝時代に書かれた立派な書(古典として尊重している)を習った。勿論印刷物を手本として習うのであるが、安い印刷物しか買えないので、肝腎な所がよく見えない所が多い。私は、その古典の中から「関戸本古今集」というのを習った。然し印刷が悪いので大事な所が見えない。人に聞くと、コロタイプ印刷にしたのがあるが、それは実に鮮明だという。ところがこれは金二十円也とある。月給五十円の者にとっては高嶺の花だ。 当時東京に、東方書道会があり、展覧会を開いていた。関西の連中も多く出品していたので、私も出品した。そして、賞の中で一番下の「褒状」という賞になった。この時上京したのを機会に、夢にまで見た、関戸本のコロタイプ版を、金二十円出して買って帰った。そして帙の内側に、「昭和十六年六月、東方展に入賞して購入」と記した。まさしく清水の舞台から飛び下りる気持で買ったのである。 五十円の月給取りが二十円の本を買ったことによって、竹逕(私の雅号)の書業はのびた様に思う。今迄分からなかったことが、ドンドン分かる様になった。 その関戸本は今も、竹逕の机上にある。帙は破れてはいるが、書は厳然として机上にあり、竹逕の事業を見てくれている様である。 戦時中は疎開していたが、終戦後また大阪へもどった。 その頃は、書道人の間にも知り合いも多くなっていたこともあり、関西人の会を造ろうということで、辻本史邑という大先輩の指揮によって、現在の、社団法人日本書芸院が誕生した。そして、二十三年、書が、日展五科として参加することになった。吾々にとってよろこびの連続であった。 二十三年には入選した。そして二十四年には落選。捲土重来を期しての二十五年に特選となった。目まぐるしい変化である。 この時の審査主任は尾上柴舟先生であった。後から聞いた話であるが、先生が竹逕の作品(帖)をもって、「これはよい」と言っておられたとか。実は尾上先生は、「宮本竹逕」という者は御存じなかった筈である。全然知らない者の作品でも、よいものはよいとされた先生のお気持ちは、今にして思えば、審査の鑑と言ってよいと思う。よいものをよいとする。まさしく当然なことであるが、その当然なことが立派だと言いたいのである。 結果から見ると、これは、竹逕という人間に、書道界への大きな足がかりをつけて下さったことである。昭和五十七年、東京で「帖」の個展を開催した時、「つけすてし野火の畑のあかあかと、もえゆく頃ぞ山はかなしき」という尾上先生の御歌を揮毫して額にして、御子様の尾上富美子様に差し上げた。三十年以上も経って、御恩の万一を報じさせていただいた次第である。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00333 | 村上三島 書 宮本竹逕 書 |
巻子「修道」 | − | 昭和25年 |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
06451 | 中村輝雄編 | 『青少年へ贈る言葉 わが人生論 広島編(上)』 | 文教図書出版(株) | 昭和58年 |
探しています | |||
氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
宮本竹逕 著 | 『宮本竹逕書法現代日本書法集成』 | 尚学図書 | 1977年 |
宮本竹逕 著 | 『入門毎日書道講座5』(共著) | 毎日新聞社 | 1977年 |
宮本竹逕 著 | 『宮本竹逕書作展 民謡を主題に(図録)』 | 寒玉書道会 | 1979年 |
宮本竹逕 著 | 『宮本竹逕民謡百筆』 | 講談社 | 1981年 |
宮本竹逕 著 | 『大字かな技法』 | 二玄社 | 1984年 |
宮本竹逕 著 | 『寒玉帖 全5巻』 | 書道新聞社 | 1984年 |
宮本竹逕 著 | 『かなを語る』 | 美術公論社 | 1985年 |
宮本竹逕 著 | 『大慈大悲西国三十三所観音衆成』(共著) | 講談社 | 1986年 |
宮本竹逕 著 | 『かなの風景 線と造形』 | 芸術新聞社 | 1991年 |
宮本竹逕 著 | 『卒寿記念(図録)』 | 贅交社 | 1992年 |
宮本竹逕 著 | 『現代臨書大系(第8巻)愛蔵版』 | 小学館 | 1998年 |
宮本竹逕 著 | 『書道技法講座4 かな関戸本古今集』 | 二玄社 | − |
宮本竹逕 著 | 『宮本竹逕作品集成』 | 講談社 | − |
宮本竹逕 著 | 『竹逕大字かな帖』 | 書道新聞社 | − |
出典1:『青少年へ贈る言葉 わが人生論 広島編(上)』、204頁、中村輝雄編、文教図書出版(株)刊、昭和58年4月11日 出典2:『知っとる?ふくやま 検定試験/公式テキスト』、130頁、中国新聞社編刊、2007年11月15日 出典3:『書業七十年記念 桑田笹舟の世界』、105頁、谷口光政著、創林書房刊、昭和63年6月24日 出典4:『現代文化(39)日中国交正常化30周年記念』、294頁、現代文化協会編刊、平成14年5月28日 |
2006年9月6日追加●2006年9月11日更新:経歴・本文●2007年11月22日更新:写真・経歴●2009年10月28日:経歴●2010年7月13日更新:写真●2010年7月13日更新:写真・経歴・本文・誠之館所蔵品・探しています・出典●2010年9月8日更新:経歴・出典●2013年11月13日更新:経歴・出典● |