福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
宮本喜一郎
みやもと・きいちろう
誠之館教諭(国語)、万葉集研究家
宮本喜一郎 (出典1)


経 歴
生:明治43年(1910年)4月8日、広島県呉市生まれ
没:平成4年(1992年)8月20日、享年83歳
大正6年(1917年)4月1日 6歳 呉市立五番町尋常高等小学校入学
大正12年(1923年)3月2日 12歳 呉市立五番町尋常高等小学校卒業
大正12年(1923年)4月 12歳 広島県立呉第一中学校入学
昭和3年(1928年)3月 17歳 広島県立呉第一中学校卒業
昭和3年(1928年)4月 17歳 広島高等学校文科甲類入学
昭和6年(1931年)3月 20歳 広島高等学校文科甲類卒業
昭和6年(1931年)4月 20歳 京都帝国大学文学部国語国文学科入学
昭和9年(1934年)3月 23歳 京都帝国大学文学部国語国文学科卒業
昭和9年(1934年)4月20日 24歳 広島県立福山誠之館中学校教師
昭和12年(1937年)3月31日〜
 昭和16年(1941年)3月31日
26〜
30歳
広島県立福山誠之館中学校教諭
昭和16年(1941年)3月31日 30歳 大阪府へ出向、大阪府立市岡中学校教諭
大阪府立港高等学校教諭


弔文 宮本喜一郎先生
福山誠之館高校同窓会副会長 岩崎博

宮本喜一郎先生が逝去されたとの知らせを頂き愕然と致しました。

今年の5月、私ども福山誠之館を昭和19年に卒業した同期生が卒業48年の会を致しました折先生をお招きしましたが、術後で体調が充分でないので一人では行けないと、残念そうなお便りで、それでも京都辺りまではときどき行くんだと承り、お元気にお過ごしとばかり思っておりました。

私どもが教えて頂きましたのは戦争のまっただ中の昭和17、8年頃のこと。
凄いファッショの嵐が吹き荒れていた生き難い世情の中で、先生は最後まで見事に変わらない、悠々たる大人の雰囲気のままで過ごされ、日本の文章のすばらしさを我々に教えて頂きました。

この数年、ご専門の万葉の本を契機にお便りを頂くようになりましたが、先生の、きめ細かい情感に溢れた独特の名文を拝読する度に、むかし子規などの教材を窓辺の日溜りに寄り、ときどきずり落ちる眼鏡を直しながら、ゆっくり朗読したり、しやべったりされていた50年前の語りの口調と、文体の本質が少しも変わらないことにまた感激したりしました。

先生は誠之館以後、市岡中学、港高校に教鞭をとられ、数多くの素晴らしい教え子に固まれてのご晩年のご人徳は出版記念会でのご夫妻のお姿や、山岡さんのお便りでも拝察でき、私どもも嬉しく存じておりました。

願わくば、もう一度福山、尾道をご一緒にお供したかったという思いが残りますが、止むを得ないこと、心から先生のご冥福を祈り、長年のお教えに感謝申し上げます。
宮本先生、安らかにお眠り下さい。

福山誠之館昭和19年卒業生を代表し、弔文を献じました。

    平成4年(1992年)8月22日


宮本喜一郎先生のこと     岩崎博(昭和19年卒)

宮本ボンジー先生は私にとって結構残像が強い。
丸顔のいかにも悠々飴蕩たる先生の物腰もさることながら、独特のゆったりした言葉のイントネーションはなかなか味があって、時々ずれる眼鏡にゆっくり手を掛けながら日溜まりの方向の窓辺に拠りながら本を朗読されていると、いつか皆私語をやめて聞き入り、その雰囲気にひたった。

『星霜四十年』のご寄稿を見ると宮本先生は昭和9年京都大学を卒業されるとすぐ誠之館に赴任、昭和16年に大阪に移るまでの丸7年間を福山で過ごされている。
福山で結婚され2人の子供さんもここで生まれられたこともありご夫婦にとって福山には特別の思いがおありのようである。

亡くなられた後奥様から、宮本家は元々尾道代々の米卸商で塩飽屋といい、墓がある長江の福善寺の石段下に大きな屋敷があったとお聞きしてみると、先生が福山を去られてからもこの頃への思いを終生熱く持ち続けられた理由が分かる気がする。
卒業40年記念会でお会いしてから、私は初めて先生と個人的な音信を交わすことになった。
頂戴する手紙のどれも柔らかく暖かい字で丁寧に綴られ、むかし授業でお聞きしたのと同じ、独特の人を包むような穏やかな文章に私は感じ入った。

お便りから大阪の市岡中学から府立高校を経てご退官されたことを知ったが、ライフワークは万葉集の研究で、やがて長年連載されていた「難波宮跡を守る会ニュース」掲載の万葉の連載をまとめられ『万葉の跡をたずねて』と題して、凝った立派な本を出版された。
1991年のことである。

福山の教え子たちも読みたがっているからと30冊ほどお願いしたところ、教え子代表の山岡さんから、実はもう売り切れて在りませんが、無理してかき集めましたと貴重な本を送っていただいた。
教え子の発議によって出版され、また売り尽くされたようで、改めて先生の人徳の厚さを垣間みたことである。

万葉の跡を訪ねて奥様とごいっしょにあちこち楽しいご旅行をされたが、鞆も勿論それに入っていて、次のような文章がある。

「鞆の浦は船具を造る鍛冶屋の町だから、町の中にふいごの神、風の神である一眼一足の点眼一箇神をまつる神社が、今では他の社と合祀されて残っている。
また漁師の町だから、路傍に生簀をすえて魚、えび、蟹などを泳がせながら売っている漁婦がいる。
遠方から来て生物を持って帰れない観光客のためには、ゆでた「しゃこ」も売っている。
中村憲吉は、新婚の夫人とこの地で遊んで「磯の光」の一連の作を残した。
彼の夫人は鞆から近い水呑の出身だった。
福善寺対潮楼は江戸幕府へ向かう朝鮮使節が宿泊した寺で「日東第一景勝」の額を残している。(中略)
この寺の住職は、鞆町をもっと栄えさせたい願いを持っていて、たかが鍛冶屋や漁師の町ではいつまでたっても繁栄することはない。
福山が日本鋼管を誘致して大都会となったように、鞆にも大工場を誘致すべきだという。
でもそんなことをしては、鞆の海から鯛や「さわら」が逃げ出してしまうだけではないか。
今の鞆の浦が別にさびれているわけではない。
かつては海上交通で栄えた町で、今では遊女屋などが無くなってさびれたと見える町に播磨の室津や備前の牛窓などがある。
鞆の浦もその同列に加えられるだろう。
しかしそうなればなったで、それぞれ新しい進路が開けて来るように思われる。
それは対潮楼にとっては良い方向ではなかろうか。
大工場誘致による繁栄の復活などは、対潮楼の利益の復活につながりそうもない」。


あとで知ったのだが、本を出版されたとき先生は直腸癌の手術のあとで、いたわりながら続編を書き進められていた。
「25日に北野天満宮の梅花祭を見に行く予定だがその頃に未だ梅が残っているか確かでない。
でも上七軒の芸妓さん舞子さんの抹茶サービスはあるだろうし、上七軒を歩いて老松で菓子を買い、千本今出川の近為でつけ物を買うことはできるだろう。
梅花祭云々はいずれ口実にすぎない。
病後もう歩くことはできないかと嘆いていたのに、その点が解決してとてもうれしい。
どこへでも自由に行ける。」
(1992.2.7岩崎宛書簡)

この年8月20日、ご養生の甲斐なく逝去された。
昨年4月、思いがけず奥様から、『続、万葉の跡をたずねて』を出したからと贈って頂き、みなさんに配った。
あとがきに、「朝目が覚めるとすぐ寝床で本を読み、夜寝床に入ってからも本を読んでいました。
本の虫だったと思います。
熊野は最後の一泊旅行になったところです」
とある。

だいぶ月を経て仏前に参じたが、書斎の佇まいは生前そのままになっていて、奥様の文章が改めて思い出されることだった。
謹んでご冥福を祈りたい。


 
  平成6年(1994年)   (出典1)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02149 宮本喜一郎 著 『万葉の跡をたずねて』 万葉の跡をたずねて刊行会 平成3年


出典1:『遥かなる五十年−写真でつづる一九会のあゆみ−』、誠之館一九年卒業同期会編刊、平成6年10月16日
資料提供:岩崎博氏(昭和19年卒)
2007年7月24日追加●2007年8月22日更新:本文・誠之館所蔵品●2007年12月21日更新:経歴●2009年4月2日更新:本文・誠之館所蔵品●2009年10月28日更新:誠之館所蔵品●