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福山誠之館同窓会会長(第3代)、三菱鉱業取締役会長、福山市長 |
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治4年(1871年)10月22日、福山県沼隈郡山手村(現広島県福山市山手町)生まれ (出典5) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和40年(1965年)10月26日没、享年94歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
三谷一二 「誠」の実業家 誠之館百三十年史(上巻) 三谷一二氏は、明治4(1871)年福山県沼隈郡山手村の旧家に生まれた。山手村山手小学校中等科卒業後、明治17(1884)年2月19日、福山中学校(誠之館)に入学して、8級生となった。年齢12年5ヵ月である。在学すること3年2ヶ月、明治20(1887)年4月12日付けをもって福山中学初等科4級を修了後、遊学の為上京し、予備校に学んだ後、明治23(1890)年、官立(東京)高等商業学校(一ツ橋大学の前身)に入学した。明治29年同校を卒業して三菱合資会社銀行部に入社し、その後、大正5年(1916年)にいたるまで、三菱会社銀行部の各店を歴任して長崎支店長に至った。大正5年6月東京本社営業部石炭課長として東京本社に帰り、さらに大正7年、三菱鉱業株式会社の常務取締役に任ぜられ、三菱コンチェルンの中核にあって、手腕をふるった。太平洋戦争の末期、福山に帰り、推されて第4代福山市長となり、昭和19年(1944年)9月26日から昭和21年3月7日まで、終戦前後の困難な時代の市政を担当した。また昭和19年以降、誠之館同窓会長をつとめ、昭和40年(1965)10月26日逝去、享年94歳であった。10月31日、誠之館講堂(福山市三吉町)に於て葬儀が行われたが、弔問客および弔電弔花数千に及び、市民こぞってその逝去を惜しんだ。三谷一二氏の談話の中に、つぎのようなことばがある。 「『誠之者人之道也』は、教師から諭されなくても、志さえあれば、読書・旅行の間にも自ら『人之道』は発見できる。その素朴な人生観の中から、やがて立派な国家の人材に成長して行くものだ。かつての学生は、人の道の師を自らの心の中にもっていた。自らの体験の中に発見していた。『志を立てる』、この工夫をさせることが道徳教育の鍵であることをもっと研究しなければならぬであろう。」と。 (出典2) |
昭和9(1934)年10月25日から27日の3日間にわたって行われた、創立80周年・講堂新築落成記念式において、三谷一二氏は、「同窓誠之館生徒諸君ニ告グ」という演題のもとに、みずからの64年の生涯をふりかえっての教訓を述べられた。 第一は「至誠一貫、誠意を以て貫く」ということである。この精神は母校誠之館の教育によってつちかわれたものであり、遠くは「阿部正弘公」の命名に由来するものである。第二は「健康」であり、節制と鍛錬によって身体を鍛え今日の複雑な社会に立ちむかわなければならない。第三は、「仁義礼智信」五常のうち、「礼」をもっとも重んじ、個人に対しても国家間に於ても、礼譲・恭敬をもってまじわらねばならない。以上三者をもって人生処世の要諦にしてもらいたいというのが氏の生徒に対する要請であった。 (出典2) |
校名変更への思い 誠之館百三十年史(下巻) 同窓会長三谷一二氏はこの校名改正の理由として「誠之」それ自体の言葉が含む意味に重大な価値を認め、誠之の二字をその修養期の吾々青年時代に頭中におくことは、この学校を卒業してからもこの「誠之」が頭脳より離れず健全な生活を送り、人間の幸福に寄与し、ひいては社会国家健全な発展に大いに貢献するものであると確信され、その現実にことさら御苦労下さっている。ここに吾々としても,常に吾々の身辺を親身になってくださる諸先輩をいただいたことを余りある光栄に思い感謝すると同時に本校の校名改正問題について今一度深い関心をはらわなくてはならない。【福山東高校新聞】昭和27年12月24日発行 学校名「福山誠之館」実現のために、三谷同窓会長は、林PTA会長、学校長と一緒になって県教育委員会に要請した。 (出典3) |
「三谷一二先生を訪ねるの記」 学生会雑誌(第82号) 野間三平 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00068 | 三谷一二 書 | 人生訓「人生の幸福は」 | − | 昭和28年 |
00069 | 三谷一二 書 | 和歌「誠之道」 | − | 昭和28年 |
00406 | 三谷一二 書 | 色紙「至誠一貫」 | − | 昭和28年 |
03676 | 三谷一二 書 | 色紙「百術不若一誠」 | − | 昭和28年 |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
00416 | 三谷一二 述 | 『財界巨頭修養訓 前三菱鉱業会長 三谷一二述』 | 日本教育資料刊行会 | 昭和12年 |
「三谷一二」の読みは、三谷明氏に「みたに・いちじ」とお聞きした。 |
出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、1頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月 出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、408・1073頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典3:『誠之館百三十年史(下巻)』、123頁、福山誠之館同窓会編刊、平成元年年3月31日 出典4:『福山学生会雑誌(第82号)』、59頁、「訪問記」、野間三平、福山学生会事務所編刊、昭和11年7月20日 出典5:『懐古−誠之館時代の思い出−』、52頁、「私の中学校時代の思い出」、浅利敬六、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典6:『懐古−誠之館時代の思い出−』、222頁、「福山誠之館同窓会の思い出」、浅利敬六、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典7:『続甬里詩稿』、25頁、平川武三郎(平川甬里)著、平川一義刊、昭和45年5月25日 |
関連情報1:『福山学生会雑誌(第62号)』、160頁、福山学生会事務所編刊、大正15年7月12日 関連情報2:『誠之館記念館所蔵品図録』、70頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 関連情報3:『福山の古写真集』、福山城博物館友の会編刊、平成13年 |
2004年12月7日更新●2005年1月18日更新:経歴●2005年4月8日更新:本文・出典・関連情報●2005年4月11日更新●2006年6月30日更新:タイトル・所蔵品●2006年8月10日更新:生年月日●2007年8月9日更新:経歴・出典●2007年8月10日更新:本文●2007年12月26日更新:経歴・本文・出典●2009年9月16日更新:誠之館所蔵品●2009年10月13日更新:出典●2014年5月23日更新:名前● |