福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
三谷一二
みたに・いちじ

福山誠之館同窓会会長(第3代)、三菱鉱業取締役会長、福山市長

三谷一二


経 歴
生:明治4年(1871年)10月22日、福山県沼隈郡山手村(現広島県福山市山手町)生まれ (出典5)
没:昭和40年(1965年)10月26日没、享年94歳
明治20年(1889年)4月12日 15歳 広島県福山中学校(誠之館)初等科第四級を修了
明治29年(1896年)6月 24歳 官立(東京)高等商業学校を(現一橋大学)を卒業
明治29年(1896年)6月 24歳 三菱合資会社銀行部に入社
三菱合資会社営業部、長崎支店、若松支店、門司支店などに勤務
明治33年(1900年) 28歳 北清事変に出征
明治37年(1904年) 32歳 日露戦争に出征
明治42年(1909年) 37歳 三菱合資会社銀行部上海支店長
明治44年(1911年) 39歳 三菱合資会社銀行部長崎支店長兼唐津支店長
大正5年(1916年)6月 44歳 東京本社営業部石炭課長兼東京支店長
大正6年(1917年) 45歳 査業部理事、アメリカ視察
大正7年(1918年)5月3日 46歳 新規設立の三菱鉱業会社において常務取締役
大正13年(1924年)5月〜
 昭和11年(1936年)
52〜
64歳
三菱鉱業会社取締役会長
昭和11年(1936年) 64歳 三菱合資会社顧問
昭和19年(1944年)9月26日〜
 昭和21年(1946年)3月7日
72〜
74歳
福山市長(第4代)
昭和20年(1944年)4月20日〜
 昭和40年(1965年)10月26日
73〜
93歳
広島県福山誠之館中学同窓会会長
昭和39年(1964年) 93歳 勲三等


生い立ちと学業、業績
三谷一二 「誠」の実業家   誠之館百三十年史(上巻)
三谷一二氏は、明治4(1871)年福山県沼隈郡山手村の旧家に生まれた。山手村山手小学校中等科卒業後、明治17(1884)年2月19日、福山中学校(誠之館)に入学して、8級生となった。年齢12年5ヵ月である。在学すること3年2ヶ月、明治20(1887)年4月12日付けをもって福山中学初等科4級を修了後、遊学の為上京し、予備校に学んだ後、明治23(1890)年、官立(東京)高等商業学校(一ツ橋大学の前身)に入学した。明治29年同校を卒業して三菱合資会社銀行部に入社し、その後、大正5年(1916年)にいたるまで、三菱会社銀行部の各店を歴任して長崎支店長に至った。大正5年6月東京本社営業部石炭課長として東京本社に帰り、さらに大正7年、三菱鉱業株式会社の常務取締役に任ぜられ、三菱コンチェルンの中核にあって、手腕をふるった。太平洋戦争の末期、福山に帰り、推されて第4代福山市長となり、昭和19年(1944年)9月26日から昭和21年3月7日まで、終戦前後の困難な時代の市政を担当した。また昭和19年以降、誠之館同窓会長をつとめ、昭和40年(1965)10月26日逝去、享年94歳であった。10月31日、誠之館講堂(福山市三吉町)に於て葬儀が行われたが、弔問客および弔電弔花数千に及び、市民こぞってその逝去を惜しんだ。三谷一二氏の談話の中に、つぎのようなことばがある。
「『誠之者人之道也』は、教師から諭されなくても、志さえあれば、読書・旅行の間にも自ら『人之道』は発見できる。その素朴な人生観の中から、やがて立派な国家の人材に成長して行くものだ。かつての学生は、人の道の師を自らの心の中にもっていた。自らの体験の中に発見していた。『志を立てる』、この工夫をさせることが道徳教育の鍵であることをもっと研究しなければならぬであろう。」と。
   (出典2)
昭和9(1934)年10月25日から27日の3日間にわたって行われた、創立80周年・講堂新築落成記念式において、三谷一二氏は、「同窓誠之館生徒諸君ニ告グ」という演題のもとに、みずからの64年の生涯をふりかえっての教訓を述べられた。
第一は「至誠一貫、誠意を以て貫く」ということである。この精神は母校誠之館の教育によってつちかわれたものであり、遠くは「
阿部正弘公」の命名に由来するものである。第二は「健康」であり、節制と鍛錬によって身体を鍛え今日の複雑な社会に立ちむかわなければならない。第三は、「仁義礼智信」五常のうち、「礼」をもっとも重んじ、個人に対しても国家間に於ても、礼譲・恭敬をもってまじわらねばならない。以上三者をもって人生処世の要諦にしてもらいたいというのが氏の生徒に対する要請であった。   (出典2)
校名変更への思い    誠之館百三十年史(下巻)
同窓会長三谷一二氏はこの校名改正の理由として「誠之」それ自体の言葉が含む意味に重大な価値を認め、誠之の二字をその修養期の吾々青年時代に頭中におくことは、この学校を卒業してからもこの「誠之」が頭脳より離れず健全な生活を送り、人間の幸福に寄与し、ひいては社会国家健全な発展に大いに貢献するものであると確信され、その現実にことさら御苦労下さっている。ここに吾々としても,常に吾々の身辺を親身になってくださる諸先輩をいただいたことを余りある光栄に思い感謝すると同時に本校の校名改正問題について今一度深い関心をはらわなくてはならない。【福山東高校新聞】昭和27年12月24日発行


学校名「福山誠之館」実現のために、三谷同窓会長は、林PTA会長、学校長と一緒になって県教育委員会に要請した。
   (出典3)

「三谷一二先生を訪ねるの記」   学生会雑誌(第82号) 野間三平
入梅を忘れたかの如く藍色の澄んだ空に朝の快い日輪は燦々と輝いていた。
青葉の群生した庭の樹々に包まれた静かな豪壮な邸町通る事数丁にして、朝の清々しい冷気を受けて、私達は三谷先生の邸に着いた。
時は初夏6月14日午前10時、砂利の道をずっと入って行くと古風な純日本式の玄関、ベルを押して刺を通ずると間もなく静かな落着いた広い応接間に案内された。
部屋を見廻わすと種々の謂のありさうな立派な書画、中でも暖炉の上には三菱の創主岩崎彌太郎氏の時代ものの写真等も飾ってあった。
やがて和服で、先生がにこやかに御出でになった。
私達は夢中で挨拶を終へた。
テーブルを囲んで私達は先生に
「訪問記等初めてなもんですからどうぞ宜しく御願いします。」
「先ず先生の学生時代について何か。」
「さあ、若い時は官吏志望でした。上京したのが17歳の時で、一時親戚で麻布の本村町に住んで居た海軍の機関将校であった宮原二郎氏のところに厄介になっていた関係で、近所の東洋英和学校に通学し、翌年一高を志願して首尾克く失敗しました。ソコで宮原氏は英国に10年以上も留学して居たという当時の西洋通で、同氏はこれからの日本は実業でなくてはならぬとしきりに一ツ橋の高商へ入学するよう奨められましたのです。然し昔は実業家は大へん軽蔑されていたのです。かたがた自分としても官吏志望を止めたくなかったのですが、母がなるべく早く学校生活を打ち切る様希望するものですから、遂に一ツ橋を志望する事にし、二十歳の時に入学したのです。」
「誠之舎には何時頃お出でになったのですか。」
「それから間もなくでした。」
「運動は何かおやりでしたか。」
「誠之舎では柔道も少しはやりましたが、学校ではボートの選手としてずっと卒業する迄やりました。」一橋在学中岩崎家から子供さん達の指導的学友として、一高より一名、一橋より一名希望され、私は高商の方から選ばれ、同家の学寮に寄寓することとなりました。一高からは後に労働代表をつとめた事のある桝本卯平君が来ました。在誠之舎時代は今は亡くなられたが幹事であった
小田勝太郎氏が、忠君愛国を根幹とせる厳格な武士道的献身的指導の下に生活しました。朝も早くから析聲で起床し、先ず道場でお互に一斉に敬礼したものです。夜も睡眠前同様の儀式がありました。一橋高商を卒業する時私の寄寓して居た岩崎家の主人岩崎久弥さん。この人はまことに立派な人格者で孝心深く礼儀の正しい方でした。その方が何処へ就職するか、希望の所があれば尽力すると申されました。私はかねて主人の人格を敬慕し、又三菱の社風に賛意を表して居ましたのと後日重役の一人となり、この偉大なる資本を善用して国家のため貢献して見たいという抱負も持って居りましたので三菱を希望しました。入社後はひたすら至誠一貫人道であり同時に成功の秘訣と確信する誠心誠意で推し働きました。御蔭で相当に引立てられ一人前の地位まで達し得られました様に思って居ります。」
現在先生は三菱の社長室会議員になっておられるのに、終始大変謙遜されて話されるので、我々は恐れ入りました。
「先生の御仕事の上について、何かお話願いたいのですが。」
「私は今日の仕事は必ず今日中にやると云う主義です。夜睡れなかったりして煩悶するのは,畢竟その日にすべき仕事をしないでうっちゃって置くからなのです。」
我々は、三尺の秋水で體を真二つにされたように感じました。
「先生は御元気そうに見えますが、何か運動されておられるのですか。」
「私は早起きが健康の秘訣と思って居ります。毎朝洗面してから、先ず柏手して又は線香を立てて、屋内に奉祀せる神仏に敬意を表し、それからラジオ體操をやっていますが、之は大変よいと思います。今朝は日曜だったから妻の外に子供や孫も連れて護国寺に行き、死んだ子供の墓に参詣してまいりました。毎月命日には雨天でもどんな日でも夫婦揃ってお参りを致します。これは子供や孫たちの精神的教育にもよいと考へています。」
時間は11時を過ぎ、庭の植込には強い午の光線がギラギラと照りつけていた。終りに写真を撮らして頂いた。
先生に玄関迄送って頂き、郷土の先輩の御好意に涙が出る程身にしみて嬉しかった。砂利の道を歩きながら、先生の克己心に頭が下り、又先生の苦しい御修養の跡も偲ばれ、帰る途中自分の心にこれではいけない、いけない、と一つ一つ路上の石を見つめながら刺激されて、真昼の直射を受けながら帰途についた(野間記)。
   (出典4)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名 称 制作/発行 日 付
00068 三谷一二 書 人生訓「人生の幸福は」 昭和28年
00069 三谷一二 書 和歌「誠之道」 昭和28年
00406 三谷一二 書 色紙「至誠一貫」 昭和28年
03676 三谷一二 書 色紙「百術不若一誠」 昭和28年
00416 三谷一二 述 『財界巨頭修養訓 前三菱鉱業会長 三谷一二述』 日本教育資料刊行会 昭和12年


「三谷一二」の読みは、三谷明氏に「みたに・いちじ」とお聞きした。
出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、1頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、408・1073頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『誠之館百三十年史(下巻)』、123頁、福山誠之館同窓会編刊、平成元年年3月31日
出典4:『福山学生会雑誌(第82号)』、59頁、「訪問記」、野間三平、福山学生会事務所編刊、昭和11年7月20日
出典5:『懐古−誠之館時代の思い出−』、52頁、「私の中学校時代の思い出」、浅利敬六、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日
出典6:『懐古−誠之館時代の思い出−』、222頁、「福山誠之館同窓会の思い出」、浅利敬六、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日
出典7:『続甬里詩稿』、25頁、平川武三郎(平川甬里)著、平川一義刊、昭和45年5月25日
関連情報1:『福山学生会雑誌(第62号)』、160頁、福山学生会事務所編刊、大正15年7月12日
関連情報2:『誠之館記念館所蔵品図録』、70頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日
関連情報3:『福山の古写真集』、福山城博物館友の会編刊、平成13年
2004年12月7日更新●2005年1月18日更新:経歴●2005年4月8日更新:本文・出典・関連情報●2005年4月11日更新●2006年6月30日更新:タイトル・所蔵品●2006年8月10日更新:生年月日●2007年8月9日更新:経歴・出典●2007年8月10日更新:本文●2007年12月26日更新:経歴・本文・出典●2009年9月16日更新:誠之館所蔵品●2009年10月13日更新:出典●2014年5月23日更新:名前●