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福山誠之館同窓会幹事長、牧本楽器株式会社社長 | |||||||||
経 歴 | ||||||||||||||||||||||||
生:昭和3年(1928年)7月7日、福山生まれ | ||||||||||||||||||||||||
没:昭和63年(1988年)5月、享年60歳 | ||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
昭和3年(1928年)7月7日、牧本正雄氏の次男として福山に生れた。 |
「誠之館時代」 牧本典雄(昭和20年C卒業) |
誠之館中学4ケ年の思い出は私にとって人生の一つの重大な時期であったと思います。 昭和20年(1945年)3月、4年生で卒業。 普通、中学は5年ですが、その年は戦争激烈の為、5年と4年が同時に卒業しました。 実際に学校で授業をしたのは、精々3ケ年位でした。 昭和16年(1941年)、小学校の課程を終了し、当時は国民学校と称し、国家総動員法が施行され、一億一心戦争のため、すべてが戦う為めにとの戦時体制が徐々に強化されてきました。 12月8日、大東亜戦争が勃発し、戦火は日々に広まってゆきました。 中学校に於いても勿論、我々の時より制帽も戦闘帽に代り、毎日巻脚絆をつけての登校、校門を入ると奉安殿への敬礼、上級生への校外での敬礼、先生には停止敬礼をして今までの小学生より急に大人になったと思いました。 毎週月曜日には閲兵分列があり、配属将校の厳重な監督の下に行われ、毎週教練の時間が4時間程あり、銃の持ちかたなどいろいろ教わったものです。 自然、学校は軍関係の上級学校、陸士、海兵等へ行く者が段々と増えてまいりました。 休暇にはその人達が来て誘い方々気合を入れていたものです。 昭和19年(1944年)になると空襲が増々はげしくなり、学校の授業も打切り、遂に学徒動員として工場へ引張り出されました。 5年生は因島の造船所に、4年生は向島の造船所に、3年生は市内三菱電機へとペンをハンマーに替えて、御国の為にと動員されました。 勿論女学校に於いても女子挺身隊としてそれぞれ動員されたのです。 今迄の生活とは全然異なる毎日の生活の中で、しかし、みんな生き抜いて来ました。 工場の中に於いても先生と生徒との間も今の様な暴力沙汰はなかったと思います。 不平も当然ありましたが、しかし国民全体が戦争のため大きな犠牲を、ものともせず、「国の為に、戦争のために」すべてが、それによりかたづけられました。 生きてゆく為に毎日の生活が大変な時代でした。 当然クラブ活動も4年生の時には出来ず、私も1年の時、陸上競技部に入りました。 2、3年頃に新しい部として既存の柔道部、剣道部、水泳部、庭球部、野球部、音楽部等々より別に陸上戦技部、銃剣道部が生まれ、部は戦時色が強くなってきました。 部の活動も段々と出来なくなってまいりました。 しかし、先輩と後輩と共に走り廻ったことが、今思うと良き思い出となります。 4ケ年を過ぎて見ると我々の時代は、戦争の為に、青春がほんとうに失われた感がします。 現代と比べると天地の違いがしますが、純真な気持は今よりは強烈だったのではないでしょうか。 校庭の一木一草にも思い出がありますが、現在は校舎も移転し塀が思い出を残すのみとなりました。 誠之館の伝統がたえないよう母校の益々の発展をお祈りします。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02060 | 牧本典雄 著 福山誠之館同窓会 編 |
「誠之館時代」『懐古−誠之館時代の思い出−』、188頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
出典1:『懐古−誠之館時代の思い出−』、188頁、「誠之館時代」、牧本典雄、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典2:『自治行政大観 新日本人文録(広島県人国記)』、595頁、地方自治調査会編刊、昭和41年11月30日 出典3:『自治制八十年記念 自治団体沿革 郷土を造る人々』、595頁、地方自治調査会編刊、昭和45年9月16日 |
2004年12月6日更新●2005年3月9日更新:経歴・出典●2005年4月12にち更新:本文・出典●2006年6月30日更新:タイトル●2008年8月7日更新:経歴●2008年9月17日更新:経歴・本文●2009年2月24日更新:写真削除●2011年8月18日更新:誠之館所蔵品● |