福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
葛原しげる
くずはら・しげる
詩人、教育者
葛原しげる (出典1)


経 歴
生:明治19年(1886年)6月25日、広島県安那郡八尋村(現福山市神辺町八尋)生まれ
没:昭和36年(1961年)12月7日、享年75歳
明治24年(1891年)5月 4歳 八尋尋常小学校入学
明治26年(1893年) 7歳 姉から琴の手解きを受ける
明治28年(1893年)3月 8歳 八尋尋常小学校卒業
明治28年(1893年)4月 8歳 安那高等小学校入学
明治31年(1898年)3月 11歳 安那高等小学校3年を修了
明治31年(1898年)4月 11歳 広島県第二尋常中学校(誠之館)入学
明治36年(1903年)3月30日 17歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
明治36年(1903年)3月30日〜
 明治37年(1904年)3月
17〜
18歳
福山中学校(誠之館)補習科
明治37年(1904年)4月 18歳 東京高等師範学校英語科入学
明治39年(1906年) 20歳 東京高等師範学校の大塚音楽会公演会で詩の発表を始める
明治40年(1909年) 21歳 童謡の試作を始める
明治41年(1908年)3月 21歳 東京高等師範学校英語科卒業
明治42年(1909年)4月 22歳 東京九段精華学校初等科訓導
明治43年(1910年) 24歳 同文館の児童雑誌「小学生」編集主任(兼任)
明治44年(1911年)3月25日 24歳 龍治喜美子(りょうじ・きみこ)と結婚
明治44年(1911年) 25歳 「大塚講話会」を創設、主に童話実演を行う
明治44年(1911年) 25歳 『実演童話集(11巻)』、『実演童話新集(6巻)』ほかを出版
大正元年(1912年)11月〜
 大正6年(1917年)6月
26〜
30歳
博文館編集局に入社
大正3年(1914年)4月〜
 大正9年(1920年)3月
27〜
33歳
日本女子音楽学校講師
大正4年(1915年) 29歳 『新唱歌集(12巻)』、『大正幼年唱歌』を刊行
大正4年(1915年)10月 29歳 『葛原勾当日記』を編み父重倫の名で刊行
大正6年(1917年) 31歳 東京女子音楽学校講師兼任
大正6年(1917年)〜
 昭和20年(1945年)3月25日
31〜
59歳
九段精華高等女学校教諭、同理事
大正6年(1917年) 31歳 跡見女学校講師兼任
大正9年(1920年) 34歳 中央音楽学校兼任
昭和6年(1931年)4月〜
 昭和13年(1938年)7月
44〜
52歳
私立中央音楽学校講師兼任
昭和7年(1932年) 46歳 福山誠之館中学校校歌作詞
昭和20年(1945年)4月 59歳 郷里・八尋へ疎開、まもなく終戦
昭和21年(1946年)4月〜
 昭和35年(1959年)6月1日
59〜
73歳
私立至誠高等女学校校長
昭和26年(1951年)6月 66歳 広島県立福山東高等学校校歌作詞
昭和29年(1954年)11月26日 68歳 中国文化賞
昭和31年(1956年)11月25日 70歳 童謡45年記念祝賀会
昭和32年(1957年) 71歳 ポーイスカウト日本連盟・鷹章
昭和34年(1959年)11月 73歳 藍綬褒章
昭和35年(1960年)5月8日 74歳 日本児童文芸家協会表彰
昭和35年(1960年)11月 74歳 東京・西片町に戻る
昭和38年(1963年)12月7日 生家門前に「葛原しげる先生童謡碑」建立
昭和45年(1970年) 神辺町名誉町民(合併により2006年3月福山市名誉市民)


生い立ちと学業、業績
「葛原しげる−ニコピン先生」  (『誠之館百三十年史(上巻)』より)

旧校歌(「神仙遊ぶ瀬戸海の…」)に代えて制定された「福山誠之館中学校第一校歌・第二校歌」《昭和7年(1932年)7月発表》、および「福山誠之館高等学校第一校歌・第二校歌」《昭和26年10月発表》は、本校明治36年(1903年)3月卒業の童謡作家葛原しげる氏の作詞になるものである。氏は明治19年(1886年)広島県安那郡八尋村(現福山市神辺町八尋)に、父二郎重倫の2男として生まれた。祖父は、生田流の名手であり、『葛原勾当日記』を残した葛原勾当重美《文化9年(1812年)〜明治15年(1882年)》である。明治31年(1898年)3月、安那高等小学校3年を修了して、その4月広島県第二尋常中学校(誠之館)に入学し、直ちに寄宿舎に入った。寄宿舎には一級上に丸山鶴吉がいた。葛原は性行・学業ともに抜きんでていたが、とくに文章にすぐれ5年生になると雑誌部委員におされるとともに、垂芳・恵寿敬・畳湯外史・琴迺舎などと号し、校友会雑誌『誠之』へ毎号4〜5編ずつの詩文を寄稿しており、これは卒業後5、6年にも及んだ。すなわち、『誠之(第6〜13号)』《明治35年(1902年)〜明治40年(1907年)》に寄稿を続けた。

明治36年(1903年)3月、18歳のとき福山中学校(誠之館)を卒業したが、師範学校に入学するには年齢不足のため、補習科に入り、翌明治37年(1904年)4月、東京高等師範学校英語科に入学し、明治40年(1907年)に卒業した。

東京九段精華学校初等科訓導《明治41年(1908年)》、女子音楽学校講師兼任《大正6年(1917年)》、九段精華高等女学校教諭、同理事《大正6年(1917年)》、跡見女学校講師兼任《大正6年(1917年)》などを歴任、このうち、九段精華高女には、同校が昭和20年(1945年)に戦火によって廃校となるまで28年間勤務した。

この間博文館編集局にもつとめて、『少年世界』、『幼年世界』などの編集にたずさわったことが、児童唱歌の作歌や少年文学の創作活動に刺激を与えられることになった。高師3年のころから少しずつ作歌を試みていたが、明治43年(1910年)、児童雑誌『小学生』が創刊され、その編集主任となってから本格的に童謡を作りはじめた。何といっても「明るく、楽しく、美しく、正しい」作品で世人に感銘を与え続けた。児童唱歌を童謡と呼ばれはじめたのは大正8年(1919年)頃である。それらの童謡は、その都度以下の童謡集にまとめられている。
・第1童謡集『白兎と木馬』《大正11年(1922年)刊、所収99編》
その前年に発表された代表作「夕日(ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ)」<室崎琴月作曲>や、「とんび」、「白兎」などが収められている。
・スティヴンソン『子供の詩』(翻訳)《大正11年(1922年)9月刊》
当時東京高師助教授であった
福原麟太郎氏《明治45年(1912年)卒》との共訳であり、福中同窓のきずなによって生まれた。
・第2童謡集『こんころ踊』《大正12年(1923年)刊、所収66編》
「ニコニコピンピンの歌」(弘田龍太郎作曲)が収められており、自序に「いつもニコニコ、いつもピンピン、これが作者の唯一つの旗じるしです」と書いている。ニコピン先生の由来である。
・第3童謡集『かねがなる』《大正14(1925年)刊、所収99編》
・第4童謡集『葦の笛』《昭和3年(1928年)刊、所収80編》
父、80才の賀の為に出版。
・第5童謡集『葛原しげる童謡集』《昭和10年(1935年)刊、所収188編、童謡満25年記念》
昭和3年(1928年)以降の作品から選び出された。この中の「尾道アポッポッポ」は、
藤井清水氏《福中を明治43年(1910年)卒の後輩》が曲をつけている。
・第6童謡集『雀よこい』《昭和31年(1956年)刊、童謡45年記念》
昭和11年(1936年)以後の作品1200余篇から30編を選び、さらに福原麟太郎・石井庄司両氏によって177篇にまとめられた。

明治44年(1911年)には母校の東京高等師範学校内に「大塚講話会」を興し童話の実際と著作に後進を誘導、少年団運動にも力を添えた。また健全な童謡の普及のために日本童謡月刊ポツポ子供会を主宰した。

昭和20年(1945年)4月、郷里八尋に疎開しここで終戦を迎えた。翌昭和21年(1946年)、福中1年先輩の
丸山鶴吉氏の懇請により、すでに広島県芦品郡新市町(現福山市新市町)に設置されていた私立至誠高等女学校(後の至誠女子高等学校)の校長に就任し、14年間にわたって郷土の子弟教育につくした。昭和34年(1959年)には74歳で退職、ふたたび上京して文京区西片町の旧居に住んだ。

氏は郷里にいた時にも、「タ日」、「キユーピーさん」、「羽衣」、「四匹のお馬」などの童謡のほか、全国各地から依頼される校歌・社歌、地域の歌などの作詞を続けた。その総数は、1000余篇に及ぶ。特に宮城道雄の300もの作曲のうち、「ワンワンニヤオニヤオ」、「子兎踊」、「花園」、「秋の草」など104曲を作詞した。なかでも管弦合奏付の大曲である「春の賦」は、最もよく演奏されている。

郷土文化向上にも、あらゆる協力をおしまず、その活動が評価され昭和29年(1954年)には、「中国文化賞」を贈られ、ポーイスカウト日本連盟最高の「鷹章」も贈られた。

趣味は子供好き、栗饅好き、箏は大好きと常にいっていた。

昭和36年(1961年)12月7日、母校東京教育大学構内で倒れ、ついに再起できず永眠した。享年75才。童謡を通しての児童教育一筋の生涯であった。
   (出典1)(出典4)
「葛原しげる先生童謡碑」
昭和38年(1963年)12月7日、3周忌に福山市神辺町八尋の生家門前に「葛原しげる先生童謡碑」が建立された。


葛原しげる先生と宮城道雄さん 内田百閧ウんたちの交友
 昭和22年卒 村上篤美
平成14年11月某日、朝日新聞の朝刊社会面に《土井晩翠の校歌さがし》と題する小さな記事が載っていた。「荒城の月」などの作詞で知られている晩翠の没後50年を記念して、晩翠の母校・仙台市の立町小学校の保護者らが中心となり、晩翠作詞の全国で約200の校歌を調査し、出来るだけ多く集めて校内に資料館をつくり…云々というものだった。

この記事を目にして、私がとっさに思いうかべたのは、母校の大先輩・葛原しげる先生のことだった。誠之館高校の前身である福山中学を明治36年(1903年)に卒業された葛原先生は、生涯で400をこえる校歌や社歌を作詞されたといわれている。

先生が福山中学(後に誠之館中学)や誠之館高校の校歌を作詞されたことは承知していたが、他にどんなものがあり、調査や整理などは進んでいるのかどうか気がかりでもあったからである。

聞くところによると、葛原先生の祖父で著名な箏曲家・葛原勾当の設計で建てられた葛原邸の、補修や保存の話が地元の神辺町で進められているという。これはたいへん喜ばしいことだが、お孫さんのしげる先生の業績を調査し整理保存したりするのは、母校関係者の務めの一つではないだろうか。例えば、在校生の文芸部あたりが、継続的な課題として取り組むのも有意義だし、先生の作詞された校歌などの収集や出版活動をすでに行なっている《かんなべ文化振興会》などとの連携も検討されていいように思われる。

近代日本の唱歌や童謡の発展に功績のあった先人たち、北原白秋や野口雨情、サトウハチローさんたちの記念館は、所縁の地にそれぞれ建てられているというし、《てるてる坊主の館 浅原六朗文学記念館》や《月の砂漠記念館》などもあるという。

にも拘らず、4000篇もの童謡を作詞された葛原先生のモニュメントが、生家前に建立されている《童謡碑》だけだというのは、なんとしても淋しすぎる。(ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む)というあの有名な『夕日』は、幼い頃に誰もが聞かされたり歌ったりしたことだろう。しかし、その作詞者が神辺町ご出身だと知っている人はどれほどいるだろうか。

さらに忘れてならないのは、葛原先生が《祖父の貴重な遺品、『勾当日記』をひろく世間に認知させた》というご功績である。祖父・勾当は盲人ながら世に知られた琴や三味線の名手であり、その教授に携わる一方、自らが創案した木製活字を用いて、長年にわたって日記を書き続けた人でもあった。

しかし、もし孫のしげる先生がその日記を復刻.出版されていなかったら、日記は単なる葛原家の家宝にとどまっていたことだろう。現在では『勾当日記』の原本3帖11冊と木製活字など印刷用具一式は、広島県指定重要文化財に登録されており、葛原先生はご先祖に対する何よりの供養・孝養を果たされたことになる。

葛原先生はその生涯を通じて、教育者、童謡などの作詞者、児童雑誌の編集者として輝かしい業績を残されている。と共に、
宮城道雄さんたちとの交友を通してわが国の古典芸能・箏曲界の発展に計り知れないほどの貢献もなされている。

いまさら言うまでもなく、宮城道雄さんは、大正から昭和にかけての箏曲界の第一人者である。昭和4年(1929年)に自らが作曲・演奏した「春の海」は70年以上が経った今日でも、わが国を代表する名曲の地位を失っていない。

その宮城さんが神戸でお生れになったのは明治27年(1894年)で、8歳のとき失明宣告を受けられて2代目中島検校のもとに入門、11歳のときに免許皆伝。師匠の代稽古をつとめられた後、13歳のときに父の後を追うかたちで当時の朝鮮に渡られ、仁川や京城で箏や尺八を教えて一家の生計を支えられた。

大正6年(1917年)、23歳のとき上京され、葛原さんと知り合われている。同大正8年(1919年)5月宮城道雄自作箏曲第1回演奏会が本郷中央会堂で開かれているが、これは葛原さんたちの全面的支援によるものである。そして大正10年(1921年)の《第1回葛原しげる作歌子供のための童謡・民謡・童曲演奏会》には宮城さんも出演されている。

お二人の交友は昭和31年(1956年)6月、宮城さんが不慮の列車事故で急逝されるまで続いたが、それまでの間に生れた葛原作詞・宮城作曲の童曲は数知れない。

ところで、葛原さんが東京高師を卒業されたのは明治41年(1908年)であるが、以前から下宿されていた蓋平舘別荘にそのまま住み続けておられた。帝国大学正門前にあったその蓋平舘別荘に、岡山から上京してきた新帝大生の内田百閧ウんが下宿した。2人は以前からお互いに名前だけは知っており、ある日招かれて葛原さんの部屋を訪ねた内田さんは、片隅に立てかけてあった琴に目をとめる。内田さんにも琴にはいささかの心得があったことから2人は急接近することになる。

やがて2人で相談して一緒に宮城検校のもとに弟子入りすることになるのだがそのあたりの経緯は、「電気屋の葛原さん」と題する内田さんの軽妙なエッセイに詳しい。この一文は、最初は『葛原しげる追悼録』のために書かれたが、その後随筆集『波のうねうね』に収録され、内田さん没後に刊行された平山三郎編の『比良の虹・内田百關助M集』にも転載されている。この文章で葛原先生が電気屋にされているのは、そのじぶんすでにおつむりの頂上が明るくなりかけていたからである。稽古のため宮城家を訪れる2人は、玄関から案内を乞うのでなく勝手口をガタガタさせて、「へい、ガス屋です」「こんちは、電気屋です」などとフザケていたらしい。

しかし、この文章には見逃せない一節がある。
「朝鮮から東京へ出て来た無名の盲青年に、葛原さんがどれだけ力になったかは、宮城を知る限りの者はみんな知ってゐる…」
がそれで、在りし日の親友に対するしみじみとした追憶の思いが痛いほど伝わってくる。

『比良の虹』には内田さんの文章の他に内田・宮城の対談記録や、「内田さんのこと」「内田百闔≠フお稽古」などという宮城さんの文章も収められている。どれもたいへん読み応えがあって、宮城さんの筆力のほどがうかがえる。

葛原さんはその宮城さんの文章修業に一役も二役も買っておられるのである。長年にわたって宮城さんのそば近く仕えられた宮城喜代子さんの著書『箏ひとすじに』には、
「葛原さんは目の見えない宮城さんに、暇があると小説や詩を朗読して聞かせてあげ、眠っていた宮城さんの文学的才能を引き出された」
旨が記されている。

宮城さんは昭和10年(1935年)以降、次々と随筆集を出しておられるが、亡くなられた直後に刊行された随筆集『春の海』には、「鞆の津」という一篇が載せられている。これは、戦後間もない昭和23年(1948年)8月の尾道や鞆への演奏旅行の思い出を綴られたもので、葛原先生が登場されている。当時郷里の八尋村に帰住されていた葛原先生は、いったん鞆町へ出て来られた後宮城さん一行を迎えに行く舟に便乗されて、尾道まで出向いておられる。一刻でも早く宮城さんに会いたい、とのお気持からの行動ではなかったろうか。ちなみに、宮城さんの父上・国次郎さんは鞆町のお生れで、前記「鞆の津」の冒頭には、次の文章がみられる。

「私の家は先祖から広島県の鞆であった。父と母が神戸へ出て来て間もなく私が生れたので、私は神戸生れとなっているが自分としてはやはり先祖からの鞆を故郷のように思っている。」

それから、前にふれた宮城さんの「内田百闔≠フお稽古」には
「内田さんと初めて会ったのは葛原さんの紹介であった。文学士で箏の上手な人で、ぜひ私に教わりたいというので私は承知したのであった」
とあり、
「その時初めてのお稽古に(八重衣)と(新青柳)のおさらえをしたら爪音もよいし男の人でそれだけ弾ける人は珍しいほどで玄人もはだし
(ママ)であった」
と内田さんの腕前に感心されている。そして、
「はじめのうちは世間一般の師弟という関係にあったが、いつの間にか友人に化けてしまった」とある。

3人のうちでは、明治19年(1886年)生れの葛原さんが最年長者であり内田さんは3歳下、宮城さんは内田さんよりさらに5歳若かった。生れも育ちも違う3人の交友ぶりにはほのぼのとしたものがあり、傍目にも羨まれるほどであったろう。

最後に、これは蛇足の嫌いが無くもないが、太宰治の短編「盲人独笑」にも触れておくことにしたい。昭和15年(1940年)6月発行の同人誌に掲載されたこの作品について、太宰は後日、
「この短編は(葛原勾当日記)の仮名文字活字日記を土台にしてそれに私の独創を勝手に加味し…」
云々と述べている。そして、
「本来なら正孫の葛原しげる氏に、活字日誌の使用を許可していただくべきところだが、礼を尽くさないままに発表してしまった」
という文章を発表している。

ところが、太宰の作品を読まれた葛原先生は、それほどご立腹にはならず、お咎めもなかったらしい。と言うのも太宰は
井伏鱒二さんの弟子筋に当るし、葛原さんは井伏さんとは同郷で、しかも福山中学の先輩でもあられたからだろう。<井伏さんが卒業されたのは大正6年(1917年)>
(平成15年2月記)
【参考著作】
◇『葛原しげる追悼録』、角川書店、1964年刊
◇『比良の虹内田百關助M集』、平山三郎編、六興出版、1980年刊
◇『春の海』、宮城道雄随筆集、宮城道雄著、講談社、1993年刊
◇『箏ひとすじに』、楽聖・宮城道雄の遺業を継いで、宮城喜代子著、文園社、1990年刊
◇『教科書から消えた唱歌・童謡』、横田憲一郎著、産経新聞、2002年刊
◇『太宰治全集』(3)、太宰治著、ちくま文庫、1988年刊   
(出典5)


福山誠之館校歌
葛原しげる 作詞 『福山誠之館中学校第一校歌』
葛原しげる 作詞 『福山誠之館中学校第二校歌』
葛原しげる 作詞 『福山誠之館高等学校第一校歌』
葛原しげる 作詞 『福山誠之館高等学校第二校歌』


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
03854 葛原しげる 著 『葛原しげる作品集』(福山学生会雑誌より抜粋編集) 福山中学校友会 明治35年〜
大正4年
03907 葛原しげる 著 『島芙蓉』(中島優二君追悼録) 葛原しげる 明治43年
03855 葛原しげる 著 『葛原しげる作品集』(福山学生会雑誌より抜粋編集) 福山学生会 大正元年〜
昭和16年
03908 葛原しげる 編 『葛原勾当日記』 葛原重倫 大正4年
03791 葛原しげる 差出 「葛原しげる差出書簡」 昭和6年〜
昭和7年
03906 葛原しげる 著 『葛原しげる童謡集』 日本童謡社 昭和10年
01979 葛原しげる 編 『鈴鹿秀満翁遺詠 梅のうた集』 備南文化協会
代表高垣久太郎
昭和23年
03095 葛原しげる 著 『雀よこい 葛原しげる童謡集』 小学館 昭和31年
04470 葛原しげる 著 『童心詩集』(英語版・日本語版) 英光社 昭和45年
03094 葛原先生童謡碑建設委員会 編 『ニコピン先生葛原しげる追悼録』 角川書店 昭和39年
05210 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 編 『宮城道雄生誕100年行事特別展覧会 宮城道雄と鞆の浦』 福山市鞆の浦歴史民俗資料館活動推進協議会 平成6年
03856 矢田章人 著 『葛原しげると前田純孝』 平成10年
03170 佐々木龍三郎 著 『童謡詩人 葛原しげる』 平成12年
03101 葛原しげる作詞校歌編集委員会 編 『改訂 葛原しげる作詞校歌集 広島・岡山県版』 葛原しげる作詞校歌編集委員会 平成14年
03096 有本倶子 著 『前田純孝と葛原しげる』 短歌新聞社 平成14年
05558 松本健一 著 『地の記憶をあるく 盛岡・山陽道篇』 中央公論新社 平成14年
04526 菅茶山記念館 編 『「葛原家資料」にみる偉人たち』 菅茶山記念館 平成16年
04874 村上篤美 編 『海陸の快(註釈)』 村上篤美 平成16年
04875 村上篤美 編 『海陸の快(平成語訳』 村上篤美 平成16年
04577 葛原しげる作詞校歌集編集委員会 編 『葛原しげる作詞校歌集=全国版=』 葛原しげる作詞校歌集編集委員会 平成18年
04596 葛原しげる作詞校歌編集委員会 編 『再改訂 葛原しげる作詞校歌集 広島・岡山県版』 葛原しげる作詞校歌編集委員会 平成18年
05536 ふくやま文学館 編 『ふくやま文学館開館十周年記念 福山地方の詩と童謡』 ふくやま文学館 平成21年
06780 菅茶山記念館 編 『菅茶山記念館第十九回特別展 生誕125年葛原しげる〜ニコピン先生の足跡』 菅茶山記念館 平成23年
06780 ふくやま文学館 編 『「福山の文学」第13集 葛原しげる著『口語詩集 子猫の鈴』『童謡 白兎と木馬』』 ふくやま文学館 平成24年
07148 佐々木龍三郎 著 『ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む 童謡詩人 葛原しげるの生涯』 文芸社 平成26年
04111 葛原しげる碑写真 恩師の面影


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氏 名 名   称 制作/発行 日 付 コメント
葛原しげる 著 『教訓仮作物語』 国定教科書共同販売所 明治41年 共著
葛原しげる 著 『絶島探検十五少年物語』 大正5年
葛原しげる 著 『育児物語一姫二姫三太郎』 大正6年 高島平三郎序
葛原しげる 著 『尋常六年課外読本 一月の巻』 大正7年
葛原しげる 著 『尋常五年課外読本 二月の巻』 大正7年
葛原しげる 著 『尋常五年課外読本 三月の巻』 大正7年
葛原しげる 著 『大正松年唱歌伴奏附楽譜 第四 羽衣』 目黒書店 大正9年 梁田貞作曲
葛原しげる 著 第一童謡集『白兎と木馬』 大正11年
葛原しげる 著 第二童謡集『こんころ踊』 大正12年
葛原しげる 著 『童謡と教育 内外教育叢書』 内外出版 大正12年
葛原しげる 著 『楽譜 春のゆくへ 女声二部 シンキヨウ楽譜502』 新響社 大正13年 アブト作曲
葛原しげる 著 第三童謡集『かねがなる』 培風館 大正14年
葛原しげる 著 第四童謡集『葦の笛』 培風館 昭和3年
葛原しげる 著 『童謡小曲選集第16集「如意輪堂」』 京文社 昭和7年 弘田龍太郎作曲
葛原しげる 著 『童謡教育の理論と実際』 隆文館 昭和8年
葛原しげる 著 『鑑賞 面白い童話読本(三年の巻)』 明治図書 昭和9年
葛原しげる 著 『鑑賞 面白い童話読本(四年の巻)』 明治図書 昭和9年
葛原しげる 著 『高島先生教育報告六十年』 記念会 昭和15年 共著
葛原しげる 著 『童話話材集 少国民進軍歌』 昭和19年 共著
葛原しげる 著 『海に光る壺 久留島武彦童話50年記念童話集』 昭和24年
葛原しげる 著 『いつもにこにこ』


ここでは、便宜上「葛原しげる」とした。
「しげる」部分は左の文字が正しい。
葛原しげる氏のお名前について、しげる氏のご子孫である葛原眞氏のご教示を賜りました。
ありがとうございます。
出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、10頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月
出典2:『ニコピン先生葛原しげる追悼録』、葛原先生童謡碑建設委員会編、角川書店刊、昭和39年3月29日
出典3:『葛原しげると交遊』(私家版)、矢田章人編刊
出典4:『誠之館百三十年史(上巻)』、780頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典5:『誠之館同窓会会報第10号』、9頁、「葛原しげる先生と宮城道雄さん内田百閧ウんたちの交友」、村上篤美、福山誠之館同窓会編刊、2003年6月1日
出典6:『忘れられた街道をたずねて−福山歴史文学紀行−』、49頁、杉原耕治著、現代教育研究所刊、2007年10月22日
出典7:『福山の碑』、41頁、「ぎんぎんぎらぎら 葛原しげる先生童謡碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日
関連情報1:『福山学生会雑誌(第50号)』、2頁、「寒い冬の−福山」、葛原しげる、福山学生会事務所編著、大正6年1月1日
関連情報2:『福山学生会雑誌(第67号)』、67頁、「帰郷雑景」、八尋里人、福山学生会事務所編著、昭和3年12月30日
2005年1月18日更新:経歴●2005年3月22日更新:同窓会所蔵品・出典●2005年4月19日更新:経歴・出典●2005年5月19日更新:本文●2005年8月18日更新:関連情報へのリンク●2005年9月1日更新:所蔵品●2005年12月22日更新:所蔵品●2006年1月17日更新:所蔵品●2006年1月18日更新:葛原しげる童謡集●2006年2月20日更新:所蔵品●2006年3月3日更新:経歴、本文(深安郡→福山市)●2006年6月8日更新:タイトル・本文・所蔵品●2006年7月11日更新:所蔵品●2007年10月2日更新:経歴・関連情報●2007年12月12日更新:経歴・本文・関連情報・出典●2008年3月27日更新:誠之館所蔵品●2008年5月13日更新:経歴・本文●2008年5月16日更新:本文●2008年7月10日更新:誠之館校歌・関連情報●2008年11月11日更新:誠之館所蔵品●2008年12月15日更新:経歴・誠之館所蔵品●2009年7月30日更新:経歴●2009年8月3日更新:葛原しげる童謡集・誠之館所蔵品●2009年11月25日更新:誠之館所蔵品●2010年2月4日更新:葛原しげる著書●2010年12月22日更新:しげる(漢字)●2011年11月30日更新:タイトル●2012年1月23日更新:誠之館所蔵品●2012年2月24日更新:誠之館所蔵品●2012年2月29日更新:経歴・本文・出典●2014年7月16日更新:誠之館所蔵品●2014年10月27日更新:誠之館所蔵品・探しています●2014年10月30日更新:誠之館所蔵品●2018年6月19日更新:氏名(説明)●